第一話「我が才は天下一(三日天下の狂騒)」
【東暦一五七三年 六月三日・早朝】
事務室のデスクに突っ伏した私――明智光秀の頭の中には、鉛のような頭痛と吐き気だけが渦巻いていた。
「……買い直す、だと……?」
デスクの上には、先日の婚礼特需と犬山の引き出物効果によって膨れ上がった預金残高を記した報告書が置かれていた。
本来なら、店長として諸手を挙げて喜ぶべき数字だ。
だが、その金が何に使われるかを知った瞬間、私にとっては『死刑執行の領収書』に変わった。
厨房から漏れ聞こえていた、信長様と長秀の弾んだ声。
『本能寺オーブン』と『平蜘蛛』の再発注――。
あの男が、狂気の感情エネルギー設備を買い戻すのだ。
今度こそ店どころか、清須市全域を道連れに大爆発して更地になるに決まっている。
私の胃と命など、何枚あっても足りない。
(胃が……胃に穴が空く……ッ!)
絶望の底でデスクに爪を立てていた、その時だった。
厨房から戻ってきた長秀が、眼鏡をクイと押し上げた。
「店長、メーカー側から連絡がありました。特殊規格の耐熱耐圧資材の調達と、久秀殿による強化フレームの組み込みが必要なため、設備の搬入は早くとも『数週間後』になるとのことです」
「……数週間後?」
私の目がカッと見開かれた。
即日納品ではない。
まだ猶予がある。
数週間――それは、この呪われた厨房から脱出するために天が与えたもうた猶予期間!
(エックスデーは数週間後……! 設備が届いて爆発炎上する前に、私はすべてを放り出して旅に出る! 遠い南の島へでも高飛びして、優雅な逃避行を決め込んでやる……!!)
しかし、旅に出るには先立つものが必要だった。
いくら信長様が経営に興味を示さず、余剰金の多くを賞与に回すとはいえ、どれほどの期間、逃げ続けることになるのか見当もつかない。
半年か、一年か。それとも、一生戻れないのか。
先が読めない以上、今の手持ち資金ではあまりにも心許ない。途中で路頭に迷えば、飢え死にするか、あの男の厨房へ連れ戻されるかの二者択一だ。
(残された時間は数週間……! 短期間で資金を爆発的に増やす手段……これしかない!)
私はスマートフォンを取り出し、ネット証券のアプリを開いた。
画面に表示されたのは、毎月の給与からコツコツと買い増してきた『六資産バランスファンド』の積立評価額。
信長様が店を吹き飛ばしたとしても、このファンドさえあれば路頭に迷うことはない――そう自分を慰めてきた虎の子の資金である。
だが、長期運用を前提とした積立投資では、数週間後の逃亡資金には到底間に合わない。
悠長に積立を続けている間に、店ごと爆発四散してしまう!
(背に腹は代えられない……この積立を担保に差し入れ、信用取引枠を使う!)
幸い、私が利用している証券会社では、対象の投資信託も代用有価証券として保証金に組み入れられる。
私が目をつけたのは、次世代半導体の微細加工技術で特許を取得したとの報道が買い材料視されていた新興ハイテク企業の小型株、『クモセミコンダクター』。
恐る恐る、まずは小さな信用買いの建玉を建ててみた。
この時点では、まだ理性という名のブレーキが辛うじて残っていたのである。
◇
【六月四日〜六月五日】
ところが、相場は私に甘い夢を見せ始めた。
六月三日の引け間際、大手電機メーカーとの大型共同開発の噂が舞い込み、クモセミコンダクターはストップ高比例配分。
翌六月四日も寄り付きから買い気配が殺到し、二日連続のストップ高となった。
そして迎えた六月五日――。
本能寺の店頭には、テレビやSNSで結婚式の奇跡を知った客たちが押し寄せていた。
「店長! 表のお客さんたち、みんな店長が大事そうに抱えてる『あの金色の猫』を拝みたがってるっスよ!」
ホールから飛び込んできた利家の声に、私は膝の上の『にゃん丸君招き猫』を見下ろした。
犬山の老婆から押し付けられ、結婚式の超高圧エネルギーを浴びて以来、芯まで金色に染まった特製の置物。
肌身離さず持っていると、不思議と胃の痛みが和らぐような気がして、いつしか愛着が湧いていた。
「チッ、客が殺到して業務が滞るのも困るな……。分かりました、レジ横に置いておきます。触るなり拝むなり、ご自由にしていただいて結構です!」
私は招き猫をレジ横の一等地に据え置いた。
たちまち客たちが群がり始める。
「本当に金色だ!」
「ご利益がありそう!」
客たちの喜びを感知した『黄金茶室』が駆動音を立て、久秀殿の怪しげな回路が作動した。
キィィィン……!
集光がにゃん丸君へと絞り込まれ、招き猫は眩い黄金の後光を放ち始めた。
「うわああっ! 本当に光ってるぞ!」
湧き上がる大歓声。賽銭代わりの小銭や千円札が、次々とレジに吸い込まれていく。
店は大繁盛だった。
しかし、私の関心は別の場所にあった。
(ふん……招き猫などに頼らずとも、今の私には勝ち戦の波が来ている!)
私はポケットの中でスマートフォンを握りしめた。
画面には、最新のニュース速報。
『海外メガテック企業からの巨額出資観測』
そして、クモセミコンダクターはまたしても寄り付かずのストップ高を記録していた。
三日連続のストップ高。
売り注文を圧倒する買い注文の山。値が付かないまま、株価は上限に張り付いている。
「す、すごい……! 三日連続ストップ高……! 私には商才ならぬ、相場の才能があったのか……!?」
ドクン、と心臓が跳ねた。
青ざめていた頬に、久しく見られなかった歓喜の紅潮が戻っていく。
画面に並ぶ含み益の数字。
昨日までの胃の痛みが、猛烈な熱気にかき消されていく。
私は買った。
株価は上がった。
翌日も上がった。そして今日も上がった。
たったそれだけの事実が、私の頭の中では、いつしか壮大な投資理論へと変換されていた。
(特許取得、大手との提携、海外資本の流入……。材料を見抜き、上昇する銘柄を選び抜いたのは、ほかでもない私だ!)
三日間の上昇が偶然なのか、実力なのか。
そんなことを疑う余地は、もう私の中にはなかった。
だが、脳裏には納品までの砂時計が刻々と時を刻んでいた。
(数週間後には、あの平蜘蛛と本能寺オーブンが届く……! それまでに逃げ切れるだけの資金を作らねばならない!)
期限への恐怖と、目の前で膨らむ含み益の快感。
二つの感情が、私の判断力を焼き切っていく。
(逃避行がどれほど長引くかも分からない。こんな小さな建玉の利益で満足していて、どうやって逃げ切るというのだ!)
最初は、ほんの小さなお試しだった。
だが今や、私は確信していた。
この上昇気流は本物だ。
自分には相場を見抜く才能がある。
これは幸運などではない。私の知性と危機感が引き寄せた、必然の勝利なのだ!
(ならば、今こそ賭ける時……!)
あの男の巻き添えを食らって爆死する運命から逃れる道は、ただ一つ。
持てる力のすべてを賭け、未来永劫食いっぱぐれないだけの財産を掴み取ること。
私の瞳に、ギラリと危うい光が宿った。
(――信用全力だ。担保に入れた六資産バランスファンドを背に、信用新規建て余力の限界まで買い増してやる……!!)
私は購入画面を開き、余力いっぱいの株数を打ち込んだ。
呼吸を整え、唇の端をつり上げる。
そして、天下を取ったかのような顔で呟いた。
「――時は今、天が下知する、オーダーかな!」
カチッ。
購入確定のボタンを力強く押し込んだ。
約定。
担保として差し入れた資産を背に、信用買いの建玉は限界まで膨れ上がった。
新たに買い増せる余力は、もう一円も残っていない。
数週間後の脱出に向け、私は全財産を賭けた一点突破の陣形を完成させたのだ。
◇
その日の夕刻。
にゃん丸君がレジ横で黄金の輝きを放ち、店がさらなる繁盛に沸く中、私は勝利を確信していた。
「勝った……! これで私の完全なる勝利、完璧な逃避行が確定した……!」
私は高笑いし、薔薇色の未来を夢見て眠りについた。
信用買いの成功体験に酔い、栄光の頂点に立った夜。
まさに、明智光秀の「三日天下」であった。




