第52話 お帰りなさいの麦酒と、二人の写真
五月一日、金曜日。「お疲れ様です」と退勤の挨拶をしていつも通り帰宅した。今日から連休だ。
家で着替え、昨日買ったお菓子を鞄に入れる。結局、手土産にはエシレのクッキー缶を選んだ。紗代とあんなに候補を出したのに、あの焼けたバターの匂いを嗅いだら誘惑に抗えなかった。お値段もそこそこするのに、自分のために一つフィナンシェも買ってぺろっと食べてしまった。
鏡を見ながら髪を整えていると、スマホに設定したアラームが鳴る。待ち合わせの五分前だ。往復券の画面を開き、大きく息を吸ってから転移のボタンを押した。
* * *
広場はまだ少し明るく、行き交う人の影が石畳に長く伸びていた。顔を上げると、門のそばに立っていたジェラルドさんがすぐにこちらへ歩いてくる。何度か想像した場面だけれど、現実の破壊力は凄まじい。相変わらず……かっこいい。
「なの花さん!」
「ジェラルドさん! お久しぶりです。あの……おかえりなさい」
「……あ、ああ。ただいま」
目が合ったまま、少し間が空く。何か変だっただろうかと自分の服を見下ろすと「いや」と声がする。
「あなたに、おかえりなさい、と言ってもらえるのは、いいな」
ああ、もう。会って早々、そんなことを言われるとは思わなかった。一か月ぶりのジェラルドさんは少し痩せているように見える。遠征とやらは、そんなに大変なんだろうか。
「お怪我は、なかったですか?」
「この通り元気だ。フローラも元気だ。今日は厩舎で休んでもらっている」
「よかった。フローラにも、また会いに行きます」
「そうしてやってくれ。……今日は、俺と過ごしてもらっていいか」
頷くと、手を差し出された。大きな手に自分の手を重ねて、「今日を、楽しみにしてました」と伝える。ジェラルドさんが嬉しそうに笑った。それだけで、言えてよかったと思った。
* * *
案内されたのは、大通りから少し入ったところにあるバルだった。開け放した扉の向こうから、肉を焼く匂いと、賑やかな音楽が流れてくる。もうたくさんのお客さんがいて、店内は活気に満ち溢れていた。
「もう少し静かな店とも迷ったんだが、ここの料理を食べてもらいたくて……ていうのと、俺が食べたくて」
「こういうお店、大好きです! ジェラルドさんが食べたいものも、気になる」
奥の壁際、まだ静かなハイチェアの席に座ると、髭を生やした恰幅のいい店の人が「おお!戻ってたのか、お疲れ様、一杯サービスするよ!」と声をかけてきた。ジェラルドさんが短く「ありがとう」と返す。馴染みの店なんだ。
「おや! 見慣れないお嬢ちゃんだね!」
「あ、えっと、はじめまして」
「おい、そんな大声を出さないでくれ。彼女がびっくりするだろう」
「はっは!いいねぇ、お嬢ちゃんにも一杯サービスだ」
一度カウンターに戻った店員さんの背中を見ていると「すまないな、やはりもう少し静かな店にすればよかった」と項垂れてしまった。「大丈夫です!」と返す。実際、本当に何も問題なくて、ジェラルドさんは私をか弱いものとして想像しすぎではないか、とそちらのほうが不安になった。
程なくして、キンキンに冷えた麦酒が運ばれてくる。
「あいよぉ!」
「ありがとう、そうだ、なの花さん、お酒は飲めるだろうか、先に聞かなければいけなかった」
「飲めますよ!すごく美味しそう、早く飲みましょう」
乾杯!と同時に厚めのグラスがぶつかる音がして、ぐっぐっと数口飲む。最近飲んだクラフトビールの味に近いけれど、奥の方からなじみのないハーブ?のような味もする。美味しい。目の前を見ると、ジョッキから口をまだ離していないジェラルドさんが「う、ま、い!」と全身で表していた。
「ぷはぁ!……うん」
「え、あ、……なにか、ついてますか?」
「いや、あなたがそんな美味しそうに麦酒を飲むとは思っていなかった。まだまだ知らないことがたくさんあるな」
「そうですね、私もジェラルドさんは飲まないかと勝手に思ってました」
食事は、肉と玉ねぎを焼いたものを二人分、それから野菜のピクルス、オリーブ、籠盛りパンを慣れた様子で頼んでくれた。
「遠征って、どういう生活だったんですか? 外で寝たりするんですか」
「宿があるところでは泊まることもあるが、今回は野営が多かったな。雨続きで何も乾かなくて困った。帰って最初にしたのが、靴下の洗濯だ、全然泥が落ちない」
意外すぎて笑ってしまった。ジェラルドさんが靴下を洗っているところ、想像したことがない。
「ご自分で洗うんですね」
「自分で洗うしかないからな。今日は干したまま来てしまった」
「あ、私もです。帰ったら取り込まなきゃ」
仕事をして、洗濯をして、出かける。当たり前の生活をしている人なんだ、と少し身近に感じた。忘れないうちに、と鞄からお菓子の袋を出して渡すと、ジェラルドさんは丁寧に両手で受け取った。
「また、いただけるのか」
「はい、今日は、クッキーです」
「なんだかもらってばっかりな気がして、俺からも、一つ」
そういってポケットから出してくれたのは、かわいらしい木彫りのリスの根付けだった。手には黄色い花も描いてある。
「遠征先の小さな店にあって、なの花さんのことを思い出した」
「わぁ……かわいい、いいんですか? ありがとうございます」
「宝石などの方がいいかと思ったのだが、生憎そういう店はなかった。掘り出したままの鉱石なんかはあったんだが」
「そっちはもらっても困っちゃうかも」
おしゃべりを楽しんでいると、料理が届いた。平たいお皿に焼いた肉と玉ねぎがたっぷり盛られている。ソースも玉ねぎ仕立てだろうか、とてもいい匂いがして、お腹が鳴る。
「「いただきます」」
切った肉に玉ねぎをのせて、口へ運ぶ。噛むとじわっと肉汁が出てきて、甘い玉ねぎとよく合う。
「やわらかい、美味しい……!」
「うん、うまいな」
麦酒を一口飲み、もう一度肉を切った。これは、パンもいいけどご飯も欲しい。
「すっごくおいしいです」
「よかった。遠征中に、帰ったらこれを食べたいと話していたんだ」
「皆さんと?」
「そうだ。そのとき、なの花さんも……一緒ならいいなと思っていた」
またそんなことを。私はそのころ、何を食べていただろう。コンビニの中華丼か、自分で作った生姜焼きか、はたまたタルト二つか。知らないところで思い出してもらっていたのが嬉しくて、お皿を見たまま笑ってしまった。
ジェラルドさんは食べるのが早い。私がまだ三口目だというのにお皿の半分が空いていた。目が合うと、少し気まずそうにパンを置く。
「すまない。急がせるつもりはないんだ、遠征中の食事時間が短くて、ついクセに」
「いえいえ、思うまま食べてください」
* * *
食べ終わって外へ出ると、通りの灯りがつき始めていた。お腹がいっぱいなので、少し散歩をすることにする。途中、ジェラルドさんが店先を見て足を止めた。写真館だ。たくさん飾られている写真の中、黄色いエプロン姿の私の姿もある。
「あ、これ、この前、ここで働いて……サンプルって感じで、格好もこんなので、あの」
「とても、いい笑顔だ」
ジェラルドさんが写真を覗き込む。そんなに見ないでほしい。隣で落ち着かずにいると、扉が開いて写真館の女性が顔を出した。
「あら、この前のスキミーさん! 写真飾ったんだよ、見た?」
「こんばんは。はい、本当に飾っちゃったんですね、ちょっと恥ずかしいです」
「そんな! い〜い顔でしょう? ねえ?」
女性がジェラルドさんへ尋ねる。返事を聞くのが恥ずかしくて、私は別の写真を見るふりをした。
「……とてもいいな。この写真……一枚、お願いできるだろうか」
「えっ?!」
「欲しいのかい? 複製なら、すぐに出せるよ」
驚いて見上げると、ジェラルドさんがこちらへ向き直った。
「ちょ、ちょっと、こんなの、いるんですか」
「厩舎でも、よくこんなふうに笑っていた」
こんな顔をしているのか。女性は「じゃあ、店に入って」と中へ案内してくれた。
「……あの、私も、欲しいかも……」
「え」
ジェラルドさんが振り向いた。この生活、スマホで撮った写真が見られるわけじゃない。私も、会うたび、帰るたびに脳内で必死に思い出すことしかできなかった。
「ジェラルドさんの写真も欲しいです」
「ああ……そうだな。どうすればいい?」
「あらあら、じゃあ、二人で撮ったらどう?」
写真館の女性が、あっさり言った。
* * *
背景の布の前、私の後ろにジェラルドさんが立ち、二人で重なるように立った。この前一人で撮った時よりもだいぶ緊張する。
「もう少し、重なって。竜人さんが大きくて、入らないわ」
「こ、こうですか? 合ってるかな」
「俺もこういうのは慣れていない。写真は毎年団で撮るのだが、全て集合写真だ」
小さな声で言われて、思わず顔を向ける。ジェラルドさんも、少し困ったように笑っていた。
「はいはい、カメラ見てね、そのまま、うん、笑って」
言われたとおりに前を向いたところで、優しい灯りがぱちりと光った。
* * *
写真は二枚作ってもらい、受け取りにはまた二人で来ることにした。門へ向かう道でお互いの予定を確かめ、次に会う日も決める。
「変な顔、してなかったかな〜」
「俺は、あなたを見ていたかもしれない」
「えぇ、それはちゃんと前を見て欲しいです」
笑うと、繋いだ手に少し力がこもった。仕事のことや、住んでいる場所や、まだ知らないことはたくさんある。でも、今日は色んなことを知ることができた。
門の前で手を離すと、ジェラルドさんが「また」と言った。
「はい。また、会いに来ます」
部屋に戻り、鞄を置いてから、干したままの洗濯物を取り込んだ。ジェラルドさんも、今ごろ靴下を取り込んでいるだろうか。




