第二話「敵は寄り付きにあり(追証落城の果てに)」
【東暦一五七三年 六月六日・午前八時五十分】
昨夜見た夢は、実に素晴らしいものだった。
常夏の島でヤシの実ジュースをすすり、清須の空に立ち上る巨大なキノコ雲を対岸の火事として眺めながら、悠々自適の隠居生活を送る夢――。
目が覚めた私の足取りは羽のように軽かった。ここ数ヶ月で初めて胃薬を飲まずに事務室のデスクへ着いたほどだ。
(数週間後の爆発など、もう恐るるに足らず! 今日の気配値を確認し、適度なところで利確すれば逃亡資金は完全に整う……!)
勝利の美酒を味わう前哨戦として、私は優雅にスマートフォンを操作し、証券アプリの板情報画面を開いた。
午前八時五十分。前場の寄り付き前だ。
そして、私の瞳に飛び込んできたのは――。
「……は?」
喉の奥から、間抜けな空気の抜ける音が漏れた。
【クモセミコンダクター】
『特許侵害の疑いにより米司法当局などが調査開始との報道』
『海外メガテック企業、出資観測を公式否定』
「じ、事実……無根……?」
指先が急速に冷たくなっていく。
気配値欄に視線を滑らせた瞬間、全身の血液が逆流した。
ストップ安気配。
買い注文は見る影もなく、売り注文の欄には膨大な成行売りが積み上がっていた。
前日までの熱狂的な買い気配が、今度は巨大な津波となって私めがけて押し寄せている。
(う、嘘だろ……? 誤報だ! 何かの間違いだ!! そうだ、悪意あるデマに決まっている!!)
午前九時。市場が開く。
しかし、売り注文ばかりが積み上がり、売買は成立しない。
画面に表示されているのは、前日終値から大きく切り下がったストップ安の気配値だけだった。
私の信用建玉は、逃げ道を塞がれたまま窒息していく。
(逃げなければ……! 今すぐ売却注文を出して決済を……!)
震える指が、成行売りの注文画面へ向かう。
だが、最後の確認画面で指が止まった。
(待て……! これほどの悪材料、もし狼狽売りを誘う罠だったらどうする!? ここで売れば、昨日までの利益など吹き飛び、巨額の損失が確定する!)
私は自分に言い聞かせた。
「押し目だ……これは絶好の押し目買いのチャンス……いや、悪材料が出尽くせば反発するはずだ……!」
だが、反発を裏付ける材料など何もなかった。
あるのは、昨日まで上がっていたという事実と、下がるはずがないと信じたい私の願望だけ。
損切りができない。
己の才を信じ切ったプライドと、爆死へのカウントダウンという焦燥が、私の指を完全に金縛りにしていた。
その時、スマートフォンが無情に震えた。
『追証警告:本日十五時までに追加保証金を入金してください』
「…………………………は?」
画面の文字が、ゆっくりと脳に染み込んでいく。
株価の急落によって、信用取引の保証金維持率が基準を割り込んだのだ。
(追証……? 今日の十五時までに……?)
私は口座の資産状況を確認した。
現金の余力は、ほとんどない。
長年積み立ててきた六資産バランスファンドは、すでに代用有価証券として担保に差し入れている。
追加で差し入れられる現金など、一円たりとも残っていなかった。
(払えるわけがない……!)
十五時までに追証を差し入れられなければ、証券会社による強制決済が始まる。
だが、売りたくても売れない。
ストップ安に張り付いた株には買い手がほとんどおらず、売却注文を出しても、いつ約定するか分からない。
私は、自分が何をしてしまったのかをようやく理解した。
逃げるために始めた投資で、逃げるための資金をすべて危険にさらしたのだ。
「ぎ、ぎゃああああああっっ!!」
私は頭を抱えて事務室の床に転がった。
◇
【六月六日・午後】
「店長ー! 表の行列、今日もすごいっスよ! にゃん丸君の光、昨日よりさらに強くなって眩しいくらいっス!」
「そうか……励め……」
「店長? 顔色がドブ川の底みたいになってますけど、大丈夫っスか……?」
利家の能天気な声に返事をする気力すら湧かない。
レジ横では、黄金の招き猫が神々しく輝いていた。
店は大盛況。売り上げは過去最高を更新中。
だが、私の口座では資産が消えようとしている。
(なぜだ……なぜ下がる……!? 私はただ、あの男の理不尽な爆発から生き延びたかっただけなのに……!)
私は引き出しから胃薬を取り出し、震える手で口に放り込んだ。
午後三時。
入金期限が過ぎた。
追加保証金を用意できなかった私の信用建玉は、強制決済の対象となった。
しかし、クモセミコンダクターはストップ安気配のまま。
売り注文は膨れ上がる一方で、買い手がつかない。
決済注文を出されても、すぐに売買が成立するとは限らない。
私の資産を守るための時間は、すでに尽きていた。
「敵は……敵は寄り付きにあり……ッ!!」
私は血を吐くような思いで叫んだ。
だが、相場という名の戦場は、一人の敗軍の将の叫びなど意に介さなかった。
◇
【六月七日〜八日】
奇跡など起きなかった。
クモセミコンダクターは連日のストップ安気配。
売りたい人間は山ほどいるのに、買いたい人間がいない。
信用建玉の処分は思うように進まず、私の資産状況には、日に日に悪化する損失の数字が突きつけられた。
ナイフが落ちるのではない。
頭上から巨大な隕石が、ただ真っ直ぐに私の頭蓋骨へ向けて自由落下しているのだ。
そして、六月八日の夜。
証券会社から、強制決済に関する通知が届いた。
私は画面を見つめたまま、身動きひとつ取れなかった。
(私の積立が……私の虎の子が……!)
信長様がどれほど無茶苦茶をやろうと、これさえあれば最後は逃げ切れる。
そう信じて、給与から少しずつ積み立ててきた六資産バランスファンド。
私の最後の防壁。
それが今、信用取引の損失を穴埋めするために処分されようとしている。
◇
【六月九日・正午】
事務室は、静まり返っていた。
私の手元にあったスマートフォンが、微かに震えた。
強制決済完了の通知。
クモセミコンダクターの信用建玉は、ようやく成立した売買によって処分された。
そして、生じた莫大な損失を穴埋めするため、担保として差し入れていた六資産バランスファンドも、一部または全部が処分された。
私は、もはや涙も出ない虚ろな目で資産状況の画面を見つめた。
【お預かり資産残高】
預り金:420円
「よんひゃく……にじゅうえん……」
カサリ、と乾いた笑いが唇からこぼれた。
四百二十円。
数年間かけて築き上げた私の防壁は、わずか三日間の慢心と信用全力によって、灰燼に帰したのだ。
しかも、口座に残った現金が四百二十円というだけで、損失のすべてが清算されたとは限らない。
不足金が残っていれば、私はさらに金を用意しなければならない。
「……ふふ……あはははは……! 四百二十円……! これが、私の才の対価か……! 天下どころか、南の島への片道切符代すら残らんではない
か……!!」
私は椅子から崩れ落ち、冷たい床に突っ伏した。
逃げられない。
もう、どこへも逃げることはできないのだ。
ガララッ!
無情にも、事務室の引き戸が勢いよく開け放たれた。
現れたのは長秀だった。その手には、真新しい発注書の束が握られている。
「店長、吉報です! 久秀殿が『平蜘蛛』の心臓部となる新型感情リアクターの調整を前倒しで完了させました。メーカー側の資材調達も前倒しとなり、設備の搬入は――『明後日』に行われます!」
「……あ……?」
床に倒れたまま見上げた長秀の眼鏡が、不気味な光を反射していた。
「信長様も厨房で大変張り切っておられます。『今度こそ宇宙の真理を焼き尽くすピザを焼くぞ!』と仰っておられました。さあ店長、
明後日は総力戦です。仕込みの指揮をお願いしますね」
長秀は爽やかな笑顔を残して厨房へ戻っていった。
明後日。
数週間あるはずだった猶予は、数日に縮んでいた。
そして私の手元には、逃亡資金どころか、四百二十円。
「あ……ああ……」
レジの方から、客の歓声と、にゃん丸君招き猫が放つ黄金のエネルギーの駆動音が響いてくる。
店は空前の繁盛。
信長様の野望は最高潮。
そして私の口座残高は、四百二十円。
逃げ場を完全に失った明智光秀の頭上に、平蜘蛛と本能寺オーブンという名の終末のカウントダウンが、容赦なく降り注ごうとしていた。




