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喫茶厨房本能寺 - 明智光秀の投資道、時は今‼︎ -  作者: 本能寺


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第五話「老将の城と再現性の彼方」

【東暦一五七四年 四月中旬・深夜の喫茶厨房本能寺】



営業を終え、静まり返った店内のパントリー。


私は丸椅子に深く腰掛け、両手で頭を抱え、血を吐くようなため息を漏らした。


(……増えない。本当に、一円たりとも手元に残らない……ッ!)


丹羽長秀が組み上げた青天井のインセンティブにより、私の口座には毎月数百万円もの成果給が振り込まれる。


だが、FIREを焦るあまり、ハイレバ仮想通貨、バイナリーオプション、海外FXへと資金を注ぎ込んでは、ことごとく溶かしていた。


給料が振り込まれるそばから投機で蒸発させ、給料日の一瞬だけ【上位足軽】に浮上しては、数日後には残高ゼロの落武者へ逆戻りする。


その絶望が平蜘蛛を唸らせ、至高の料理と珈琲を生み出し、また成果給が振り込まれる。


悪魔の永久機関。私の精神と胃袋は、とうに限界を迎えていた。


(なぜだ……? これほど経済指標を分析しているのに、なぜ私のトレードはことごとく裏目に出る……!?)


相場に資産を吹き飛ばされ続けた結果、私の関心は皮肉にも、「株式」や「資本」という怪物の本質へと向かっていた。


労働者がどれほど汗を流し、投機で足掻こうと、資本主義のゲームで富を吸い上げ続けるのは、事業のオーナー――すなわち【株主】ではないのか?


ふと、事務机の奥のキャビネットに目が留まった。


帳簿の隙間に挟まれた、埃をかぶった一冊の黒いファイル。 表紙には、几帳面な筆致でこう記されていた。


『喫茶本能寺 設立時資本金・株主名簿』


「……株主名簿?」


信長様という男は、厨房と料理以外のことには一切執着がない。


この店の株式など、あの男が百パーセント握りしめて独裁を敷いているに決まっている――そう思い込みながら、私は何気なくページをめくった。


だが、印字された持ち株比率の円グラフを見た瞬間、私は目を丸くした。


「……え?」


織田信長:六十%。 確かに過半数は握っている。だが、残りの四十%を信長以外の人間が保有していたのだ。


第三位株主:徳川家康(出資額:百五十万円/保有比率:十%)。


(ああ、これは分かる。かつて平蜘蛛の共同開発の際、家康殿が個人の預金通帳からなけなしの金を出資してくれた時のものだ)


確か本能寺は、かつて出資してくれた家康殿に報いるため、あの西枇杷島まつりの『本能寺煙上』事件を乗り越えて以降、定期的に配当を出す方針を長秀が整えていたはずだ。


問題は、その家康殿の上に名を連ねる第二位の大株主だった。


第二位株主:佐久間信盛(出資額:四百五十万円/保有比率:三十%)。


「さ……佐久間、信盛……?」


記憶の底から、私はその名を手繰り寄せた。


あれは数年前――喫茶『本能寺』が開業したばかりの、ごく初期の頃だ。


厨房の片隅に、いつも気怠そうにパイプ椅子へ座り、やる気の欠片も感じられない目でナポリタンの具材を弄んでいた、あの初老の男。


『おい信盛! なぜもっとシャキシャキ動かんのだ! 客を待たせる気か!』


『いやぁ社長、そんなに焦っても美味いもんは美味くならんでしょ。適当に回せばいいんですよ、適当に……』


『ええい、鬱陶しい! 向上心のない奴など俺の厨房にいらん! 今日限りでクビだ、出て行けィッ!!』


信長様の凄まじい怒号を浴び、あっさりとエプロンを脱ぎ捨てて本能寺を去っていった男。


当時、常識人として店を支えようと必死だった私は、「なんて無責任で不誠実な男だろう」と冷ややかな軽蔑の眼差しを向けていたものだ。


「……だが」


私は自嘲の笑みを唇に浮かべ、乾いた息を吐いた。


「今にして思えば……あの男の行動こそが、唯一にして絶対の正解だったのではないか……?」


信長様の狂気を見抜き、早々に泥舟から飛び降りて逃げ延びた男。


しかも、ただ逃げたのではない。本能寺の株式の三割をガッチリと握ったまま、今や東海地方に名を轟かせる繁盛店となったこの店の【第二位の大株主】として君臨しているのだ。


煙上事件以降、きっちりと配当金を受け取り、平蜘蛛に哀愁を吸われることもなく悠々自適に暮らしているとしたら――。


ファイルに記載された佐久間信盛の現住所。


愛知県の片隅、とある郊外の町名が目に飛び込んできた。 気がつけば私は、何かに突き動かされるようにそのメモを握りしめ、事務室を飛び出していた。


◇


【翌日・昼下がり】


名鉄電車を乗り継ぎ、私が辿り着いたのは、穏やかな陽光が差し込む静かな住宅街であった。


住所の番地に建っていたのは、築年数こそ感じさせるものの、手入れの行き届いた鉄骨造の二階建てアパート。


エントランスの看板には、達筆な筆文字でこう刻まれていた。


『ハイツ高野山』


「こ、高野山……?」


本能寺を追われた男が名付けるアパート名としては、どこか隠遁めいていて、不穏な響きがある。


オーナープレートを確認すると、そこには確かに『所有者・佐久間信盛』の文字。


恐る恐る一階のオーナー室のインターホンを押すと、ほどなくしてガチャリとドアが開いた。


現れたのは、色褪せた作務衣を羽織り、縁側用のサンダルを突っ掛けた、白髪交じりの老人。


かつて本能寺の厨房で見た、あの冴えない無気力な顔立ち――佐久間信盛その人であった。


「……ああん? 誰だね、昼寝の邪魔をして……ん? あんた、確か本能寺の……明智君だっけか?」


「お、覚えていてくださいましたか! 元・同僚の明智光秀です!」


私は深々と頭を下げた。


信盛は怪訝そうに眉をひそめつつも、サンダルを引きずりながら手招きした。


「まあ、立ち話も何だ。上がりなさい。茶くらいなら出るよ」


通された部屋は、過剰な贅沢品こそないものの、無垢材の床と上質な茶器が揃えられた、異様なまでに居心地の良い空間だった。


窓の外には『ハイツ高野山』の広々とした駐車場が広がり、満室の各部屋からは、入居者たちの穏やかな暮らしが感じられた。


「で? わざわざこんな隠居の住処まで、何の用かね。あの料理狂の社長がまた店を燃やしでもしたかい?」


急須から番茶を注ぎながら、信盛が笑う。 私は背筋を正し、膝に両手を置いて深々と頭を下げた。


「佐久間さん、単刀直入にお伺いいたします。……株主名簿を拝見いたしました。あなたは本能寺の株式三十%を保有する大株主であり、この立派なアパートのオーナーでもある。単刀直入にお聞きしたいのです……あなたの現在の資産規模は、一体どれほどなのですか!?」


信盛は湯呑みに口をつけ、ふうと息を吹きかけると、事も無げに言った。


「資産? ピラミッドの階級で言うなら、まあ、【天下人】だな」


「て……天下人ォォォッ!? 純金融資産五億円以上……!?」


「ああ。アパートの価値を抜きにしても、そのくらいはあるよ。昔の株が化けてね」


「アパートを抜きにしても……!?」


「あれはあれで、家賃を稼いでくれるからねえ。本能寺からも煙上騒ぎのあとから、ありがたいことに配当が振り込まれ続けているしね」


私の口から、裏返った悲鳴が飛び出した。


五億円を超える超富裕層。


目の前の、煎餅をかじっているこの無気力な老人が、紛れもない【天下人】だというのか。


「ど、どうやってそこまで……!? 教えてください! 私も今、平蜘蛛の前から逃げ出すために一億円の『大名』を目指しているのです!」


信盛は呆れたように眉を下げた。


「金持ちになったからといって、相場で大儲けしたわけじゃないよ。……短い期間しか共に仕事をしていないこんな老人を頼ってくるとは、明智君も相当苦労してるね」


信盛の口元に、同情と苦笑が入り混じった笑みが浮かんだ。


「わかるよ。私は信長社長とは非常に短い付き合いだったが、父親の信秀社長には散々苦労させられたからね。……あそこの家系は狂人ばかりだ。唯一まともなのは、公務員になった信勝君くらいかねえ」


「の、信勝さん……」


思わぬ名前に呆然とする私をよそに、信盛は天井を見上げ、遠い目をしながらぽつりぽつりと語り始めた。


「……再現性がないんだよ、明智君」


「再現性が……ない?」


「ああ。俺の資産の大半はね、その起業狂だった信秀様のおかげなんだ。飲食、物流、港湾開発……次から次へと新しい事業を立ち上げては会社を作っていた。俺は若い頃から信秀様の部下として、言われるがまま会社の設立に付き合わされてね。給与の代わりに未公開株を渡されたり、『お前も少し出資しておけ』と勧められたりしたんだ。俺はそれを、引き出しの奥に放り込んで忘れていただけなんだよ」


「み、未公開株……!」


「そう。信秀様が立ち上げた会社の中には、上場したものもあれば、大手企業に買収されたものもあった。俺が持っていた株も、そのうちのいくつかが何十倍、何百倍にも化けたんだ。……もちろん、全部が成功したわけじゃない。価値を失った株だってあったさ。ただ、最後に残った当たりが、あまりにも大きかった。それだけだよ」


信盛は他人事のように茶をすすった。


「俺が企業の将来を見抜いたわけでも、努力したわけでもない。ただの時代の巡り合わせと、狂人に巻き込まれたことへの『運賃』みたいなもんだよ。だから、君が真似しようと思ったって土台無理だ。再現性がまったくない」


信盛は懐かしそうに目を細め、静かに言葉を継いだ。


「俺は純金融資産が五億円を超えたところで、静かな退職を決行したよ。信長社長には相当怒られたけどね」 信盛は、いたずらっぽく笑った。


「そのとき届いたLINEは、今でも記念に取ってある。十九条にもわたる苦言が書かれていてねえ」


「じ、十九条の苦言LINE……!」


「まあ、当時はずいぶん怒っていたみたいだね。でも、こっちはもう十分な資産があったから。別に、気にならなかったよ」


あの信長様からそんな凄まじい詰問を浴びせられながら、平然と受け流して悠々自適の隠居へ逃げ切ったというのか。


資産の力とは、これほどまでに人間を自由にするのか。


私はがっくりと肩を落とした。


スタートアップの創業期に潜り込み、創業者の未公開株を握って大化けを待つ――そんな宝くじのような芸当、今から平蜘蛛に縛られている私にできるはずもない。


「……そう、ですか。やはり私には、あの地獄から抜け出す道など……」 私が暗黒の絶望に沈み、膝の上で【哀愁】のオーラを立ち昇らせかけた、その時だった。


「――だがね、明智君」


信盛は湯呑みを静かに置いた。


その気怠げな瞳の奥に、長年資産を築いてきた者特有の底知れぬ光が宿っていた。


「もし君が、一攫千金の博打じゃなく……自分で収支を計算し、リスクを管理して、誰にも人生を握られずに済む投資を学びたいというのなら ――」


信盛は窓の外、満室稼働を続ける『ハイツ高野山』を指差した。


「――この、【不動産投資】のイロハを教えてやってもいいよ。……まぁ、私も不動産投資でここまでの財を成したわけじゃないから、一般的なことしか教えられないがね」


「……え?」


私の思考が、ピタリと止まった。


画面上の電子の数字が数秒で蒸発する仮想通貨でもなく、予測不能の経済指標に振り回される先物でもない。


大地に根を張り、入居者がいる限り、毎月賃料を生み出す現物資産。


(そうだ……。これなら、相場の数字に振り回されず、家賃収入と返済額を計算しながら資産を積み上げられるのではないか……?)


私の乾き切った瞳の奥に、久しく忘れていた光が宿った。


(……不動産なら、今度こそ平蜘蛛から逃げ出せるかもしれない)


その希望が、やがて新たな地獄への入り口になるとも知らずに。




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