第伍帳:【非日常】
『逢魔が時』
日没後の夕闇が迫る薄暗い時間帯。妖魔や邪気に出逢うとされる、世界の境界が曖昧になる時間のこと。
踏み込んだ場所は、異界―――。
一歩、境界を越えた瞬間に肌を焼いたのは、命を拒絶するような鋭い冷気だった。
日本の秋を思わせる、湿り気のない、けれど骨の髄まで凍てつかせるような低温。
見慣れた住宅街の景色はそこにある。電柱も、誰かの家の門限を守る門灯も、形はそのまま残っている。
(まずはスマホで……)
生存確認のための、無意味な習慣。
けれど、端末は沈黙を保ったままだ。圏外どころか、電源すら入らない。
(……は?)
電源が入らないこと以上に、その漆黒のガラスの板が、僕の姿だけを映し出すことさえ拒んでいたからだ。
鏡としての機能すら失っていた。
映り込むはずの自分の顔はそこにはなく、代わりに映し出されていたのは、僕の背後に広がる救いのない灰色の景色だけだった。
反射的に見上げた空もまた、同じだった。
夕刻の茜色も、夜の藍色もそこにはない。ただ、感情を削ぎ落としたような、どこまでも平坦で、救いのない『灰色』が天を覆っている。
「ここは、やっぱり嫌いだ」
―――嫌なことを思い出す。
そう吐き捨てたセリフが白く濁った吐息になり風のない空気に溶けていく。
(やベッ……)
不用意に言葉が漏れた瞬間、僕は反射的に自分の口を掌で抑えた。
(これくらいなら、おそらくは大丈夫だと思いたい……)
初めてここへ迷い込んだ時は、パニックで周りを観察する余裕なんて微塵もなかったな。ただ生きて帰ることだけを考えて、視界の端に映る景色なんて泥のように濁っていた気がする。
そう考えながら僕は灰色の視界の先、おぼろげに霞む山の稜線を睨んだ。
目的地である「社」は、あの麓にある。
距離にして、まだあと三キロほど。
普段ならなんてことのない距離だ。だが、一歩ごとに体温を削り取られる。この三キロという距離は果てしないほど遠く、絶望的な道のりに感じられた。
ふと、耳鳴りのような静寂が、粘り気を帯びて肌にまとわりついた。
風すらも死に絶え、空気はその重みに耐えかねるように、ミリ単位で凍りついていく。
吸い込む酸素は、肺の奥を直接切り裂くような、冷徹な鉄の味がした。
予感。
――――――ッ。
背後から、殺意を極限まで煮詰めたような、圧倒的な死の匂い。
―ズ、ズズ……ッ。
アスファルトを這いずる、濡れた肉塊のような、不快極まりない音が鼓膜を震わせる。
「さすがに……まだ、足が震えるな」
僕は震える膝を叩き、逃げ出したい本能を理性でねじ伏せて、ゆっくりと振り返った。
そこにいたのは、住宅街の影から這い出してきた、「冒涜」という言葉を形にしたような肉の塊だった。
この灰色の世界によく似合う、白濁した胴体を持つ巨大な芋虫。
その節々からは、左右非対称に、無数の「人間の手足」が、まるでムカデの脚のようにびっしりと生え揃い、不規則に蠢いている。
ある手は痙攣し、ある足は逆方向へ折れ曲がりながら、アスファルトを掻き毟っていた。
そして。
その芋虫の先端には、不釣り合いなほど巨大な「赤ん坊の顔」が、無理やり張り付けられていた。
『オギャアァァ、オギャアァァァッ』
裂けた口から漏れるのは、脳を直接削り取るような泣き声。
その貌を視界に捉えた瞬間、全身の細胞が「それ」を拒絶し、猛烈な寒気と共に一つの言葉が脳裏に突き刺さった。
(……穢)
それは、生命の循環から外れ、ただ負の感情と死を煮凝りつかせただけの不浄の奔流。
死にきれず、現世への執着だけを肥大化させ、異形へと成り果てた哀れな未練の塊。
その圧倒的な威圧感に、僕は一瞬、思考が真っ白になってしまった。
―――瞬間。
そいつは、物理法則を無視したような高速で突進してきた。
ベチャッ、ベチャッ、という肉の爆ぜる音と共に、無数の手足がアスファルトを叩き、巨大な赤ん坊の顔が視界一杯に迫る。
「ッ……!」
咄嗟に横へ跳んだ。
けれど、芋虫の節から伸びた一本の「腕」が、鞭のようにしなって僕の脇腹を薙いだ。
その一撃は、軽くコンクリートを粉砕する威力を秘めていた。
「がぁっ……!」
衝撃でゴミ箱に叩きつけられ、右脇腹の奥で「パキッ」と嫌な音が弾けた。
位置的に、おそらくあばらが折れた。呼吸をしようとするたびに脇腹が激しく軋み、脳を焼くような痛みが全身を貫く。
「……っ!? ……が、はっ……あ……っ……」
さらに、追い打ちをかけるように全身を包み込むのは、吐き気がするほどの腐敗臭。
正体不明の激痛と、鼻を突く死の臭いが混ざり合い、意識の輪郭は急速に溶けていった。
『オギャアァァ、オギャアァァァッ!』
異形が、首を不自然に180度回転させ、再び僕をその虚ろな瞳で捉える。
「……っ。ここだ、来いよ」
逃げられない。なら、やるしかない。
肉を、血を、神経を、そして溢れ出す感情のすべてを一点に集中させ、僕は右手を突き出した。
――――。
『絶』
「……っ、嘘だろ」
――不発。
右腕は重い泥を詰められたように沈黙したまま。
絶望を嘲笑うように、化け物は止まることなく、二度目の突進を開始した。
(クソッ! この状況になっても発動しないのかよ!)
紙一重。いや、数ミリの差で、その巨体を横に転がって避ける。
耳元を、大型トラックが最高速で通り過ぎたような轟音と風圧が掠めていった。
(っぶねぇ……! まともに喰らったら、挽肉どころか塵すら残らないじゃねぇか!)
だが、ただ逃げ惑っていたわけじゃない。
死線の淵で、僕の脳は異常なほど冷えていた。回避した瞬間、僕は奴の欠陥を「視た」
あの巨体と、不揃いな無数の手足だ。突進の勢いが凄まじい分、方向転換に無理がある。
あいつが顔をこちらへ向け直すまで、コンマ数秒――確実な「硬直」が生じている。
(……突破口はある。賭けるしかない)
勝機はほぼゼロだ。
けれど、その万に一つもない可能性にすべてを懸けなければ、僕は道路の一部に成り下がる。
僕は身を翻し、わずかな遮蔽物を求めて庭先の茂みへと滑り込んだ。
冷たい汗が滝のように頬を伝う。
ドクン、ドクンと、鼓動の音が耳の奥で爆ぜるようにうるさい。自分の心臓の音のせいで周囲の音が遠のき、世界から切り離されたような錯覚に陥った。
僕は視線を異形から逸らさぬまま、背後の茂みの中、泥にまみれた地面を必死に手探りで掻き毟った。
指先に刺さる枯れ枝の痛みも、爪の間に食い込む土の不快感も、今はもう遠い世界の出来事のようだ。
――指先に、ゴツりとした重い感触。
手頃な大きさの、角張った石を一つ。
そして、そのすぐ傍らに散らばっていた、割れた空き瓶の残骸――。
僕は容赦なく、その砕けたガラス片を手のひらで鷲掴みにした。
ジャリ、と嫌な音がして、鋭利な断面が皮膚を裂き、肉に食い込む。
熱い血が指の間から溢れ出した。けれど、その灼熱のような痛みが、逆に凍りつきそうだった僕の意識を強引に繋ぎ止めてくれた。
握りしめた拳の中で、粉々になったガラスの破片がぶつかり合い、微かな悲鳴を上げる。
それは武器と呼ぶにはあまりに無力で、けれど今の僕にとっては、この命を繋ぎ止めるための唯一の「武器」だった。
――ガリッ、ガリガリッ!
異形が無数の手足をもつれさせながら、方向転換を完了する耳障りな音が聞こえた。
(今だ……ッ!)
僕は茂みから腕だけを、蛇が獲物を狙うかのように静かに突き出した。
手のひらに滲んだ血で石が滑らぬよう、指先に全神経を集中させてその角を強く掴み直す。
狙いは、対角線上にある民家の屋根。
外せば終わり。弱すぎたら、この異形の関心を逸らすことはできない。
「……ふん!」
肺に溜まった熱い空気を吐き出すと同時に、渾身の力を込めて腕を振り抜いた。
石は湿った異界の空気を切り裂き、鋭い風切り音を残す。
僕の視界の中で、小さな礫が綺麗な放物線を描いた。
直後。
――カァンッ!
静まり返った住宅街に、乾いた硬質な衝撃音が爆ぜるように響き渡った。
瓦を叩き、弾け飛ぶ石の音。
『ウアァャァッ!?』
不気味な赤ん坊の顔が、反射的に音のした方角へ――僕とは逆の方向へ向けられた。
巨体が音の正体を追い、その方向を修正しようとする、コンマ数秒のラグ。
(走れ……ッ!!)
茂みから飛び出し、アスファルトを蹴った。
異形が音の正体に気づき、首を再び回転させて僕を捉える。
突進の構え。大型トラック並みの質量が、逃がさぬとばかりに僕を睨みつける。
「……これでも、喰らってろ!」
僕は勢いを緩めるどころか加速させ、握りしめていたガラス片を、奴の巨大な「顔」に向かって全力で投げつけた。
砕けたガラスが、散弾となって奴の無防備な瞳へと突き刺さる。
僕の手もまた、ガラスの破片で血まみれになっていたが、そんな痛みはもう感じない。
『オギャァァァァッ!!』
異形がいっちょ前に、怯んだ。
突進の軌道がわずかにブレ、狙いが逸れる。
勝負は、ここだ。
避けるのではなく、ブレた突進の、その懐へと自ら飛び込む。
凄まじい腐敗臭が鼻を突く。
醜悪な「赤ん坊の顔」が、僕の目の前、零距離に迫る。
僕はその咆哮を正面から受け止め、
渾身の『左手』を、そいつの眉間へと叩きつけた。
『■』
流れる、誰かの記憶――――――。




