第八話「室町の亡霊と二重の上役」
第八話「室町の亡霊と二重の上役」
【東暦一五七四年 四月下旬・清須市内 足利金融本部ビル】
三河開発の徳川家康殿から融資の事前審査結果通知書を勝ち取った私は、その足で清須市中心部にそびえる重厚なオフィスビル――【足利金融】の本部へと乗り込んでいた。
昭和初期の銀行建築を思わせる、異様な重圧感を放つ御影石のファサード。
ロビーに足を踏み入れると、行き交う行員たちは誰も彼もが黒塗りのスーツに身を包み、能面のような無表情で機械的に会釈を交わしている。
室町の古き権威の残滓が濃密に澱む空間。
(……大丈夫だ。落ち着け、明智光秀)
私は胸ポケットの事前審査結果通知書を上からそっと押さえ、自らに言い聞かせた。
物件価格三千万円、頭金三百万円、三河開発からの融資二千七百万円。
収支シミュレーションの数字に一片の狂いもない。
地代を今後もきっちり払い続ける意思があり、融資の事前審査も通過している。
借地人として筋を通すつもりの私に、譲渡を断られる理由など法的にどこにもないはずなのだ。
案内された最上階の頭取室。
重厚な観音開きの扉を開けた瞬間、私の視界を金銀の極彩色が襲った。
「……っ!?」
床一面には、足利家の家紋である『二引両』が金糸で織り込まれた豪奢な絨毯。
壁際には刀掛けや鎧兜が物々しく並び、部屋の中央に置かれた巨大な黒漆塗りの執務机の奥には――。
仕立ての良いスリーピーススーツの上から、なぜか豪奢な白綸子の羽織を引っ掛け、手にした扇子をパチリと鳴らしている男がふんぞり返っていた。
机上の席札には、金文字で『将軍御座所』と彫り込まれている。
足利金融・代表取締役頭取、足利義昭その人である。
「お初にお目にかかります、足利頭取。私、喫茶『本能寺』の店長を務めております、明智光秀と――」
私が極めて丁重にビジネスの名刺を差し出し、頭を下げかけた――まさにその刹那。
「控えよッ!!」
室内に雷鳴のような一喝が轟いた。
机の脇に控えていた秘書の男が、鋭い眼光で私を睨みつけている。
「……えっ?」
私が呆然として顔を上げると、義昭は不快そうに眉を吊り上げ、扇子で私の顔先をビシッと指し示した。
「無礼者めが! 我が前において『頭取』などという無粋な俗称を口にするでない! 余を誰と心得る! 室町幕府の正統たる後継にして、東暦金融界の頂点に君臨する征夷大将軍――【足利義昭将軍】であるぞッ!!」
「しょ……将軍……!?」
思わず裏返った声が出た。
株式会社の代表取締役に対して「将軍」と呼べだと……!?
信盛さんの忠告が、脳裏を凄まじい勢いでリフレインした。
『あそこの頭取の家系もまた……筋金入りの狂人ばかりなんだよ』
『兄の義輝は刀剣狂いだったが、今は弟が頭取の椅子に座っているはずだ……』
(この男……兄以上にいかれてる!【将軍狂い】じゃないか……ッ!!)
社員にも、取引先にも、果ては土地を貸した相手にまで己を「将軍」と崇めさせ、主従関係を強要する危険人物。
私が戦慄していると、義昭は扇子をパタパタと仰ぎながら、鼻を鳴らした。
「ふん……まあよい。佐久間から話は聞いておる。あの借地権付きアパートを購入したいそうだな。申してみよ」
「は、ははッ……! 足利……しょ、将軍様!」
私は引きつった愛想笑いを浮かべ、礼儀も数字の提示も持てる全力を尽くして書類を差し出した。
「物件価格三千万円のうち、頭金三百万円を用意し、残る二千七百万円につきましては、投資会社『三河開発』から融資の事前審査を通過した旨の通知を受けております! 定期的な地代月額五万円も滞りなくお納めすることをお誓い申し上げますので、何とぞ……借地権の譲渡承諾書に、ご署名とご捺印を賜りたく存じます!」
義昭は差し出された書類をパラパラとめくり、フッと口角を吊り上げた。
「ふむ……三河の狸から金を引いたか。数字の辻褄は合っておるようだな」
「で、では……!」
「だがな、明智。通常であれば、借地権の譲渡承諾に際しては相応の承諾料――まとまった金銭を求めるところだ。しかし、余は寛大である。金の代わりに、我が足利金融が定める『特別借地規約』に合意してもらおうではないか」
義昭はスッと目を細め、机の上から一枚の書類を滑らせてきた。
表題には、金色の文字でこう記されていた。
『足利金融特別借地規約・将軍奉公条項』
第一条:借地権者は、日常・業務上のあらゆる呼称において足利義昭を「将軍様」と称すること。
第二条:将軍からの招集に対し、借地権者は昼夜・休日を問わず直ちに応じること。
第三条:将軍の求める【御恩と奉公】の義務を誠実に履行すること。
(第三条……! 何をさせられるのか、範囲がまるで限定されていないではないか……!?)
(いや、待て。土地を借りるための規約だ。まさか、本業にまで口を出してくるはずが……)
「って!ご、御恩と奉公ォォォッ!?」
私の喉から、悲鳴が噴き出した。
「しょ、将軍様……! 土地の賃貸借契約の付帯条件にこのような私的義務を盛り込むなど、あまりにも公序良俗やコンプライアンス的に問題があるのでは……!? せめてこの規約を持ち帰り、融資元の三河開発や専門家と確認する時間をいただけませんか!」
「ならぬッ!!」
義昭はドカンと机を叩いた。
「余が法であり、余が秩序である! 余の承諾を得る機会は、今この場にしかないと思え! 嫌ならば承諾印など押さん! 二ヶ月の期限とやらを過ぎて売主に白紙撤回され、一生平蜘蛛の丸椅子で泣き喚いておれッ!!」
「ぐ、ぐぬぅぅぅ……ッ!!」
激痛のような葛藤が、私の脳髄を締め上げる。
私は規約の署名欄に万年筆の先を近づけ、震える手でピタリと止めた。
頭金三百万円。
契約に必要な諸費用。
ここまで調べ、交渉し、家康殿の事前審査まで通した時間。
すべてを無駄にしたくない。
だが、胸ポケットの通知書には、まだ融資の最終承認ではないと記されている。
(……わかっている。これは、引き返すべき場面なのだ)
本来なら、この規約も家康殿に確認していただくべきだ。
こんな異常な条件が借地契約に組み込まれれば、本審査で融資を断られる可能性すらある。
だが、ここで持ち帰れば、義昭は二度と承諾印を押さないかもしれない。
売主の期限は残り二ヶ月を切っている。
今から別の物件を探し直し、現地を調査し、融資を引き直す時間など残されていない。
(いや、時間がないのではない。頭金三百万円を用意し、ここまで進めてきた計画を、いまさら白紙に戻したくないだけだ……!)
家康殿に相談すれば、確実に危険性を指摘され、止められる。
(……それだけは避けたい!)
サンクコストへの執着という名の毒が、私の理性を少しずつ蝕んでいた。
(呼ぶだけだ……! 将軍様と呼び、たまに呼び出しに応じて愚痴を聞くだけで済むなら……! 現在の七室入居でも年間百七十四万円。満室になれば、さらに収入は増えるはずだ。この程度の奉公、キャッシュフローを手に入れるためのコストと考えれば、安いものじゃないか……!?)
「……承知、いたしました。規約に同意いたします」
私は震える手で万年筆を握り締め、その理不尽な条項に署名・捺印を叩きつけた。
義昭は満足げに頷くと、重々しく実印を手に取り、譲渡承諾書へと朱肉を押し当てた。
「ふっ、話がわかるではないか、明智」
(か、勝った……! これで最大の障害は取り除かれた……!)
私は承諾書の朱印を何度も確かめ、胸に抱いて安堵の汗を拭った。
売買契約の締結も、融資の最終審査も、残代金の決済もまだ残っている。
まだ何一つ完了していない。
それなのに私は、朱色の印影を見つめながら、満室想定利回り十九・二%の三千万円の城をすでに手に入れた気になっていた。
――その油断が、命取りだった。
義昭は扇子をパチンと畳むと、爛々と目を輝かせ、身を乗り出してきたのだ。
「――ときに、明智よ」
「は、はい……?」
「余はな……何を隠そう、貴様が店長を務める喫茶『本能寺』の、大・大・大ファンなのだッ!!」
「……え?」
私の肩から、わずかに力が抜けた。
なんだ。
てっきり追加の地代や、さらなる金銭的な条件を要求されるのかと思った。
本能寺の料理を褒められるのは、店長として悪い気はしない。
あの暴君の料理に振り回され続けている身としては、評価されること自体は素直に嬉しくもある。
――もっとも、その評価のために、私がどれほど胃を痛めてきたかは知るまいが。
だが――義昭の口角が、凶悪なまでに吊り上がった。
「あの『本能寺』の特製モーニング! そして平蜘蛛の豚角煮と五大ソース! 実に天晴れな美味であった! 新作が出るたびに世間は信長の話題で持ちきりになる。余はその神域の料理を、誰よりも早く味わいたいのだ! ゆえに――これぞ貴様の初奉公と心得よ、明智!」
「う……初奉公……?」
義昭は机の上にビシッと人差し指を突きつけた。
「一つ! 今後、本能寺で新作メニューの試作が完成するたび、一番槍として真っ先に余の元へ献上して持参すること!」
「ぜ、前例のないデリバリー……!?」
「そして二つ! 信長という男は放っておくと一つの料理に執着し、新メニューの開発をサボる癖がある! 貴様が店長として信長を上手く操り、【一ヶ月に最低一品は必ず新作料理を作らせるよう、裏で誘導して動かせ】! 第三条の奉公に基づき、余の土地の上でアパートを営む貴様に課す、絶対の務めであるッ!!」
「な……ななな、なんですとおぉぉぉぉぉッ!?!?!?」
私の絶叫が、防音仕様のはずの頭取室に木霊した。
信長を一ヶ月に一品、新作を作らせるように動かせだと……!?
正気か!?
信長社長に新作を作らせるだけなら、言葉の上では簡単だ。
だが、あの男が一度新メニュー開発の狂気に取り憑かれたら、試作を一品で終わらせる保証などどこにもない!
平蜘蛛の六十連発試作で私の胃袋と哀愁がすり潰され、店は三度目の全焼危機に瀕し、清須全域が火柱と超高圧の地獄絵図と化すのだぞ!!
「ま、待ってください将軍様! 信長社長は誰かに操られて動くような人間ではありません! 私ごときがコントロールするなど土台不可能です!!」
「案ずるな!」
義昭は豪快に胸を張った。
「貴様はあの男の手綱を握り続けてきた名店長ではないか! もし月一の新作献上が途絶えたなら、余は規約違反を理由に契約解除を通告し、土地の明け渡しを求めてくれるわッ!」
(解除を通告する……!? いや、そんな理不尽な理由が法的に通るはずがない!)
そう思った。
だが――もし裁判沙汰に持ち込まれれば、売主の二ヶ月の期限など一瞬で過ぎ去り、三河開発の融資も消し飛ぶ。
私には争う時間も、弁護士を雇う余力すら残されていないのだ!
「理不尽の極みだァァァァァッ!!」
頭取室を出て、春の冷たいビル風に吹かれながら、私は膝から崩れ落ちた。
手の中には、確かに三千万円のアパートを手に入れるための『譲渡承諾書』がある。
不労所得を得て、信長様の狂気から脱出するために手を出した、夢の不動産投資。
だが、その代償として手に入れた現実は――。
厨房に行けば、己の料理狂いのために平蜘蛛で哀愁を搾り取り、設備増設を企む暴君・織田信長。
アパートへ向かえば、室町の権威を振りかざして月一の新作献上と御恩と奉公を強要する狂人・足利義昭。
「な……なぜだ……! 私は……私はただ、静かな純喫茶で平和に暮らしたかっただけなのに……ッ!!」
逃げ道を求めて買ったはずの城の鍵が、二人の狂人を己の頭上に戴く、逃げ場のない二重支配の首輪へと化けていた。
「う……うわあああぁぁぁッ! 胃が……胃が痛いィィィッ!!」
夕暮れの清須の空に、明智光秀の魂を削る慟哭が、哀しく、どこまでも虚しく響き渡るのであった。




