第九話「狸の算盤と二つの財布」
第九話「狸の算盤と二つの財布」
【東暦一五七四年 五月上旬・清須市内 三河開発 本社】
五月の澄み切った青空とは裏腹に、私の足取りは鉛のように重かった。
手にしたビジネスバッグの底には、あの足利金融の頭取室で手に入れた二通の書類――足利義昭の実印が押された『借地権譲渡承諾書』と、私が血の涙を呑んでサインを叩きつけた『足利金融特別借地規約・将軍奉公条項』の写しが重々しく沈んでいる。
(……胃が、痛い。朝から胃薬を三錠も水で胃に流し込んだというのに、ちっとも痛みが引きやしない……ッ!)
足利金融を出たあの日から、私の精神は完全にすり潰されていた。
夢にまで見た不労所得、年間百七十四万円の想定キャッシュフロー。
だが、その城の鍵を手に入れる代償として課されたのは、「足利義昭を将軍と崇め、招集に応じること」と「織田信長を裏で操り、月に一品は必ず新作メニューを開発させること」という、二重の首輪であった。
信長に新メニューを作らせる――それはすなわち、平蜘蛛の試作地獄を自らの手で起動し、自らの哀愁で圧力ゲージを爆発寸前まで引き上げる自殺行為に他ならない。
自由になるために始めた投資のはずが、なぜ私は、より過酷な奴隷の鎖を自ら首に巻きつけているのか。
(……だが、ここで引き返すわけにはいかないのだ)
私は三河開発のエレベーターの中で、奥歯をギリリと噛み締めた。
売主の猶予は二ヶ月を切り、時計の針は確実に進んでいる。
ここで投げ出せば、頭金として用意した三百万円を活用する計画も水泡に帰し、私はただの「足利金融の狂人頭取に隷属を誓った哀れな道化」として本能寺の厨房に取り残されるだけだ。
前進するしかない。
毒を食らわば皿まで。
徳川家康殿にこの承諾書を提出し、何としてでも融資の【本審査】を突破するのだ。
チン、と硬質な電子音が鳴り、最上階のドアが開いた。
◇
【三河開発・代表室】
「……ほう。本当に、あの義昭殿から承諾印をもぎ取ってこられましたか」
重厚なデスクの向こう側で、徳川家康殿が感嘆の声を漏らしながら、私が差し出した『譲渡承諾書』に押された朱印を確かめていた。
私は引きつった笑みを貼り付け、揉み手をしながら頭を下げた。
「は、はい! 家康殿の仰る通り、極めて癖の強いお方ではございましたが……私なりの誠意と、本能寺で培った折衝能力を総動員いたしまして、なんとか無事に承諾を取り付けてまいりました! 事前審査の条件であった『地主の譲渡承諾』はこれでクリアです。つきましては……購入資金二千七百万円の、正式な【本審査】の承認をいただきたく存じます!」
勝った、と私は思った。
最大の難関だった地主の判はここにある。
あとは本審査を通過し、正式な契約と決済を行えば、三千万円のアパートは晴れて私のものになるはずだ。
しかし――家康殿の分厚い指先は、承諾書の下に重なっていた、もう一枚の書類でピタリと止まった。
金色の文字で厳かに印刷された、あの忌まわしき書面。
『足利金融特別借地規約・将軍奉公条項』。
「……明智殿。これは何ですか?」
「えっ……あ、いや、それは……その……」
心臓が跳ね上がった。冷や汗が一気に背中を伝い落ちる。
家康殿は眼鏡の位置を指先で直すと、第一条から第三条に至る文面を、一文字ずつ噛み締めるように黙読し始めた。
室内の空気が、急速に凍りついていく。
家康殿は第三条の末尾を読み終えると、書類を閉じずに数秒間だけ黙り込んだ。
その指先が、規約の「新作献上」の文字の上で静止している。
(まずい……! やはり見咎められた! こんな公序良俗に反するような異常な条項、まともな金融機関が融資条件として認めるはずがない……! 『契約条件に重大な瑕疵あり』として、本審査で融資を叩き落とされるのでは……!?)
激しい後悔が脳髄を灼く。
あの時、義昭の脅しに屈せず、一度持ち帰って家康殿に相談していれば――いや、相談したところで義昭は判を押さなかっただろう。
どのみち詰んでいたのだ。
私の顔から血の気がサーッと引いていくのを、自覚した。
やがて、家康殿は書類を机の端へ静かに置いた。
その表情には、深い呆れと、隠しきれない苦言の色が浮かんでいた。
「……明智殿。サインをする前に、私へ一言相談してほしかったですね」
「も、申し訳ございません……ッ!」
私は咄嗟に立ち上がり、深々と腰を折った。
「売主の猶予が残り二ヶ月を切っており、焦るあまりその場で押し切られてしまいました! ですが、法的にはこんな私的な奉公義務など無効とされる余地も――」
必死に弁明を捲し立てようとした私を、家康殿はスッと片手を挙げて制した。
そして――。
「明智殿。あなたは、この規約がある限り、本能寺を簡単には辞められない。そう理解していますね?」
「……え?」
私はぽかんと口を開けた。
家康殿の口調は静かだったが、その瞳の奥には冷徹な光が宿っていた。
「……はい。義昭殿の要求――月に一品の新作献上を怠れば、規約違反を盾に契約解除を通告し、土地の明け渡しを求めてくると脅されております。本能寺の店長として信長社長を動かし続けない限り、このアパートの存続そのものが危うくなります」
「なるほど。では、あなたが本能寺で働き続けることを前提に、返済計画を改めて確認しましょう。もちろん、それだけで融資を決めるわけではありません」
家康殿はデスクの上で両手の指を組み、眼鏡の奥の細い目を、まるで獲物を罠に追い込んだ古狸のようにスッと細めた。
「物件の収益性、修繕リスク、そしてあなた自身の資金管理。この三つを踏まえて、最終的な判断を下します」
(な、なんだ……? なぜ家康殿は、怒るどころか前向きに話を戻しているんだ……?)
家康殿の真意は、まだ私には見えていなかった。
◆
家康の視点から見れば――この狂気の特別借地規約は、融資の減点材料であると同時に、思いがけない意味を持っていた。
家康が最初から危惧していたのは、築二十年のアパートの修繕リスクでも、七戸入居という空室リスクだけでもなかった。
現在の家賃収入(月四十二万円)から地代(月五万円)と通常の運営経費(月十万円)を差し引き、月々の元利返済(約十二万四千円)を払っても、現状の想定どおりなら毎月約十四万五千円のキャッシュフローは残る計算だ。
物件の収益そのものは、平時であれば返済の柱になり得る。
だが、未確認の屋上防水や給湯器の交換履歴が、将来の修繕費をどこまで押し上げるかはわからない。
空室が増え、突発的な修繕が重なれば、計算上の余裕など簡単に吹き飛んでしまう。
そして、もう一つ――極めて重大な懸念があった。
借り手である明智光秀本人が、過酷な本能寺の労働環境に耐えかねて突発的に退職し、高額な給与を失ってしまうことだ。
もちろん、光秀の収入は成果給であり、店の業績や本人の成果によって変動する。
固定給のような絶対的な保証はない。
それでも、毎月三百万円を超える収入を叩き出してきた実績は破格であり、彼が本能寺で働き続ける限り、物件の収支が崩れた際に不足分を補う強力な予備の安全弁となる。
もし光秀が不動産を手に入れた気になって本能寺を辞めてしまえば、その予備の返済余力は一瞬で消滅してしまうのだ。
ところが――この足利義昭が突きつけた規約は、あろうことか「月に一品、本能寺で新作を作らせるよう信長を動かせ」と命じている。
新作を献上し続けなければ、アパートの借地契約を解除すると脅して。
もちろん、この条項が法的にどこまで通用するかは別問題だ。
しかし、アパートを失うことを恐れる光秀が、少なくとも当面は本能寺を辞める決断をためらうことは間違いない。
(……なるほど。義昭殿が光秀殿を本能寺に縛りつけ、私がその成果給を物件の安全弁に変える。本人にとっては災難でしょうが、融資する側からすれば、これほど都合のよい条件もありませんな)
家康は内心でほくそ笑んだ。
光秀はこのアパートを守るためだけに、絶対に本能寺を辞めることができなくなったのだ。
光秀が本能寺に留まり、働き続けて成果給を得る前提が固まったことは、融資の回収可能性において極めて大きなプラスであった。
だが、これだけで安全が確保されたわけではない。光秀が働き続けて得た成果給を、今度こそ投機で失わせない仕組みが必要だった。
◆
家康殿は引き出しから、真新しい銀行取引関連の書類一式を取り出し、私の目の前に並べた。
「明智殿。あなたがそこまで泥を被ってでもこの物件を買い進め、本能寺で働き続ける覚悟があるというのなら、我が社としても無下にはいたしません。しかし――これだけの特約リスクを抱え込んだ以上、貸し倒れを防ぐための『厳格な保全措置』を講じねばなりません」
「ほ、保全措置……ですか?」
私は小さく身を縮めた。
「明智殿。あなたの最大の弱点は、手元にまとまった現金が入ると、気が大きくなってハイレバレッジの投機に全額を突っ込み、一晩で溶かしてしまうその資金管理の危うさにあります」
「うっ……!」
心臓を的確に槍で突かれたような痛打。
「毎月三百万円を超える成果給があろうとも、あなたがその全額を先物や暗号資産で吹き飛ばしてしまえば、物件の収支が崩れた瞬間に我が社への返済は滞る。そこで――【そこで――給与の振込先を、二つに分けていただきます 】」
「口座を……二つに?」
私は瞬きをした。
「ええ。毎月の給与のうち五十万円を、今回新たに開設していただく『三河開発指定の返済管理口座』へ、会社から直接振り込んでもらいます。もちろん、本能寺の経理を担当されている丹羽長秀殿には、あなた自身の同意を得たうえで正式な手続きを取ります」
家康殿は、書類の一枚を指先でトントンと叩いた。
「給与から毎月五十万円を入金し、これを修繕準備金として確保します。家賃収入から生じる余剰資金とは別枠です。屋上防水や給湯器の交換、長期空室による収入減少。そうした事態が重なっても慌てて借金を重ねずに済むよう、まずは資金を確保するのです。もちろん、準備金が一定額に達した後は、毎月の積立額を見直す余地もあります」
「……毎月五十万円を、使わずに積み上げるのですか?」
「ええ。あなたが相場に投じてしまう前に、物件を守る資金として確保するのです。利益を増やすことよりも、まず破綻しないことを優先する。それが今回の条件です」
家康殿は電卓をパチリと弾き、冷徹なトーンで続けた。
「アパートの家賃収入は、原則としてこの返済管理口座へ入金していただきます。ここから地代、通常の運営経費、ローン返済を支払う。これらの定例支払いは、あらかじめ登録して自動で処理します」
家康殿は、続けて別の書類を指先で示した。
「そのうえで、一定額を超える臨時の出金や口座の解約には、我が社の承諾を必要とする特約を結んでいただきます。日常の定例支払いまで止めるわけではありません。あなたが投機のために資金を引き出すことを防ぐための措置です。給与のうち五十万円を返済管理口座に回し、残りは従来どおり生活口座へ振り込みます」
そこで家康殿はふっと表情を和らげ、私を試すように問いかけてきた。
「――さて、明智殿。家賃収入はこの返済管理口座に入金していただきます。そこから地代、通常の運営経費、ローン返済を支払い、【残った毎月の余剰金をどう扱うか。そこは、明智殿ご自身に選んでいただきましょう】」
「余剰金の……行き先を、ですか?」
「ええ。選択肢は二つです。一つは、毎月の手残り――現状の想定なら約十四万五千円を、あなたの『生活口座』へ移す方法。こちらを選べば、手残りのキャッシュフローは生活費や小遣いとして完全に自由に使うことができます」
家康殿は眼鏡を指で押し上げ、もう一つの書類を指差した。
「そしてもう一つは、余剰金をこの返済管理口座に残し、将来の不動産購入に備える方法です。この口座に残した預金は、自由に引き出せません。しかし、まずは修繕に備える資金を確保する。その目標額を満たしたうえで、余剰金を次の物件の自己資金として積み上げていけば、将来あなたが次の不動産を購入する際、自己資金として評価できます。もちろん、次の融資には改めて審査が必要ですが、投機で消えてしまうはずだった資金が、次の城を買うための土台として残る。それは大きな違いでしょう」
「つ、次の不動産への自己資金……!」
胸が大きく高鳴り、同時に激しい葛藤が渦巻いた。
生活口座へ移せば、毎月約十四万五千円というまとまったキャッシュが手に入り、すぐに自分の懐を潤すことができる。
不動産投資の果実を今すぐダイレクトに味わえるのだ。
だが――。
(……待て。本当にそれでいいのか……?)
私の脳裏に、冷徹な現実が突き刺さった。
(……どのみち、ここで自由に使える生活口座を選んだとて、入ってくるキャッシュフローだけでは、本能寺を辞めた後の生活費など到底賄えないではないか……!)
月に十四万五千円。
そこから想定外の修繕費や長期空室による損失が出れば、手元に残る金額はさらに目減りする。
これだけで信長社長の狂気から脱出し、安定した隠遁生活を送るなど土台無理な話なのだ。
それどころか、生活口座に毎月十四万五千円の半端な金が入ってきたらどうなる?
「この十四万五千円で先物や草コインを転がせば、来月には百万円になるのでは……?」
などと血迷い、結局また相場の魔物に全額を呑まれて四百二十円に逆戻りするのが関の山だ!
(自由を手に入れれば、私はまたその自由で己を破滅させる……ッ!)
私に必要なのは、今すぐ使える金ではない。
いつか本能寺を辞めても困らないだけの資産を、今度こそ失わずに積み上げることだ。
自由に使える金が減るのは、投資家として屈辱かもしれない。
だが、手元に金があるたびに何をしてきたかは、私自身が骨の髄まで知っている。
「……家康殿」
私は大きく息を吸い込み、迷いを断ち切って告げた。
「家賃収入の余剰金も……【返済管理口座に残します】!」
家康殿の眉がピクリと動き、その口元に満足げな笑みが浮かんだ。
「……ほう。目先の小遣いではなく、仕組みによる資産形成を選ばれましたか。賢明なご判断です」
家康殿は居住まいを正し、静かに頷いた。
「よろしい。物件の収益性と修繕リスク、あなたの給与収入、そして今回の資金管理条件。これらを総合的に判断し、融資を承認します」
家康殿は重厚な本審査書類に万年筆を走らせ、トン、と印鑑を押した。
「融資額は二千七百万円。ただし、実行には売買契約書などの必要書類と、契約内容の最終確認が必要です」
「……あ、ありがとうございます……ッ!」
書類を受け取った私の指先は、歓喜と重圧、そして形容しがたい疲労感で小刻みに震えていた。
融資の本審査は通過した。
残る手続きさえ滞りなく進めば、二千七百万円の融資を受け、三千万円の物件を購入できる。
ついに、私は自分自身の城を手に入れられるところまで来たのだ。
長い面談を終え、代表室を出た頃には、空が夕暮れに染まっていた。
三河開発のビルを見上げる私の胃には、鉛を飲み込んだような重苦しさが居座っていた。
頭上には、二人の狂人。
厨房で「美味い料理を作らせろ」と吼え猛るオーナー・織田信長。
そして、アパートの土地を握り、「月一で新作を献上しろ」と命じる将軍・足利義昭。
さらに足元には、毎月確実に私の給与を先取りし、家賃の余剰金すらもガッチリと囲い込んで算盤を弾く徳川家康の自動管理システム。
「……不労所得で、自由になるはずだったのに」
ポツリと漏らした私の呟きは、初夏の夕風にかき消された。
逃げるために手に入れようとした城の代償は、給料と家賃を自ら差し出し、二人の暴君に仕え続けるという、前よりも高性能な「労働の檻」であった。
「……胃薬、新しいのを買ってから本能寺に戻るか……」
私は力なくドラッグストアの方角へと歩き出した。
破滅の不動産投資は、いよいよ売買契約の締結、そして残代金決済という最後の関門へと向かっていくのであった。




