第十話「薄氷の決済と最後の引渡」
第十話「薄氷の決済と最後の引渡」
【東暦1574年 5月24日・決済前夜の自室】
自室のちゃぶ台の上で、私は電卓のキーを指先が擦り切れるほど叩き続けていた。
カタカタカタ……ッ!
「……た、足りない。あと、7万4000円足りない……ッ!」
液晶画面に表示された冷酷なマイナス表示を前に、私の額から滝のような脂汗が吹き出した。
明日はいよいよ、清須郊外のアパートの売買契約完了および残代金決済の日だ。
売主から突きつけられた「2ヶ月以内」というデッドラインの、まさにリミットギリギリの瀬戸際であった。
頭の中の算盤が、警報を鳴らしながら火花を散らす。
物件価格は3000万円。
三河開発からの融資実行額は2700万円。
したがって、私が現金で用意しなければならない自己資金による残代金支払額は300万円。
だが――不動産取引という怪物は、物件価格と頭金だけで完結するほど甘くはなかった。
仲介手数料、建物の所有権移転に伴う登記費用および司法書士報酬、固定資産税・都市計画税の日割り精算金、借地権の地代の日割り分、そして火災保険料……。
それら諸費用の概算合計、実に約180万円。
「自己資金300万円に諸経費180万円……明日、私が決済の場に持ち込まねばならない手持ち資金の総額は、480万円……ッ!!」
480万円。
普段の私なら、聞いただけで卒倒するような天文学的な金額だ。
何しろ数ヶ月前までの私は、ハイレバFXと草コインのドブ漬け投機を繰り返し、給料が入るたびに全額溶かしては残高420円の落武者へ転落していた男なのだから。
今さら購入を断念すれば、これまでの泥臭い交渉も、義昭の屈辱に耐えて勝ち取った承諾書も、家康殿から取り付けた融資承認もすべて水泡に帰す。
何より、ここで逃げれば、私は一生また相場に逃げ込み、残高420円の落武者に逆戻りする気がした。
だからこそ、私はもう引き返せなかった。
手元には、先月の成果給から生活費を切り詰めて残した現金約140万円。
そして――明日、5月25日は、本能寺の今月の給料日であった。
「頼む……長秀、頼むから今月も満額以上を振り込んでくれ……ッ!」
私は祈るような思いでスマートフォンを握りしめ、午前0時を回った瞬間にネットバンキングの画面を狂ったようにリロードした。
『クルクル……ピッ』
画面が切り替わる。
【今月の成果給振込額:348万2000円】
「き、キタァァァァァッ!!」
私は思わず畳の上で飛び上がった。
先月、信長様が急に思い立って始めた「牛すじ肉の超高圧軟化実験」に付き合わされ、三日三晩不眠不休で平蜘蛛の圧力ゲージを睨み続けた地獄の労働が、348万円という数字になって口座に着金していたのだ。
だが――歓喜に浸っていられたのは、わずか数秒であった。
「……あ」
血の気がサァッと引いた。
即座に電卓を叩き直す。
既存の残高:139万2000円。
今月の給料:348万2000円。
合算残高:487万4000円。
そして、明日の決済で右から左へ消えていく金額―― 自己資金分300万円 + 諸費用および日割り精算金180万円 = 合計480万円。
「よ、480万円引かれたら……残る金は、7万4000円……!?」
愕然とした。
家康殿と交わしたあの厳しい融資承認の条件が、脳裏を雷鳴のように駆け巡る。
『自己資金を支払い、諸費用を清算したあと、当面の修繕や突発的な出費に耐えうるだけの現金は残りますか?』
『……もちろんです!』
あの時、私は迷うことなく大見得を切った。
しかし現実はどうだ。
残高7万4000円。
突発的な修繕はおろか、給湯器が1台壊れただけで即死。
来月の生活費やドラッグストアの胃薬代すら危うい、極限の自転車操業ではないか!
しかも、家康殿との契約により、来月からは給与のうち50万円を返済管理口座へ振り分ける約束があり、家賃の余剰金約14万5000円もすべてロックされるのだ。
「綱渡り……! あまりにも細すぎる針金の上を歩いている……ッ!」
もし明日、司法書士の計算ミスで日割り精算金が7万5000円上振れしたら?
もし売主から「固定資産税の端数が抜けていた」と言われたら?
その瞬間に資金ショートを起こし、決済不履行で違約金を請求され、すべてが破滅する!
「寝られない……! こんな心臓が破裂しそうな状態で、寝られるはずがないィィィッ!!」
私は夜通し、通帳の数字と精算書の明細を何十回も見比べ、指先を噛みながら朝の光を待ったのだった。
◇
【東暦1574年 5月25日 午前10時・三河開発 本社 会議室】
重厚な会議室の円卓。
窓の外には初夏の陽光が降り注いでいたが、室内の空気は氷点下のように張り詰めていた。
上座には、貸金業者としての冷徹な眼光をたたえた徳川家康殿。
その隣には、三河開発が手配した司法書士の男。
そして私の向かい側には、あの焦燥に駆られていたアパートの売主が座っている。
売主の顔色は心なしか青白く、2ヶ月の交渉期限の重圧から解放される最後の瞬間を、祈るような目で待ち望んでいた。
「それでは、清須市郊外の鉄骨造二階建てアパートについて、残代金の決済と物件の引き渡しを開始いたします」
司法書士の落ち着いた声が響く。
テーブルの上には、建物の権利証、売買契約書、登記関係書類、そして足利金融の義昭が朱印を押した『借地権譲渡承諾書』が整然と並べられた。
司法書士が手元の書類を指し示した。
「三河開発からの融資金2700万円は、すでに決済用口座への着金を確認しております。明智殿、続いて自己資金分の残代金300万円と、本日の諸費用総額179万8000円について、指定口座へのお振り込み手続きをお願いいたします」
(ひ、179万8000円……!?)
胃袋がキリキリと悲鳴を上げた。
事前の概算より2000円安い!
奇跡だ!
神仏のご加護だ!
だが安いと言っても、手元に残る現金は7万6000円。
文字通り首の皮一枚である。
私は震える右手に渾身の力を込め、万年筆を握った。 この振込手続きを完了させれば、私の個人口座から一瞬で479万8000円が消え去る。
昨日まで血反吐を吐いて稼ぎ出した給与と手持ち資金のすべてが、跡形もなく引き落とされるのだ。
(い、行くのか……? 本当に、全財産を突っ込んでこの城を買うのか……!?)
脳裏に、佐久間信盛さんの言葉が蘇る。
『不動産はね、自分の頭で計算し、リスクを管理して人生を買い戻すゲームなんだ』
そうだ。
私は博打を打っているのではない。
先物や暗号資産のように、実体のない電子の泡に消えるのではない。
この金は、毎月42万円の家賃を生み出し、いずれ私の人生を買い戻してくれる堅牢なる礎石へと姿を変えるのだ!
「……お願いしますッ!!」
私は気迫を込め、振込手続きの書類に署名・捺印を叩きつけた。
銀行の電算システムが回る、重苦しい数分間の沈黙。
やがて、売主の手元のスマートフォンが震えた。
売主は恐る恐る画面を確認し――次の瞬間、顔を両手で覆って深々と息を吐き出した。
「……着金を、確認いたしました。全額、相違ございません」
売主の声は微かに震えていた。
その目には、足利金融という底なし沼からついに逃げ切った、本物の生還者の涙が光っていた。
「ありがとうございます……明智さん。これで、すべて引き渡しです」
売主から、ずっしりと重いマスターキーの束と、入居者たちの賃貸借契約書原本が差し出された。
司法書士が書類をまとめ、深く一礼する。
「これにて残代金の決済と物件の引き渡しに必要な手続きは完了しました。これから所有権移転登記の申請を行います」
終わった。
本当に、終わったのだ。
家康殿が静かに立ち上がり、私に向かって右手を差し伸べてきた。
だが、その眼鏡の奥の目は、私の極限の懐事情を完全に見抜いていた。
「……明智殿。これで晴れて物件は手に入りましたが、手元資金はほとんど残っていませんね」
「うっ……そ、それは……」
「約束した修繕準備金は、来月からの積立で確実に確保していただきます。想定外の出費が出ても、相場に手を出して穴埋めしようとは考えないことですぞ」
「……は、はい。肝に銘じております……」
家康殿と硬い握手を交わした私の手は、冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
◇
【同日午後・アパートの前】
初夏の爽やかな風が吹き抜ける中、私は清須郊外のそのアパートの前に、一人で立っていた。
カバンの中には、全8戸中7戸が入居している賃貸借契約書の束。
そしてポケットの中には、真鍮製のマスターキーがジャラリと冷たい重みを主張している。
口座残高は、7万6000円。
直前の給料348万円と手持ち資金を文字通りすべて注ぎ込み、財布の中身は数千円札が数枚。
手元資金はすっからかんの、極限状態の綱渡り。
だが――見上げた鉄骨造2階建ての建物は、紛れもなく、今日この瞬間から『私の所有物』となったのだ。
「……買った。本当に、買えたんだ……」
胸の奥から、熱いものが込み上げてきた。
毎月、家賃収入として42万円が入ってくる。
地代5万円、運営経費10万円、ローン返済約12万4000円を差し引いても、約14万5000円の利益が毎月生まれる。
その金は家康殿の返済管理口座にロックされるとはいえ、確実に私の資産として積み上がっていくのだ。
もう、深夜の相場急落に怯えて追証の恐怖に震える必要はない。
チャートの上下に一喜一憂し、胃を痛めながらバイナリーオプションのバーを見つめる必要もない。
大地に根を張った、確固たる現物資産。
「ふふ……ふはははは! 見たか信長様! 見たか足利義昭!」
私は誰もいないアパートの駐車場で、両手を広げて天を仰いだ。
「私はついに手に入れたのだ! 自らの城を! 不労所得の泉を! これで一歩、確実に【大名】への階段を登り始めたぞ……ッ!!」
歓喜の雄叫びを上げ、勝利の余韻に酔いしれていた――まさにその時だった。
『ピロリロリロリロ――ンッ!!』
ポケットの中で、スマートフォンがけたたましく鳴り響いた。
画面を見ると、着信表示には――『足利金融・代表取締役室(将軍御座所)』。
「……ひっ!?」
心臓が跳ね上がった。恐る恐る通話ボタンを押す。
『――もしもし、明智か!? 余である! 足利義昭将軍であるぞッ!!』
スピーカーから鼓膜を破らんばかりの怒声が炸裂した。
『物件を手に入れて浮かれている場合ではないぞ! 決済が終わったそうだな! ならば余の家人としての義務、早速果たしてもらおうではないか!』
「は、はひッ!? しょ、将軍様、一体何事でございましょうか……!?」
『何事だとは無礼な! 特別借地規約第3条に基づき、今月分の【新作料理】はどうなっておるのだ! 余の元へ持って参る約束を忘れたとは言わせぬぞッ!!』
「え……ええええええええっ!?」
私の喉から、絶叫が飛び出した。
「ま、待ってください将軍様! 決済が終わったのはたった今です! 信長社長はまだ新作の試作すら始めておりません!」
『知ったことかッ! いいか、期日は【今月末まで】だ! あと6日のうちに信長に新作を作らせ、至高の一品を余の執務室へ献上せよ! もし今月中に持って来なければ、契約違反として即座に土地の明け渡しを求めてくれるわッ!!』
『ツー、ツー、ツー……』
通話が一方的に切られた。
「あ、あと6日……今月末まで……!?」
スマートフォンを握りしめたまま、私は白目を剥いて立ち尽くした。
あと6日で、あの気まぐれな織田信長を焚きつけ、新作料理を一から開発させろだと……!?
そんな無茶苦茶な開発を仕掛ければ、本能寺の厨房で平蜘蛛が爆発的な圧力で咆哮し、私の哀愁出力が過圧死の限界を突破してしまう!
(……ま、待てよ?)
パニックになりかけた脳裏に、ふと数日前の光景がよぎった。
(そういえば……つい先日まで付き合わされていた牛すじ肉の超高圧軟化実験の中で、信長様が気まぐれで作った【牛すじの黒胡椒赤ワイン煮込み】があったな……)
あの試作地獄の最中、信長様は「火力が足りん! こんな生ぬるい煮込みは本能寺のメニューにはならん!」と吐き捨ててボツにしていたが、調律師として毒味をさせられた私から言わせれば、信長様の狂気じみた旨味が凝縮された、試作群の中でずば抜けて一番出来が良い絶品料理だった。
(……あれだ。あの試作の中で一番出来が良かった牛すじの煮込みを、信長様に『やはりあの料理は至高でした、少しだけ煮詰め直して仕上げましょう』とおだて上げ、完成品として義昭のところへ持って行けば……!)
それなら、一から新作開発を焚きつけるよりも遥かに平蜘蛛の爆発リスクを抑えられる。
(いける……! それなら何とか今月末までに間に合わせられるかもしれない……ッ!)
残高7万6000円の極貧大家となった明智光秀は、新しく手に入れたマスターキーをポケットにねじ込み、首の皮一枚の城を守るため、本能寺の厨房へと全力で走り出すのであった。




