攫われたサンディの恐怖体験
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僕は完全に脱力しきってベルナルダに担がれていた。
傀儡を通じて術者を拘束するなんて出鱈目な魔法だ。
猿轡をかまされているからこの拘束魔法の効果が切れても呪文が唱えられない。あの短時間で恐ろしい手際の良さ。
女傑なんて言葉じゃ生ぬるい。
なんで王女がそんなことできるんだよ。指揮官として有能なのはわかるけど、個人でこのスペックはやっぱりおかしいんじゃないか?
こいつに勝ったユリウス将軍は本当に偉大だ。
酒代くらい気持ちよく踏み倒されてもいいかもしれない。
もし生きて帰れたら、だけど。
なんせベルナルダが僕を生かす理由がないからね。
彼女にとっての僕は憎きロマニアからの刺客。
どこでバレたのかはわからない、と言いたいところだけどたぶんニックを通じて魔法を使おうとしたところだろうな。傀儡術という安全策がまさか裏目に出るなんて。
僕もそれなりに場数を踏んできた魔法使いで、修羅場もそこそこくぐってきたが、ここまでの命の危機は初めてだ。
しかも頼みの綱はニックの善意だけ。
だからこそ、僕はそんなに焦っていなかった。
か細いようでいて一番の命綱だから。
現に追いかけてきてくれているのがパスを通してわかる。
どうやって奴隷の身の上であのまっとうな倫理観を保ててきたのやら。君のそういう正しいところが僕にはとっても眩しくて、君の一番尊敬できるところだと思っている。
こんなこと今更言っても怒られるだろうけど。パス返せって。
あと出来ればもっと速く走ってほしいなんて言ったらさすがのニックもぶちぎれて引き返すだろうから何も言わないけど。
ベルナルダは自分で出した魔術の明かりを頼りに森の奥へ奥へと走っていく。わずかに見えていた宿場町の明かりは木々の暗闇に紛れてもう見えない。
冷たい風が吹き、僕は思わず目をつむった。
いつの間に森を向けたのか、視界が一気に開ける。
魔術の明かりをかき消すような怜悧な月の光で照らされた荒野が広がっていた。
先ほどまでの森と打って変わってどこか砂っぽい土壌には雑草が点在するばかりで
広葉樹の類は見当たらず、代わりに妙に加工されたように角ばった岩が増えていく。
なんだこれ。
まるで別世界に迷い込んだような。
森の中にこんな場所があるなんてびっくりだ。まさか隣国に続く抜け道を勝手に作られているんだろうか。なんでベルナルダはこんな道を知ってるんだ?
こんな秘密の場所みたいなところに逃げ込んだわけだし、もう僕は用済みだとばかりに処分されるのでは…。
冷たい汗が伝い落ちる。
ベルナルダが立ち止まり、僕を近くの岩の根元に乱暴に下ろした。
ぐるりと周囲を見回して一言。
「森の中にこんな場所が?」
どうやら違ったようだ。
安心したのも束の間。ひんやりとしたナイフが喉に突きつけられる。
ナイフよりひんやりしたベルナルダの茶褐色の瞳が僕を見下ろす。
「変な真似をしたら殺す」
僕がうなずくと猿轡が外された。
「こんな場所、地図にはなかった。隣国に通じる道なのか?」
辛うじて動かせる眼球で周囲をさっと見回す。
勿論、わかるわけがない。
荒涼とした荒れ野に、突き刺さる廃墟と思しき石の柱。岩だと思っていたのはこの廃墟の残骸で、石の材質がロマニアでよく見る白い石じゃないことくらいしかわからない。
僕は自分が背もたれにしている岩を仰ぎ見た。
これも岩ではなく何かの彫像だった。あちこち欠けているのにその断面は妙につるりとしていて、風化している様子もない。
せめて標識かなんかならよかったのに!
アトリビュートから推察するにこの彫像は知恵の女神ミネルヴァっぽい。ラティーノの守り神であるマールスとは敵対する逸話が多い女神だってことを考えると…。いや、わからん。こんなの大したヒントにならないぞ!
迂闊なことを言ったらナイフで頸動脈をチクリなんだから。
もう少し首が動くようになってきたのであちこち見まわしていると、後方に見慣れない造りの建物が見えた。
ミネルヴァの彫像が近くにあるってことは、神殿か学術機関といったところかな。看板らしきものがないから正確なところは言えないけど!
「どうなんだ?」
ナイフがさらに首筋を圧迫する。
まずいまずいまずい。
そんなこと言われたって、僕にカナトース地方の土地勘があるわけないだろ!
森に入ったのも今日が初めてだってのに!
ニックはまだ森の中を走っている。
考えよう。どっちの方が勝率の高い賭けになるか。
わからないと正直に白状してベルナルダが寛容にも僕を殺さずにいてくれるか、ベルナルダのナイフが喉を裂くより先に拘束の呪文を唱え切れるか。
どちらもニックの興行で負けに賭けるより低い確率なのは承知の上で。
口を開こうとして止まった。
ベルナルダのナイフが僕から離れる。
こわばった表情でゆっくりと後ずさる。
その視線は僕の上、ミネルヴァの彫像のさらに上。
嫌な予感がして、僕はとっさに横に飛びのこうとした。
しかし、ベルナルダの魔法が完全にとけていないせいでただ横に倒れただけだった。
轟音と共に容赦なく激痛と重量が僕の足に襲い掛かる。
「…っ!」
人間、痛すぎると声も涙も出せなくなる。痛すぎてそんな余力もないから。
だが、それが結果的によかったようだ。
「このっ!」
ベルナルダが地面に倒れて何かの獣ともみ合っていた。
「ううっ…!」
その獣は恐ろしい唸り声を上げてベルナルダのナイフを持った手に食いついている。獣の咬合力には女傑も敵わずナイフを奪い返そうと四苦八苦。
獣の胴体にベルナルダの蹴りが入る。獣の体が宙を浮くが、それでも執念でベルナルダの腕を食いちぎろうとますます顎に力を加える。
ベルナルダは全力で腕を引き、獣を引き寄せると、迷わずその毛皮に顔をうずめた。
「ぎゃうううーん!」
獣が叫び、暴れ出す。そしてそのまま動かなくなった。
ベルナルダが毛皮の中から顔を出す。
獣の喉笛は赤くえぐれていた。
ベルナルダは口に含んだ肉塊を吐き捨て、口を拭う。獣の血が紅のように唇から頬へと広がる。生臭さが夜風に乗って僕に届き、えずいてしまった。
ベルナルダが獣の口から取り出した腕はほとんど手首が取れかけてズタズタだった。そんな状態だってのに彼女は平然としていた。淡々と自分の腕に治療魔法を掛けながら周囲を見回す。
「おい、貴様。コレはなんだ?」
ベルナルダは獣をつま先で転がす。
死んだ獣と目が合って僕は喉の奥がひりつく。
死んだ獣の見開いた3対の目。狼か何かだと思ったら、額に折れた角の跡がある。
「わ、わからない…」
「ちっ…使えない」
ベルナルダは元通りに再生させた右手でナイフを拾った。
あ、これはまずい奴では!
立ち上がろうとして、足に激痛が走る。
僕の足は彫像に押しつぶされていた。
ベルナルダが一歩歩き出そうとして、急停止した。
ナイフを取り落とし、頭を両手で抑える。
「なんだ…誰だ…うるさい…!」
様子がおかしい。
目はがん開きでおぼつかない足取りでフラフラ歩きながら何かをブツブツと呟いている。
「ああっ、私の中から出ていけ…。聞かない、ぞ…」
不意にその体から力が抜け、ぺたんとその場に座り込んだ。
さらに何かブツブツ呟いていたが、急にがっくりと俯く。
「ああ、わかった。いいだろう…」
独り言が止まった。
そして顔を上げたベルナルダは僕を見た。
どこか神聖ささえ感じさせる穏やかな面持ちで。
乾いた血がこびりついた唇が震えて、ゆっくりと開く。
「ギャアアアアア」
甲高いハゲタカのような言葉にならない声がその口から飛び出した。
そこはかとないデジャビュ。そう、これはバグった巫女の狂った叫びに似ていた。
「あああっ!」
本能がここにいちゃいけないと警鐘を鳴らす。
彫像から足を抜こうと力を籠める。
「ぐああああっ!」
痛い。痛い。
でも、それどころじゃない。
片足が抜けたところでタイムアップだった。
四つん這いになって迫りくるベルナルダ。
その手が僕の腕を掴んでいた。
「寄越せ…寄越せ…」
完全に狂った目で覗き込まれて、背筋が凍る。
「あっ…」
痛いくらいに指が食い込んでくる。
そしてせっかく直した自分の右手にむしゃぶりついた。
ゴリッ。
人体からしてはいけない嫌な音。
ベルナルダの口から血が伝い落ちる。
そして僕に向かって吐きつけてきた。
咄嗟に口を閉じる。
生臭い飛沫と共に、生暖かい物体が唇にぶつかる。
ぬるぬると血でぬめった小さな肉塊が砂っぽい地面に転がった。
嫌悪感で鳥肌が立つ。
ベルナルダの指先だ。
ベルナルダはうめき声をあげながらそれを拾い上げると、僕の口に無理矢理ねじ込もうと押し付けてきた。
なんだこれ。なにがしたいんだこれ。
気持ち悪い。気持ち悪い。怖い。理解できない。怖い。
とにかく意地でも口を開けちゃいけない。
だがベルナルダは容赦なく残った指先で僕の口をこじ開けようとしてくる。
痛い。もうダメだ…!
「ぎゃっ…!」
ベルナルダの重みが消えた。
目を開くと、ニックが立っていた。
もう一度ベルナルダを蹴り飛ばすと僕の腕を掴む。
「おい、大丈夫か!?」
「な、なんとか…」
ベルナルダは四つん這いからゆらりと立ち上がった。
「あいつを捕まえるんだよな?」
背中の鞘から大剣を抜こうとするニックの腕を止める。
「ニック…ニック!アレはもういい、逃げよう!」
「は?なんで!?」
「いいから」
ニックは舌打ちし、強引に僕を彫像から引きずり出した。
信じられない痛みが足から脳まで走り抜けていくが、抗議する間も惜しい。
僕を肩に担ぎ、ニックは一目散に駆け出した。
「ウギャアアアア」
雑音をまき散らしながらベルナルダも追いかけてくる。
まるで化け物が人間を操っているかのような、人体の構造を無視した歪な走り方で。
それなのにとてつもなく速い。
完全に正気じゃない。
いや、まさか…何かが入ってるのか?
ニックの背に揺られ、その空間を一歩引いてみられる距離に来てようやく僕は違和感に気づいた。
今日は新月のはずなのに。
空には2つの月が浮かんでいた。
叫びながらなおもベルナルダが追いかけてくる。
その血まみれの右手が僕の眼前に迫る。
「うわぁっ!」
欠けた指先から滴る血が僕の頬を濡らす。
だが、届くことはなかった。
「あうぅううんっ!」
ベルナルダの横っ腹に獣が飛び掛かり、ベルナルダを引き倒すと、どこから現れたのか複数の獣たちがその体に襲い掛かる。
「ギャアアアアア」
ベルナルダの喉から絞り出された声は断末魔か狂気か。
僕は最後まで聞いてはいられなかった。
薄れゆく意識の中で頭の中にアルマの声がよぎった。
『異界』
非常に情けない話だが、これがロマニアと『異界』のファーストコンタクトとなった。




