第七話「焦燥の買付と三河の算盤」
第七話「焦燥の買付と三河の算盤」
【東暦一五七四年 四月下旬・清須市郊外】
春の陽光が注ぐ中、私は佐久間信盛さんから渡された資料の住所を頼りに、その物件の前に立っていた。
鉄骨造二階建て、全八戸のアパート。
駅から徒歩七分という好立地にありながら、外観に目立つクラックはなく、ゴミ集積所も整然と掃き清められている。
私は建物の外周を一周し、外壁のひび割れ、共用廊下の汚れ、排水溝の詰まり具合を順に確認した。
階段の手すりを軽く揺すり、廊下の床に浮きや沈みがないかも目で追う。
目立った異常はない。
少なくとも、素人の目で見つけられる範囲では。
「築二十年超で、この管理状態……悪くない」
私は満足げに手帳へ丸印をつけた。
本来なら、修繕履歴の工事請負契約書や点検報告書、給排水管の内部劣化まで精査すべきなのだろう。
だが、事前に渡された概要書にある「五年前に給湯器一括交換、屋根防水塗装済み」という説明は極めて明快だった。
私は、その説明を裏付ける工事記録や点検報告書をまだ確認していないという事実に、意識を向けてすらいなかった。
「――おや、あなたが佐久間さんからご紹介の、明智さんですか?」
背後から穏やかな声がかけられた。
振り返ると、仕立ての良いスーツを着た、五十代半ばほどの柔和な男性が立っていた。
このアパートの現オーナーである。
名刺を交わすと、オーナーは丁寧な物腰で、敷地内を案内してくれた。
提示された入居一覧によれば、全八戸のうち、七戸が入居中だった。
「駅近ですから、退去が出ても募集をかければすぐに次の入居者が決まる手堅い物件ですよ」
オーナーの説明は澱みなく、誠実そのものであった。
だが――提示された売出価格の書類を目にした瞬間、私の心臓がドキンと跳ねた。
(……さん、三千万円!? いくらなんでも安すぎる……!)
全八戸、駅徒歩七分のアパートが、わずか三千万円。
土地の所有権がない借地権付き物件とはいえ、所有権付きの類似物件と比べれば、売出価格は六〜七割程度に見えた。
(それでも安い。いや、安すぎる……!)
私の目には、三千万円で手に入る高利回りの優良物件にしか見えなかった。
仮に満室稼働させれば、月四十八万円、年間五百七十六万円の家賃収入。
表面利回りは驚異の十九・二%。
現況の七戸入居(月四十二万円・年五百四万円)で計算しても、表面利回りは十六・八%に達する。
「……あの、オーナー様。これほどの好条件の物件を、なぜこの価格でお手放しになられるのですか?」
「いやあ、ちょっと事情がありましてね。資産の整理、とでも申しましょうか」
オーナーは笑った。
だが、私が「借地権の譲渡や名義変更についても、問題はないのですよね」と続けた瞬間、その笑みがほんのわずかに強張った。
「手続き自体は……ええ、書類をご覧いただければ」
言葉は淀みなく続いている。
なのに、その指先だけがポケットの中で落ち着きなく震えていた。
さらにオーナーは、腕時計に目を落としては、落ち着かない様子でこう付け加えたのだ。
「実は……できれば契約から引き渡しまで、二ヶ月以内にすべて完了させたいと考えておりましてね。手付金の額もご相談に応じますし、価格についても柔軟に考えます。とにかく、二ヶ月を過ぎる前になんとしても決済を済ませたいのです」
「二ヶ月……ですか? 仮に二ヶ月以内に決済できなかった場合、何か不都合でもあるのですか?」
「……いえ、私の都合です。個人的な事情でしてね」
オーナーは笑顔を作った。
だが、先ほどまで流暢だった説明が、そこで初めて途切れた。
二ヶ月という具体的な期限を口にした瞬間、オーナーの瞳の奥に、切羽詰まった影がよぎる。
(……この気配、知っているぞ……ッ!)
私の「哀愁探知レーダー」がけたたましく警報を鳴らしていた。
毎日、厨房の奥で『超高耐久仕様・平蜘蛛』と対峙し、自らの胃痛と哀しみを燃料として注ぎ込み、人の情動の揺らぎを肌感覚で察知してきた私である。
目の前のオーナーがまとっているのは、余裕ある資産家のオーラではない。
追い詰められ、夜も眠れず、一刻も早くこの場から逃げ出したいと切望する――逃亡者の放つ、強烈な【焦燥と不安】の波動であった。
(焦っている……。二ヶ月後に何がある? 地主との交渉期限か……!?)
信盛さんの忠告が、脳裏を電撃のように貫いた。
地主はあの【足利金融】。
借地契約そのものの残存期間は二十五年ある。
だが、売主は数ヶ月前から、借地権の譲渡承諾をめぐって地主と揉めているのではないか。
もし二ヶ月以内に決済できなければ、足利金融から新たな条件を突きつけられるのかもしれない。
譲渡承諾料の増額か、契約上の制約か。
それとも、もっと厄介な何かか。
確かなことは分からない。
ただ一つ、売主がこの物件を一刻も早く手放したがっていることだけは、嫌というほど伝わってきた。
だからこそ、その期限が切れる前に、誰かへ物件を売り渡したいのだろう。
直感が、明確に警告を発していた。
この安さの裏には、足利金融という巨大な暗雲が潜んでいると。
――だが。
私は手帳を開き、三千万円という売出価格を元に走り書きした収支シミュレーションを見つめた。
過去の私は、相場の勢いを読み切れると信じ、値動きに飛びついては資産を失った。
だからこそ、今度は違う。
この物件には、現に入居者がいる。
家賃も計算できる。
地代も経費も、ローン返済も、数字として手帳に書き出せる。
相場の気まぐれに賭ける必要はない。
私は、計算できる世界を選んだのだ。
――その計算に入っていないものが何なのか、考えようともせずに。
「……オーナー様。二ヶ月以内の決済を前提に、満額の三千万円で買付を入れさせてください」
私はカバンから取り出した買付証明書に署名・捺印し、相手へ差し出した。
買付証明書には、地主の譲渡承諾および融資承認を契約の前提とする旨も記載した。
書面上の備えは整えたつもりだった。
売主は買付証明書を受け取ると、署名欄を二度も確かめた。
「……ありがとうございます。これで、間に合うかもしれない」
その声は、私に礼を述べるというより、自分自身に言い聞かせるようだった。
死刑台から降ろされたかのような深すぎる安堵を滲ませる売主の姿を、私は見逃さなかった。
◇
次なる関門は、購入資金の調達――【融資】である。
元々の私の青写真では、土地を所有する地主の足利金融へそのまま持ち込み、「土地をお持ちの御行で、建物のローンもお借りしたい」と交渉するつもりであった。
だが――売主の尋常ではない怯え様を肌で感じた以上、最初から敵の本丸に頭を下げて飛び込むのは危険すぎる。
(地主が足利金融であることは変えられない。ならば……せめて融資だけでも、まともで話の通じる相手から引っ張らねばならない!)
私が選んだ相談先。
それは――かつて本能寺の『平蜘蛛』開発の際、個人の預金通帳からなけなしの百五十万円を出資してくれた恩人、徳川家康殿であった。
家康殿は長年勤めた大手外食チェーンを脱サラして独立し、投資会社『三河開発』を立ち上げていた。
近年では三河地域の有望なスタートアップ企業や設備投資に踏み切った中小企業へ的確に融資・出資を行うことで、金融業界で着実に地歩を固めつつある。
しかも風の噂によれば、三河開発は貸金業登録を済ませ、新規事業として「不動産賃貸業向け事業者ローン」の取り扱いを始めたばかりだという。
「……まさに、天の配剤だ」
私は三河開発の本社オフィスへと足を運んだ。
◇
【三河開発・代表室】
「……なるほど。明智殿が、不動産賃貸業をですか」
重厚なオーク材のデスクを挟み、仕立ての良いスーツを着こなした徳川家康殿が、眼鏡越しに私の持ち込んだ事業計画書と物件資料、そして直近の資産状況の明細を精査していた。
私は身を乗り出し、熱っぽく切り出した。
「はい! 駅から徒歩七分、価格は三千万円。入居率は八戸中七戸、約八七・五%です。外観を見る限り、目立った傷みもありません。現況でも表面利回りは十六%を超えます! ……そこで家康殿、ご相談なのですが、今回の購入資金三千万円に加え、登記費用や取得税などの諸経費も含めた【フルローン、あるいは諸費用込みのオーバーローン】で融資をお願いできないでしょうか!?」
手元のキャッシュを一切減らさず、全額を借入金で賄うオーバーローン。
それが叶えば、私の手元資金は傷つかず、毎月の家賃収入だけが積み上がっていく夢の不労所得マシーンが完成する。
しかし、家康殿は眼鏡の奥の目をすっと細め、静かに首を横に振った。
「……明智殿。いくら私どもが新規事業の実績を作りたいとはいえ、それは虫が良すぎるというものです」
「えっ……」
「物件価格三千万円に対して、借地権付き物件である以上、土地の所有権はありません。借地権自体に価値があるとしても、譲渡承諾や契約条件に左右される以上、担保としての評価は慎重にならざるを得ない。建物の評価だけで考えれば、物件価格満額の融資はリスクが高すぎます。……それに、明智殿」
家康殿は、提出された預金口座の入出金明細を指先でトントンと叩いた。
「給与が振り込まれるたびに、まとまった額が証券口座へ移されている。さらに、暗号資産関連と思われる入出金もある。明智殿、あなたは毎月三百万円以上稼いでいる。それなのに、なぜこれほど現金残高が安定しないのですか? これまでの資金運用の履歴を見る限り、投機的な取引を再開する懸念を完全に拭い去ることはできません」
ギクッ、と心臓が縮み上がった。提出した明細から、すべて見抜かれていたのだ。
だが、家康殿は電卓をパチリと叩き、私を鋭く見据えた。
「本来、物件の担保価値やあなたの投機歴だけを見るなら、この条件での融資はお断りするところです。しかし、明智殿の現在の給料――本能寺での専任調律師としての成果給は、毎月コンスタントに三百万円以上が振り込まれている。大手上場企業の役員すら上回る破格の属性です。今回は、その確固たる個人の返済能力も含めて判断しています。ですから……融資条件として、頭金を入れていただきたい」
「あ、頭金……ですか?」
「ええ。直近で振り込まれた平蜘蛛の成果給から、【頭金として三百万円】をきっちり差し入れてください。自己資金を投じることで、あなた自身の本気度とリスク耐性を示していただく。融資額は二千七百万円。登記費用や不動産取得税といった諸費用も自己資金で賄っていただくのが条件です」
家康殿は給与の振込記録と現在の預金残高を交互に確認し、淡々と続けた。
「借地契約の残存期間は二十五年。融資期間もその残存期間に合わせ、二十五年とします。融資額は二千七百万円、金利は年二・七%。月々の元利返済額は約十二万四千円、年間では約百五十万円です。現況の年間家賃収入五百四万円から、地代六十万円と、通常の管理費、税金、保険料、日常修繕費などの運営経費百二十万円を差し引けば、返済前の収支は三百二十四万円。そこから元利返済の百五十万円を払っても、年間百七十四万円――月額にして約十四万五千円が残る計算です」
家康殿は、そこで一度言葉を切った。
「ただし、これはあくまで机上の税引前の数字です。大規模修繕や長期の空室による損失まで、この百二十万円に含まれているわけではありません。給湯器や屋根の修繕履歴も、まだ裏付けが取れていないのでしょう?」
「……はい」
「ならば、百七十四万円をそのまま自由に使える利益だとは考えないことです。収益性が高いことと、万が一の貸し倒れ時に資金を回収できることは別問題ですからね。借地権の譲渡承諾が得られなければ、そもそも融資は実行できません。頭金を入れていただいたうえで、契約内容と譲渡条件を確認できるなら、融資を進める余地はあると判断します」
家康殿は資料から目を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。
「収入は十分です。しかし、収入の大きさと手元資金の厚さは別問題です。頭金三百万円を支払い、諸費用を清算したあと、当面の修繕や突発的な出費に耐えうるだけの現金は残りますか?」
「……もちろんです!」
私は即答した。
――実際には、余裕などほとんどない。
頭金三百万円と諸費用を払えば、残る現金は生活費と最低限の予備費で消えてしまう。
それでも、年間百七十四万円のキャッシュフローが見込めるのだ。
入居者さえ住み続けてくれれば、現金などすぐに積み上がる。
私は、そう考えることにした。
平蜘蛛の前で魂を削り取られて得た虎の子の三百万円。
投機で溶かすくらいなら、この堅牢な城の礎石にする方が遥かに有意義だ。
「……承知いたしました! 頭金三百万円、入れさせていただきます!」
私が頭を下げると、家康殿は頷き、条件付きの融資事前審査結果通知書に署名した。
「いいでしょう。借地契約の残存期間内に完済すること、そして頭金三百万円を投入することを前提に、事前審査を通します。……ただし、明智殿」
家康殿は万年筆を置き、案じるような眼差しを向けた。
「地主である足利金融からの譲渡承諾と、借地契約の内容確認が融資実行の絶対条件です。正式な契約条件が整うまでは、最終的な融資承認とはなりません。……足利金融の頭取・義昭殿は、室町の古い権威を笠に着て、極めて厄介な理不尽を押し通してくる。名義変更や譲渡承諾の手続きには、くれぐれも細心の注意を払ってください」
「はい! 肝に銘じます!」
頭では返事をしつつも、私の心はすでに歓喜で満たされていた。
地主の譲渡承諾も、融資の最終承認も、まだ残っている。
それでも私には、三千万円の城を手に入れる道筋が、ほとんど完成したように思えた。
「見ていろ信長様……! 私はもう、平蜘蛛の奴隷ではない! 自らの城を手に入れ、不労所得の力でこの地獄を脱出してみせる……ッ!!」
手帳を胸ポケットに叩き込み、私は意気揚々と三河開発のオフィスを後にした。 その足が向かう先は――古の権威が巣食う闇の巨塔、【足利金融】の本部ビルであった。




