第六話「歪なる礎石と古の金融」
【東暦一五七四年 四月中旬・ハイツ高野山 信盛の自室】
窓から差し込む春の柔らかな日差しの中、私は畳に正座し、手帳に猛烈な勢いでペンを走らせていた。
目の前には、白髪交じりの佐久間信盛が広げた、年季の入った不動産収支計算書と数枚の古びた方眼紙があった。
「では、実際の数字を見てみようか」 信盛は方眼紙の上に置かれた収支計算書を、私の前へスッと滑らせた。
「仮に、八部屋あるアパートで、一部屋あたり月六万円の家賃が取れるとする。満室なら月四十八万円、年間五百七十六万円の家賃収入だ」
私は瞬時に暗算した。
「年間五百七十六万円……!」
「もちろん、五百七十六万円がそのまま手元に残るわけじゃない。管理費や固定資産税、火災保険料、修繕用の積立金といった運営経費が差し引かれる。家賃収入から運営経費を差し引いたものを『純営業収益(NOI)』と呼ぶんだ。そして、そこからさらに銀行へのローン返済を引き、手元にいくら現金が残るかを確認する。その『返済後キャッシュフロー』を積み上げていくのが、不動産投資の基本だよ」
信盛は急須から番茶をすすりながら、淡々と語る。
「満室の数字だけを見て飛びつくのは、売上だけを見て飲食店を経営するようなものさ。家賃が入ってこなくても、銀行の返済日は待ってくれないんだからね」
(……わかる。痛いほどよくわかるぞ……ッ!)
私の胸の奥で、長年培ってきた「本能寺店長としての本能」が激しく共鳴していた。
数字の管理なら、私の最も得意とする主戦場だ。
かつて目標原価率三十%を死守するため、高級卵一個、バター五グラム、珈琲豆の仕入れ価格〇・一円に至るまで血眼になって電卓を叩き続けてきた私である。
家賃収入という売上、経費という原価、そしてローン返済という固定費。
手帳にサラサラと数式を走らせると、頭の中で立体的なキャッシュフローツリーが瞬く間に組み上がっていく。
「素晴らしい……! 数字がすべてを語ってくれる! 先物や仮想通貨のように、要人発言一つや夜間の暴落で全財産が電子の藻屑と消える博打とは根本から違います! 計算できる……これなら、私の緻密な管理能力で完全に支配できる世界だ……!」
信盛は私の前のめりな姿勢に、微かに眉を寄せて釘を刺した。
「計算できるのは、あくまで机の上の数字だけだよ、明智君。本当に怖いのはね、計算式だけでは読み切れない部分なんだ」
「計算式だけでは、読み切れない部分……?」
「そうさ。いくら机上で素晴らしい利回りを弾き出しても、入居者が入らなければ家賃は一円も入ってこない。空室が何ヶ月も続けば、返済だけが口座を削っていく。周辺に競合の新築物件が乱立する市況の変動、街の人口動態、建物の隠れた劣化や雨漏り……。現地に何度も足を運び、近隣の雰囲気や隣人の素行、昼と夜の顔の違いまで泥臭く確かめ尽くさなければ、数字の城なんて砂上の楼閣だよ」
信盛の静かな警告。
普通であれば、身が引き締まるはずの忠告であった。
だが――私は手帳を開き、ペンを走らせながら、心の中でせせら笑っていた。
・空室リスク → 需要のある駅近物件を選べば軽微。
・修繕リスク → あらかじめ収支計算のバッファに織り込む。
・現地調査 → 天下人たる信盛氏の知見をトレースすればクリア可能。
そして手帳の余白に、大きく力強い文字で書きなぐる。
『結論:私の計算力と信盛氏の知恵があれば、何を恐れる必要がある!』
私の脳内で、甘美な慢心が膨れ上がっていた。
入居者が付くかどうか?
市況の変動?
現地の泥臭い調査?
そんなものは、店舗の原価管理や発注業務と同じく、すべて『計算の範疇』として処理できる課題に過ぎない。
何より、私は今、純金融資産五億円を超える超富裕層【天下人】たる佐久間信盛から直々に教えを受けているのだ。
天下人の知恵をなぞっている私が、凡百の素人大家が引っかかるような初歩的な罠に落ちるはずがない。
信長様の狂気から逃れるためなら、多少のリスクなど、あの殺人圧力釜『平蜘蛛』の前に縛り付けられる毎日に比べれば、そよ風のようなものだ。
早く物件を手に入れ、早く不労所得の基盤を築き、あの地獄の厨房から解脱したい――その焦燥が、私の視界から不都合な現実を綺麗に消し去っていた。
私は乾いた唾を飲み込み、手帳をパタンと閉じると、上目遣いに信盛へ切り出した。
「佐久間さん。不動産投資の理論、完全に骨の髄まで理解いたしました。……そこで、不躾ながらお尋ねしたいのですが」
「ん? なんだい」
「ちなみに……この近隣で、佐久間さんが密かに目を付けているような、おすすめの優良物件などは……ないのでしょうか?」
信盛の手が、ピタリと止まった。
信盛は湯呑みを持ち上げたまま、細い目でじっと私の顔を見つめた。
その瞳には、「……おいおい、この男、私の話を本当に聞いていたのか……?」という、隠しきれない困惑と一抹の不安がアリアリと浮かんでいた。
しかし、信盛はふぅと小さく息を吐き出すと、サンダルを引きずりながら立ち上がり、棚の奥から分厚い茶封筒を一通取り出してきた。
「……あるには、あるよ」
「本当ですかッ!?」
私は思わず畳から身を乗り出した。
「駅からも徒歩圏内、立地としては申し分ない場所にある二階建てのアパートだ。周辺の賃貸需要も手堅いから、普通に運営していれば、かなりの確率で満室経営が維持できるだろうね」
「満室経営……! 素晴らしいじゃないですか!」
「それにね、明智君。その物件は、いわゆる【借地権付き】なんだ」
「借地権……?」
聞き慣れない単語に、私は小首を傾げた。
「土地と建物を両方買うとなれば、今の君の手持ち資金では頭金すら足りないだろう。だが借地権付きなら、土地は他人のもの、君が買うのは『建物の所有権』と『土地を借りて使う権利』だけだ。その分、物件価格が相場より大幅に安く抑えられる。本能寺の店長としての高額な給与実績があれば、金融機関から融資を引っ張って、君でも十分に買える規模だよ」
(買える……! 私でも、アパート一棟のオーナーになれる……ッ!)
胸の奥で、歓喜の鐘が乱れ鳴った。
土地を買わない分、初期費用が安い。
利回りも高くなる。
満室稼働を続ければ、ローンを返済しても相応の現金が手元に残るはずだ。
その手残りを積み上げ、借入金を返済した後に悠々自適の生活に入れば、平蜘蛛の前で命を削って成果給を稼ぐ必要など、綺麗さっぱり消滅するではないか!
だが、歓喜に震える私を前に、信盛は冷ややかなトーンで釘を刺した。
「ただね、借地権付き物件なら、土地を借りる対価として定期的に『地代』も発生する。管理費や税金、修繕費、空室への備えに加えて、その地代も差し引かなければならない。もちろん、その後には借入金の返済も待っている。土地を買わずに済むからといって、土地に関する費用までなくなるわけじゃないんだよ」
「地代……!」
私は手帳を取り出し、『地代=経費』と書き殴った。
(なるほど。ならば、その地代も含めて計算すればいいだけだ……!)
だが、信盛の忠告はそれだけに留まらなかった。
「問題は、数字だけじゃない。土地を借りる契約には期限があるし、何より建物を建て替えたり、将来第三者に売却してまとまった資金を作ろうとしたりする際に、地主の承諾や高額な承諾料が必要になる場合がある。安く買えるのには、安くなるだけの理由があるんだよ。土地を所有する普通の物件と同じ感覚で手を出すと、後で手痛い目に遭う」
「なるほど……。土地の所有権がない分、制約もあるということですね」
私は手帳に大きく『借地権=安い!』と書き殴り、その横に米粒のような小さな文字で『※制約あり』と書き添えた。
駅近で賃貸需要が強く、家賃収入が順調に入ってくるなら、売却の制約など些細な問題ではないか。
売る必要などない。毎月安定した家賃が入り続ける限り、私の自由は約束されるのだから!
「素晴らしい物件です! ところで佐久間さん、それほど収益性が高いなら、なぜ佐久間さんご自身で買われないのですか?」
私の問いに、信盛は腕を組み、心底うんざりしたように天井を仰いだ。
「――私は絶対に手を出さないよ。家賃収入だけを見れば悪くないがね、土地を所有し、借地契約の相手となる地主……つまり大元の相手が、『とある金融機関』だからさ」
「金融機関が地主……? 銀行が相手なら、むしろ個人の地主より話が通じて安心なのでは……?」
「馬鹿言っちゃいけない」
信盛は首を横に振った。
「昔、信秀様の無茶苦茶な起業狂いに付き合わされていたおかげで、俺もその金融機関とは腐れ縁があってね。あそこの頭取の家系もまた……信長社長のところと何ひとつ変わらん、筋金入りの狂人ばかりなんだよ」
「織田家と同じ、狂人……!?」
背筋に冷たいものが走った。
信盛は遠い目をしながら、忌々しそうに吐き捨てる。
「信秀様の時代の頭取は、義輝という男でね。これがとんでもない『いかれた刀剣狂い』だったのさ。融資の相談に行けば、話そっちのけで『どこぞの名刀をひと目見せろ、振るわせろ』だの、応じなければ金は貸さんだの、散々理不尽な無理難題を突きつけられたもんさ……」
「と、刀剣狂いの頭取……!?」
「今は代替わりして、その弟が頭取の椅子に座っているはずだがね。……あそこは単に土地を貸すだけの相手じゃない。契約書の一行一行にまで、妙なこだわりを持ち込んでくるんだ。土地を借りるときはもちろん、建て替えや、将来誰かに売る際にも、何をするにもあの銀行の顔色をうかがうことになる。契約上の条件を満たしていても、あいつらとの交渉がすんなり進むとは限らない。俺はあんな連中の手のひらの上でアパート経営なんて、御免被るね」
信盛は、そこで話を打ち切るように湯呑みを静かに置いた。
「まあ、君が買うというなら止めはしないがね」
止めはしない。
その言葉を、私は脳内で即座に「買っても問題はない」という意味へと都合よく変換した。
(狂人? 理不尽? 何を言っているんだ)
心の中で、傲慢な笑いがこみ上げる。
(私はあの織田信長の理不尽な暴力と、松永久秀の爆発兵器の狭間で、何年も生き抜いてきた男だぞ! 刀剣狂いだろうが何だろうが、相手が金融機関である以上、常識的なビジネスの場であれば、私の卓越した交渉術と数値管理で手玉に取ってみせるに決まっている……!)
私は身を乗り出し、喉を鳴らしながら尋ねた。
「佐久間さん……! その、地主である金融機関とは……一体、何という名前なのですか!?」
信盛は諦めと哀れみが混ざり合った、酷く乾いた声で呟いた。
「…………【足利金融】だよ」
室町の権威を思わせる古の看板を掲げた、闇深き金融の巨頭。
その名を聞いた瞬間、私の目には、新たな破滅への引き金が――黄金色の希望として、眩しく輝いて見えた。




