第陸帳 :【狂気】
――視界が、赤黒く染まる。
脳が焼けるような熱。喉の奥まで、自分のものではない他人の絶望がせり上がってくる。
見えたのは、狭くて暗い、ゴミの散らかったアパートの一室。
そこに転がっていたのは、小さな「肉の塊」だった。
「……ぅぁ、……けほっ!」
ヒューヒューと、壊れた笛のような呼吸音が鳴る。
泣き声すら出せなくなった赤ん坊。虐待。その果てに、その小さな体からは、自由を奪うように両手両足が「奪われて」いた。
動くことも、這うことも、拒絶することさえできない。ただ、天井を見つめて、壊れたおもちゃのように放置された姿。
そして、それを行った外道―――。
――――身体欠損性愛。
その赤ん坊の母親は、欠損した肉体に性的な昂ぶりを覚える異常愛者だった。
反吐が出る。何よりそれを実行し、あろうことか自らの子に対して凶行に及んだその狂気。もはや「人」と呼ぶことすらおぞましい。
(……ほしい、て、ほしい、あし、ほしい、だっこ、ほしい……)
言葉にすらならない純粋すぎる渇望が、幽世と混ざり合い、膨れ上がった。失われた四肢の代わりに、他人の手足を何本も、何十本も生やして。
――ああ、そうか。
あの無数の手足は、僕を殺すための武器じゃなかった。
誰かに「しがみつきたい」という、ただそれだけの、救われない祈りだったんだ。
(……だから、あんなに「もつれて」いたのか)
多すぎる手足は、歩くのにも邪魔で、方向転換すらままならない。それは化け物としての強さではなく、満たされない欠乏の象徴。そして、それこそが、僕が突進を避ける隙を作った「弱点」の正体だった。
最後に見えたのは、暗闇の中で――理解りたくないものが、分かってしまう――母親の歪んだ愛。その躁的で狂気を孕んだ笑顔だった。
「……もう、いいよ」
僕は右手に力を込めた。
『絶』
それは拒絶ではない。この地獄のような記憶の続きを、僕がここで断ち切ってやるという、せめてもの慈悲だ。
――――。
パチン、と電源を切るように。
音もなく闇に帰るように。腕の中にあった重みが消えた。
呪いを構成していた無数の手足も、巨大な赤ん坊の顔も、僕の右手を起点に霧散し粒子は空へと上昇していった。
「……はぁ、……っ、げほっ!」
膝をつき、激しくせき込む。
胃の底からせり上がってくるような冷気と、自分のものではない「悲しみ」が胸にこびりついて離れない。感覚を失った右腕は、泥を詰め込まれたように重くぶら下がっている。
「……あいつ、最後は……」
笑っただろうか。それとも、ただ消えただけか。
脳裏に焼き付いた姿が消えず、視界が滲む。
―――瞬間。再び、死の気配が襲った。
(嘘だろ……)
そこに現れたのは、ボロボロの服を纏い、異様に長い黒髪を地まで引き摺った女。
だが、その輪郭は絶望的に壊れている。
本来なら柔和な表情があるはずの顔の真ん中には、鼻も目も口もなく、ただ光すらも飲み込む「渦」が音もなく回転し続けている。そして、命を育むはずの腹にもまた、底の見えない暗黒の穴が開いていた。
おそらく、あの赤ん坊の母親だろう。
『よ゛く゛も゛ぉ゛う゛ち゛く゛ぉ゛お゛』
その呪詛とともに、異形の母親から放たれた不可視の衝撃が空気を裂いた。
狙いは、先ほど石を投げつけた僕の右腕。
――殺られる。
本能が叫び、僕は反射的に身体を捻ってその一撃を回避しようとした。
だが、あばらの激痛で鈍った身体は、非情な現実を突きつける。
完全に避けきれず、狙いを逸れた衝撃の塊は、あろうことか僕の右脇腹を正確に撃ち抜いた。
――そこは、先ほどあばらが折れた場所だ。
「……っ!! ぐ、あ……っ……!」
先ほどの乾燥した破砕音とは違う、「ズブッ」という、濡れた肉を裂く鈍い感触が内側から突き抜けた。
折れたあばらの鋭利な先端が、逃げ場を失い、ついに剥き出しの肺を深々と突き刺したのだ。
呼吸をしようと胸を膨らませるたびに、刃物が肺を直接抉り抜くような、未体験の激痛。
間髪入れず、熱い血の泡がせり上がり、口の端から溢れ出した。
呼吸という生存本能が、自分を内側から切り刻む凶器へと変わる。
視界は真っ赤に染まり、膝は震えて崩れ落ちそうだ。それでも――。
―――その言葉に、僕は血管が切れたと勘違いするほどの怒りを感じた。
「下衆がぁ……!」
「こんなところまで来て、また自分の子を盾にして逃げるのかぁ……!」
柄にもなく、吠える。
このまま無抵抗で死ぬよりはマシだ。
感覚を失った右腕を、肩を中心に遠心力で無理やり振り回し、再び突き出す。
『ぜぇっつ!!!』
喉が裂けるほどに叫ぶ。だが――何も起こらない。
右腕は、ただの重い肉の塊としてぶら下がるだけだ。
「ウ゛ゥ゛ッ゛! げほっ、……がはっ、げほっ!」
無理な咆哮と旋回が、肺に突き刺さったあばらをさらに深く押し込み、内側を無慈悲に抉り抜いた。
せり上がってきたのは、空気ではなく熱く、粘り気のある鉄の塊。
激しくせき込むたびに、鮮紅色の血の泡が口から勢いよくぶちまけられ、地面の灰色の石畳を赤黒く染めていく。
同時に激しい目眩が視界を回す。右腕の感覚はとうに消え、代わりに鳩尾を直接抉られるような、焼火箸を突き刺されたような激痛が全身を貫いた。
もう、終わりか―――。
――ふざけるな。
こんな、子の四肢を奪って悦に浸るような外道に。
幽世に堕ちてなお、我が子を盾にするような、吐き気のするゴミクズを前に。
何一つ報いを受けさせられず、指一本触れられずに、僕はここで果てるのか。
――あまりの悔しさに、奥歯が砕けるほど噛み締めた。
視界は真っ赤に染まり、膝は震えて崩れ落ちそうだ。それでも、僕は視線を落とすことだけは拒絶した。
せめて死に際の一瞬まで、この下衆の顔を呪い殺すつもりで睨みつけてやる。
その、執念だけで顔を上げた、その――。
―――刹那。
背後の『社』の方角から、蔓延る灰色を塗り替えるほどの白銀の閃光が爆ぜた。
それは、音さえも置き去りにした光の槍だった。
空気を焼き、因果を貫き、一直線に放たれたそれは、僕の鼻先を掠めるほどの至近距離を通り抜ける。
凄まじい風圧と、清浄な神気の奔流。
直後、僕の目の前で『渦』を巻いていた母親の異形の、その胸の真ん中を白銀の槍が深々と貫いた。
『――――――ッ!?』
顔の穴から漏れたのは、悲鳴ですらない概念的な絶叫。
光の槍が突き刺さった箇所から女の形が崩壊していく。
――見上げれば。
霞む視界の先、あまりに遠く、けれど確固たる存在感を放つ鳥居の前に、その影は立っていた。
月光をそのまま形にしたような、透き通る銀髪。
風もないはずのこの死に絶えた世界で、その髪だけが生きているかのように滑らかになびき、細かな光の粒子を振り撒いている。
彼女は、指先をこちらへと静かに向けたまま。
射抜くような鋭さと、すべてを見透かすような慈悲が同居した瞳を細め、僕の無様な姿を冷徹に、けれど真っ直ぐに見つめていた。
その佇まいは、血と泥にまみれたこの戦場において、あまりに異質で、あまりに神々しい。
圧倒的な力。
「……おそ……いんだよ……」
僕は膝をつき、感覚のない右腕を左手で抱えながら、力なく笑った。
母親の異形は形を保てず、すべてが光の粒子に分解され、空へと昇っていく。
その時、頭上から呆れたような、けれど柔らかな声が降ってきた。
いつの間にか、神主が僕の目の前に立っていた。
〈……。お主、馬鹿か。無茶をしすぎじゃ〉
ため息をつきながら膝をつく彼女の指先から、じんわりとした熱が伝わってくる。凍りついていた右腕の血流が、ゆっくりと呼び覚まされていく。
〈……じゃが、まあ。……合格じゃ〉
黄金の瞳を少しだけ細め、覗き込んできた彼女の瞳には、慈しむような穏やかな光が宿っている。
「……ぼくを……試してい……た……ですか?」
彼女は答えてくれない。
神主は僕の肩を支え、折れそうな体を立ち上がらせてくれた。
彼女の細い肩を借り、社の石段を一歩ずつ上り始める。
〈少しの間じゃが、社の奥で休むがよい。……余が、少しばかり癒してやろう〉
「……は、……えっち、なのは……断り、ます……」
肺を刺された損傷は深く、言葉を発するたびに喉元まで熱い血がせり上がってくる。
鉄の味が口内に広がり、声は掠れて途切れがちだ。
〈くくっ。減らず口〉
薄れゆく意識の中で、彼女の体温だけが鮮明だった。荒れ狂っていた鼓動が正常に戻っていくのを感じながら、僕は深い安らぎの闇の中へと、意識を手放した。




