第四話「脱出の隘路と永久機関の罠」
【東暦一五七三年 八月下旬・とある月曜日の朝】
「……つ、ついた……!」
スマートフォンの画面を見つめる私の指先が、歓喜に震えていた。
東暦景気動向指数の発表直後、相場は私の読み通り、狂ったような上昇を始めた。
一千五百万円の証拠金で建てた一億五千万円相当の指数先物は、指数の急騰によって巨額の利益を生み出した。
さらに、指数先物の値上がり益に加え、五百万円分を投じていたコールオプションのプレミアムも何倍にも膨らんでいた。
即座に全決済。
利益を確定し、残高画面を二度、三度と見直す。
税引き後の概算を計算しても、数字は確実に大台を超えていた。
【純金融資産:三千二百四十万円】
「勝った……! 勝ったぞ……!!」
私は自室のちゃぶ台に突っ伏し、歓喜の涙を流した。
【武将】階級――純金融資産三千万円以上。
かつてクモセミコンダクターの追証落城で四百二十円まで叩き落とされ、失われたはずの我が防壁が、わずか数日の賭けによって完全に修復されたのだ。
(これだけあれば……いける! 年収が三分の一になっても、珈琲を淹れて得た給料に資産運用の収益を足せば、贅沢さえしなければ平穏に暮らせるはずだ! もうあの殺人圧力釜『平蜘蛛』の前に座る必要などない! 有楽斎様直伝の珈琲技術を引っ提げ、どこか静かな個人経営の喫茶店へ雇われ店長として転職するのだ!)
私はその足で、あらかじめ予約を入れていた清須市内の大手転職エージェントへと向かった。
◇
【同日午前・清須市内 転職エージェント面談室】
「……なるほど。現在の職場環境に、心身ともに限界を感じておられると」
静かな面談室。仕立ての良いスーツを着たキャリアアドバイザーの男が、差し出された私の職務経歴書に目を落とし、思わず息を呑んだ。
目の下に青黒い隈を刻んだ私は、縋り付く思いで両手を机に突いた。
「はい! もう限界なんです! 職種や業態の規模は問いません! 静かに珈琲をネルドリップするだけの個人経営カフェでも、郊外の落ち着いたファミレスでも構わない! 年収が半分……いえ、三分の一に落ちても構いませんから、どうか私を拾ってくれる職場をご紹介ください……!」
しかし、担当者は眼鏡の奥の目を丸くし、困惑したように首を横に振った。
「率直に申し上げます。明智さんのご経歴は、飲食業界では破格です。しかし、現在の知名度と実績を前提にすると、一般的な店長職では役職も待遇も大幅に下がります」
「それで構いません! 年収が三分の一になってもいいのです!」
「問題は年収だけではありません。明智さんほどの知名度があれば、採用先にも相応の成果を期待されます。静かな喫茶店で珈琲を淹れるだけの仕事に就きたい、というご希望とは、経歴があまりにも釣り合わないのです」
担当者は、申し訳なさそうに職務経歴書を指先でトントンと叩いた。
「これは私見ですが――そもそも『感情エネルギー技術』といえば、かつて電気やガスに敗れ、大昔に廃れた旧式技術です。とはいえ、それはひとえに『極めて扱いづらい危険な技術だから』に他なりません。そして今や世間において、喫茶『本能寺』といえば、そんな扱いが極めて難しい感情エネルギー設備を駆使し、『本能寺の変』という一大ムーブメントを巻き起こした伝説の震源地です」
「は、はあ……」
「そこの店長である明智さんが転職市場に出てきたとなれば、国内はおろか、海外の巨大資本からも声がかかるでしょう」
「えっ、海外からも……!?」
思わず身を乗り出した私に、担当者は冷ややかな現実の刃を突きつけた。
「ですが、彼らが求めているのは、明智さんご本人というより、本能寺で培われた技術と運営ノウハウです。採用後に任されるのは、感情エネルギー設備の導入や運用、あるいは事業化の責任者でしょう」
「そ、それでは……!」
「ええ。所属先が変わるだけで、明智さんが担う役割は変わらない可能性が高い。結局のところ、他所へ移ったところで、本能寺で今なさっていることと何ひとつ変わらない役割を背負わされるだけですよ。静かな喫茶店で珈琲を淹れて暮らしたいというご希望とは、正反対のキャリアになるでしょう」
担当者は、職務経歴書を静かに押し戻した。
「……ですから、私としては、今の職場に残られることをお勧めします」
「そ……そんなぁぁぁぁぁッ!?」
悲鳴が面談室に虚しく木霊した。
金はある。
珈琲の腕もある。
だが――世間に知れ渡りすぎた『感情炉を手懐ける本能寺の店長』という名の呪縛が、外の世界への退路を完璧に塞ぎきっていたのだ。
◇
【同日深夜・喫茶厨房本能寺 事務室】
トボトボとゾンビのような足取りで店へ戻った私は、薄暗い事務室で頭を抱えていた。
転職ができない。
他人に雇ってもらう道が完全に閉ざされた。
どこへ逃げても、待っているのは感情エネルギー設備の前に縛り付けられる日々。
ならば、どうする? 一生、あの平蜘蛛の前で丸椅子に縛り付けられ、胃液を吐きながら哀愁を搾り取られ続けるのか?
(……嫌だ。絶対に嫌だッ!)
追い詰められた私の脳細胞が、ギラリと狂気の光を宿した。 雇われ人として辞められないのなら、答えは一つしかない。
(FIREだ……! 労働そのものを完全に辞めてしまえばいい……ッ!)
東暦の資産ピラミッドが脳裏をよぎる。 純金融資産一億円以上――【大名】階級。 資本収入だけで一生を遊んで暮らせる、真の解脱領域。
(一億円だ……! 資産一億円の『大名』にさえ到達すれば、誰に雇われることもなく本能寺を退職し、信長社長の狂気からも完全に解脱できる……ッ!!)
手元には、先ほどのデリバティブ取引で手に入れた三千二百四十万円がある。
一度は相場の波を乗りこなしたのだ。あの勝利は偶然ではない。
私の緻密な分析力が、市場の歪みを見抜いた結果に違いない。
一億円まで、あと七千万円弱。
悠長にインデックス投資を積み立てている暇などない。
今すぐ一億円に到達しなければ、私の精神が先に過圧死してしまう!
「ふふ……ふはははは! 今度こそ、時は今! 天下を知るのは、この私だ……!」
私は血走った目で再びデリバティブ口座を開き、三千二百万円のほぼ全額を証拠金へ突っ込んだ。
狙うは、明晩発表される海外中銀の政策金利発表。
「サプライズ利下げによる市場の暴騰」に賭け、指数先物を限界いっぱいのハイレバレッジで買い建てたのだ。
しかし――。 相場の神は、二度目の慢心を決して許さなかった。
翌日深夜。
市場予想に反して発表されたのは「利上げ継続」。
ティッカーに数字が躍った瞬間、市場は阿鼻叫喚のナイアガラ暴落を開始した。
「な……っ!? ば、馬鹿な! 利下げのはずだ! データ上は利下げ一択のはずだろうがぁぁぁッ!?」
チャートは一瞬で垂直落下。
数億円相当にも膨らませた買いポジションが、逃げる間もなく巨額の含み損を生み出した。
口座の証拠金維持率は一瞬で危険水域に転落。
維持証拠金の水準を割り込んだ瞬間、強制ロスカットが執行され、私の資産は無慈悲に刈り取られていった。
画面にけたたましく点滅する強制決済の赤文字。
『全建玉が強制決済されました』
【お預かり資産残高:一万八千円】
「ぎゃあああああああああああッッ!?!?!?」
事務室の床に崩れ落ち、私は激しくのたうち回った。
三千万円の防壁どころか、二千万円のボーナスを元手に築き上げた資産すら、ほぼすべて消し飛んだ。
武将から足軽へ、そしてまたしても兜すら失った落武者へ――。
◇
だが、本当の地獄はここからだった。
翌朝から、私は再び平蜘蛛の前の丸椅子へと拘束された。
資産を失い、逃げ道を失った私の胸の底からは、ドス黒く濃厚な極上の【哀愁】が際限なく噴き出す。
『ギチチチチチッ――ドォォォォォンッ!!』
平蜘蛛の圧力計は連日レッドゾーンに張り付き、かつてない極上の加圧角煮と超濃厚珈琲が次々と仕上がっていく。
店は大繁盛。客は歓喜し、売上は天井を突き破る。
そして月末――。
「明智店長、今月の平蜘蛛稼働実績に基づく成果給です」
長秀から手渡された給与明細には、目を見張るような天文学的数字が印字されていた。
丹羽長秀が設計した「青天井のインセンティブ」。
その月の手取り給与、実に四百万円。
給料が振り込まれた瞬間だけ、私は脳内階級で自分を【上位足軽】と呼ぶことができた。
(ある……! 金はあるんだ……! この四百万円があれば、一気に一億円まで増やして大名になれるはずだ……ッ!)
平蜘蛛の恐怖から一刻も早く逃れたい焦燥が、私の理性を焼き切っていく。
「今すぐ増やさねばならない」という狂気に駆られた私は、レバレッジ数百倍の仮想通貨FXに手を出した。
土日に草コインのロングを握りしめた結果、目を離した数時間のうちに暴落。
目を覚ましたときには、全額ロスカットされていた。
通帳残高は、瞬く間に数千円へ逆戻りした。
翌月。平蜘蛛の前で再び絶望し、極上の哀愁を放って稼ぎ出した成果給三百五十万円。
「数分後の上下を当てるだけだ。勝率五割なら、資金管理で勝てる!」と血迷い、バイナリーオプションに全額突撃。
画面のバーが判定ラインのコンマ数ミリ下で確定し、数時間で全額が電子の藻屑と消えた。
さらに翌月。
「為替なら要人発言と経済指標から読める!」と豪語し、海外FXのハイレバ口座へ給料を全額投入。
深夜の米国雇用統計で相場は逆方向へ急変し、ゼロカットによって口座は蒸発した。
時には国内口座の取引で夜間の乱高下に巻き込まれ、追加証拠金の請求を突きつけられる。
口座残高の不足を示す赤文字を前に、私は震える手で財布の小銭をかき集める始末だった。
(……増えない。いくら平蜘蛛で命を削って稼いでも……お金が全く残らない……!)
資産がないから辞められない。
辞められないから絶望する。
絶望するから、平蜘蛛はさらに稼働し、至高の料理と破格の成果給を生み出す。
そして光秀は、その成果給をまた投機に注ぎ込む。
「ううっ……うわあああぁぁぁッ!! なぜだぁぁぁッ!!」
深夜の事務室に、光秀の慟哭が響き渡る。
平蜘蛛が生み出す料理と報酬。
そして、それをすべて呑み込む光秀の投機欲。
悪魔の永久機関に囚われた男は、資産ピラミッドの最底辺で、終わらない輪廻の車輪を回し続けるのであった。




