第三話「哀愁のレバレッジ」
【東暦一五七三年 八月下旬・深夜の自室】
自室のちゃぶ台の上に置かれた、三通の特製封筒。
そのうち二通は茶封筒、そして最後の一通は――異様な威圧感を放つ黄金色であった。
私は震える指先で、封筒を一通ずつ開いた。
一通目、五百万円。丹羽長秀が几帳面に算出した、通常の夏季賞与。
二通目、五百万円。これまで必死に現場を支えてきた働きへの特別加算。
そして、信長様が「全軍突撃ボーナス」と叫んで叩きつけた黄金の封筒には、一千万円。
合計――二千万円。
「……に、二千万円……本当に入っている……」
目の前の大金を前に、私の呼吸は浅くなった。
つい数ヶ月前、小型ハイテク株『クモセミコンダクター』の信用全力買いで追証落城を食らい、私の全財産は「四百二十円」という落武者同然の極限状態まで叩き落とされたのだ。
あの時、損失補填のために強制決済された私の虎の子――毎月の給与からコツコツと買い増し、三千万円を超えていた『六資産バランスファンド』。
東暦社会の投資界隈には、資産形成勢がまことしやかに語る【金持ちピラミッド】という俗説がある。
純金融資産三千万円未満は【足軽】。
三千万円以上は【武将】。
五千万円以上は【城主】。
一億円以上は【大名】。
そして五億円を超えれば、【天下人】。
資産額によって人間の格まで決まるかのような、実に俗っぽい階級表である。
私はかつて、三千万円のバランスファンドによって、辛うじて【武将】の末席に踏みとどまっていた。
「これさえあれば、いつか信長様の店を辞め、穏やかな純喫茶へ転職できる」。
そう信じていた最後の防壁が、わずか数日の暴落で跡形もなく消え失せた。
私は再び、労働に縛られる最底辺の【足軽】へと叩き落とされたのだ。
だが今、私の手元には二千万円がある。
(あと……あと一千万円……!)
頭の中で、急速に脱出の青写真が組み上がり始めた。
今の二千万円を三千万円まで増やせば、再び【武将】階級に返り咲ける。
失った資産そのものは戻らない。だが、同じ階級に戻ることはできる。
三千万円さえ取り戻せば、今度こそ辞められる。そう信じることで、私は目の前の危険から目をそらしていた。手元に三千万円の防壁さえ取り戻せば、失われた転職への切符が再び手に入るのだ!
(そうだ……私には腕があるのだ!)
胸の奥に、ふつふつと熱い自負が湧き上がってきた。
私はただの数字屋ではない。犬山・如庵での一か月に及ぶ過酷な特訓を経て、あの珈琲狂の茶人・織田有楽斎様から直々にネルドリップの真髄と珈琲のイロハを徹底的に叩き込まれた男だ。
湯の落とし方、豆が抱く時間の引き出し方、湯温と挽き目の見極め――。
あんな爆発寸前の危険な『平蜘蛛』や、人間の感情エネルギーなどというオカルトじみた調理兵器に頼らなくとも、私には手作業で客の心を静かに震わせる本物の珈琲技術がある!
むしろ、あの男の怒声が響き渡る戦場のような厨房ではなく、静かにクラシックが流れる街の純喫茶でこそ、私の手業と繊細な気配りは最大限に活かされるはずなのだ!
――だが。
『ギチチチチチッ……』
耳の奥で、厨房の奥に居座る『超高耐久仕様・平蜘蛛』が軋む幻聴が響いた。
途端に、胃が雑巾を絞られるようにキリキリと激痛を訴える。
何より私を絶望させているのは、丹羽長秀が電卓片手に突きつけてきた【青天井の成果給】契約であった。
平蜘蛛の前に座り、哀愁を搾り取られれば取られるほど、手取りは破格の勢いで増えていく。
だがそれは、喉から手が出るほど欲しい現金を稼ぐために、私自身が率先してあの殺人圧力釜にしがみつき、毎日過圧死の恐怖に震え続けねばならないという悪魔の永久拘束刑だ。
豚の角煮の繊維がほろほろに崩れる前に、私の精神と胃壁がドロドロに融解して消滅してしまう!
金がないから辞められない。
だが、金を稼ごうとすれば平蜘蛛の前に縛り付けられる。
逃走と拘束のメビウスの輪。
「ならば……どうする? インデックス投資をコツコツ積み立てるか?」
自嘲の笑みが唇からこぼれた。
年利数パーセントの積み立てで一千万円の利益を埋めるのに、何年かかるというのだ。
五年後か? 十年後か?
そんな悠長な時間を待っていたら、私の肉体と精神はとっくに平蜘蛛の過圧に巻き込まれて清須の露と消えている!
一刻も早く武将級の防壁を再建し、堂々と「完全退職」を突きつけて、誰にも邪魔されない平穏な純喫茶へ脱出しなければならないのだ!
「……手段は、これしかない」
私は震える指でスマートフォンの画面をタップし、証券会社のマイページを開いた。
かつてバランスファンドを担保に差し入れ、破滅を見た現物・信用の画面ではない。
そのさらに奥に眠る、多くの個人投資家が敬遠する、禁断のデリバティブ領域。
『先物・オプション取引口座開設完了のお知らせ』
私の中で、押し殺されていた傲慢なエリート意識が、猛烈な勢いで息を吹き返していた。
一社の不祥事に振り回される個別株とは違う。市場全体を分析し、数字から未来を読むのだ。
その分析がどれほど精緻でも、相場が予測どおりに動くとは限らない。
――もっとも、その当たり前の事実は、今の私には見えていなかった。
「手元には二千万円ある。資金の配分も完璧だ……!」
私は机上の札束を見据え、作戦を組み立てた。
手元の二千万円のうち、一千五百万円を株価指数先物取引の証拠金として差し入れる。
それに対して建てるポジションは、一億五千万円相当。
差し入れた証拠金の十倍に相当するポジションを、私は自らのリスクで抱えることになる。
そして残る五百万円は、コールオプションの購入に充てる。オプションの買い手は、原則として支払ったプレミアムを超える損失を負わない。だが、それは先物取引の損失まで守ってくれるわけではない。
(指数先物で相場の上昇を捉え、コールオプションでさらなる利益を狙う二段構え! 先物で大きく勝ち、オプションで利益を上乗せする。上昇相場さえ来れば、これほど効率的な布陣はない!)
もちろん、どちらも相場の上昇を前提とした賭けである。だが、その一点に集中していることを、私は戦略の明快さだと信じ込んでいた。
来週発表される東暦景気動向指数。
事前予想と経済データを突き合わせた、私の完璧な分析によれば、数値は市場予想を大きく上回り、指数は急騰するに違いない。
先物の巨大なポジションとコールオプションの上乗せが噛み合えば、一千万円どころか数千万円の利益が転がり込んでくる――少なくとも、私の計算ではそうなるはずだった。
失った【武将】の座どころか、その先にある【城主】、あるいは夢のFIRE圏内たる【大名】階級すら視界に入ってくるではないか!
光秀はネットバンキングの操作画面を開き、二千万円の全額を証券口座へ送金した。
一千五百万円を先物取引の証拠金に。残る五百万円をコールオプションの購入資金に。
追加証拠金が必要になった場合の予備資金はない。だが、相場が予測どおりに動けば、そんな心配は無用だ。
私は、残しておくべき最後の逃げ道まで、勝利への燃料として投じていた。
資金配分に一点の曇りもない。
少なくとも、光秀自身はそう信じていた。
「ふふ……ふはははは! 今度こそ、時は今! 天下を知るのは、この私だ……!」
平穏な純喫茶への脱出切符を取り戻すための、全軍突撃。
だが、暗闇の中で光秀が自信満々に張り巡らせた「完璧な布陣」が、いかに歪で危険な賭けであるか――。
相場という名の底なし沼は、新たな獲物が自ら飛び込んでくるのを静かに待っていた。




