終宴
空襲警報のサイレンが、重く、長く、夜の銀座を震わせた。
「……空襲か!?」
「おい、今の音、間違いねえな!」
狂乱の宴は一瞬にして凍りつき、マホガニーの長テーブルを囲む手下たちが色めき立つ。先ほどまで卑猥な声を上げていた男たちが、腰を浮かし、落ち着きなく視線を泳がせた。
だが、その喧騒を裂くように、一人の男が静かに鼻で笑った。瑞穂屋の列に座る、痩身の男――竹本である。彼は騒ぎ立てるヤクザどもを冷ややかな目で見据えると、手元の猪口を弄びながら、事務的な口調で淡々と告げた。
「……案じなさんな。この場所ほど、今の帝都で安全な場所はありませんよ」
上座の大河原が、脂ぎった顔を向け、不審げに竹本を睨んだ。「……貴様、何者だ。瑞穂屋の小飼いか」
大河原の問いには工藤が素早く割って入り、人当たりの良い、しかし確信に満ちた笑みを浮かべた。
「大河原様。失礼いたしました、ご紹介が遅れましたな。彼は私の信頼する設計技師です。……建設計画の詳細をその場でお答えできるよう、同席させた次第です」
工藤は、大河原の不機嫌をなだめるように手を広げた。「何より、私がこれほど大切なお話を差し上げる場に、身の危険があるような場所を選ぶはずがないでしょう。もし何かあれば、真っ先に灰になるのはこの私なんですから」
竹本は促されるまま席を立ち、窓際へ歩み寄った。重厚な遮光カーテンの端を、指先でほんの数センチだけ捲り上げる。隙間から、夜の冷気と共に、より鮮明になったサイレンの咆哮が室内へ滑り込む。竹本はその死の旋律を、まるで音楽を鑑賞するかのような静謐さで聞き入っていた。
「……完璧だ。外壁は要塞並みのコンクリート。防火構造も万全に整えてあります。たとえ外が火の海になろうとも、ここは外界から切り離された絶対安全の理想郷だ。何しろ、私がそう造ったんですから」
竹本はカーテンを下ろし、工藤と視線を交わして冷えた日本酒をちびりと喉に流し込んだ。二人の間には一分の隙もない共謀の空気が流れていたが、その「檻」の中で、サオリだけは違った。
二二時〇二分。記録通りの警報。二時間後にはこの部屋が直撃を受ける。サオリの額から冷や汗が滲み出し、指先がガタガタと震え出した。
「……おう、サオリ。どうした、急に震えやがって」
大河原が卑俗な笑みを浮かべて彼女の腰を強く引き寄せた。「竹本の旦那が安全だって言ってるんだ。安心しろ。ここは銀座で一番、天国に近い場所なんだからよ……なあ?」
一方、調理場。
**――ウゥゥゥゥゥゥン……。**
サイレンの第一声が調理場を震わせた瞬間、ハナは弾かれたように顔を上げた。サオリとの打ち合わせ通りだ。「二二時〇二分に鳴る」と言われ、その通りに鳴った。
「……信じるよ、サオリ。あんたの言うことなら、全部」
ハナは一階の勝手口の閂を外した。扉を開け、夜の街へと駆け出す。
銀座の街は、警報直後のパニックに包まれていた。防火頭巾を被り、右往左往する人々。だが、まだ空に敵機の姿は見えない。
「山の手の方だろ」「ここは狙われない」……そんな楽観が漂う中、ハナは逆方向へ、竹本とサオリが掘り進めた「あの穴」の前で民衆を遮った。
「こっち! こっちへ来て!」
ハナは喉がちぎれんばかりの声で叫んだ。
「地下へ! 地下へ潜るんだよ! 二四時には、ここは全部火の海になるんだ! 死にたくなかったら、あたしについてきな!」
「地下なんて、生き埋めになる気か!」
怒鳴りつける男の胸ぐらを、ハナは力任せに掴んだ。
「うるさい! 黙ってあたしを信じなよ! サオリが言ったんだ、あそこなら絶対に助かるって!」
ハナは迷う人々を力ずくで地下道へと叩き込み続けた。怯える老人を背負い、泣き叫ぶ子供を抱え、銀座の闇に開いた救いの口へと、一人、また一人と吸い込ませていく。
二三時〇〇分。
一時間近くの死闘を終えた頃、銀座の夜空は、北西の空が皇居を包む巨大な火柱で赤黒く濁り始めていた。熱風がビル風を狂わせ、ついに死が「目に見える」形で近づいてくる。その喧騒の中、一人の男が肩からラジオを鳴らしながら、ハナの横を転がるように駆け抜けていった。
『……東部軍管区情報。午後十一時現在、敵B二十九型重爆撃機の多数編隊、東京市上空において焼夷弾投下を継続中なり。編隊は深川・京橋方面より市中心部へ侵入し……』
深川、京橋。もうすぐ隣だ。ハナは最後に残っていた迷子のような子供を穴の奥へ押し込むと、「奥へ走りな!」と叫んだ。
二三時四〇分。
ハナはiPhoneで時刻を確認した。あと二十分。
ハナは一度だけ、サオリたちがいる廃ホテルの窓を見上げ、それから猛然と走り出した。目指すは、銀座四丁目の交差点にそびえ立つ、服部時計店。
二三時四十五分。
ハナは、時計塔の真下――その窓際へと滑り込んだ。建物の中へ駆け込み、激しい鼓動を抑えながらiPhoneを掲げ、レンズを南の空、あの呪われた酒宴の席へと向ける。
二四時まで、あと十五分。
ハナは、サオリから託された「証拠」を記録するために、滲む視界を必死に拭い、そのレンズをただ一点に見つめ続けた。




