銀座、最後の日
一九四五年五月二十五日。
銀座の朝は、不気味なほど静かに明けた。
前夜、山の手南部を焼き払った残火の煙が空を低く覆い、太陽は毒々しく濁っている。しかし、隣町が瓦礫の山となった一方で、銀座は依然として無傷のまま、どこか白々しいほどの平穏を保っていた。
廃ホテルの厨房では、サオリとハナが最後の一仕事に追われていた。
サオリは昨夜の艶やかな姿から一転、袖を捲り上げ、煤と脂にまみれた格好で包丁を握っていた。
「……状態は、完璧だね」
サオリは鼻歌まじりに食材をチェックする。闇市で二人が調達してきた牛肉の塊、瑞穂屋の地下に眠っていた名酒、そして鮮魚。飢餓の時代において、それは異様な「特権」の象徴だった。
ハナはその横顔を不安げに見つめながら、黙々と野菜を刻む。サオリの様子が、昨日までとは明らかに違っていた。悲壮感があるわけでもなく、かといって落ち着いているわけでもない。**サオリは、すこし現実感を消失したような、ハイ寄りの解離状態になってしまっていた。**
これから起こることは、現代人である彼女の想像力や経験の範疇を、とうの昔に超えていた。数時間後には焼夷弾が降り注ぎ、この街が巨大な火葬場と化す。その「確定した未来」を背負い、仇敵の隣に座って最後を待つという、あまりに非現実的なシチュエーション。脳が耐えきれる限界を超えた結果、サオリの意識は現実から剥離し、すべてが滑稽な喜劇のように見え始めていた。
「……サオリ。あんた、本当に行っちゃうんだね」
「うん、行くよ。だって、せっかくここまで準備したんだもん。これ、まるで映画みたいじゃない?」
サオリは包丁を置き、ハナに屈託のない笑顔を向けた。
「なんだよ急に……まあ、頑張りなよ。あたしはこっちで、あんたが戻ってきた時のことだけ考えとくから」
「大丈夫、全部うまくいくから。笑っちゃうくらい完璧なスケジュールだもん。……クク、ククク……ッ」
ハナの突き放すような信頼を、サオリは妙に明るい、壊れた蛇口から漏れ出す水のような笑いで受け流した。その音は、隣で聞いているハナの肌を、粟立たせるような違和感に満ちていた。
午後四時。
すべての調理を終え、サオリは再びあの総絞りの振袖に身を包んだ。
二日続けての着付け。帯が幾重にも締め上げられるたび、肺が圧迫され、呼吸は浅く、熱を帯びていく。冷たく重い絹が肩にのしかかり、腰から胸のふくらみにかけて、薄い生地が吸い付くように彼女の肢体をなぞった。わずかに浮き上がる鎖骨の線と、絹の光沢に包まれた柔らかな曲線が、息を潜めるたびに淡く、生々しく浮かび上がる。
ハナが引いた紅は、昨日よりも少し濃く、鮮烈で、挑発的だった。
鏡の中に現れたのは、瑞穂屋という看板を背負わされた、従順な「人質」ではなかった。
それは、自らの美貌が男を狂わせる毒であることを知悉し、その毒で自らもろともすべてを滅ぼそうとする、退廃的な娼婦の輝きを纏った、一人の完成された女の姿だった。すべてを投げ出す覚悟が決まり、半分自暴自棄になった女の、恐ろしいほどの華やかさがそこにあった。
「……お似合いですよ、お嬢様」
蔵の入り口で待っていた工藤が、複雑な表情でサオリを見上げた。
「サオリ。来い。……時間だ」
「了解。エスコート、よろしくね工藤さん。……ああ、おかしい」
サオリは喉の奥で震えるような笑いを一瞬だけ漏らし、軽い足取りで、工藤に引き連れられるまま銀座の路地へと踏み出した。
二人が向かったのは、古い祠の周辺を不法占拠している大河原の根城だった。「銀座のヌシ」を自称する大河原は、薄汚れた詰所の前にふんぞり返っていた。
そこへ、工藤に伴われて一人の女が現れる。
大河原は、その圧倒的な存在感に目を奪われた。汚れを知らぬ令嬢の気品と、どこか場慣れした娼婦のような毒気が同居する、見たこともないような美人がそこにいた。大河原も、控えていた金子も大男も、あまりの変貌ぶりに言葉を失い、ただ呆然と彼女を見送った。
「……瑞穂屋の者として、参りました」
サオリはにこやかに会釈し、工藤に促されるまま大河原の隣に座る。大河原は鼻の下を伸ばして彼女を迎えようとしたが、至近距離でその顔をまじまじと見た瞬間、椅子を蹴るような勢いで身を仰け反らせた。
「……ん!? お、おい……お前、あの瑞穂屋のクソガキか!?」
大河原の声が裏返る。
今まで権利関係で食ってかかってきた、あの生意気で可愛げのない小娘。その面影こそあるが、目の前にいるのは、格好も雰囲気も、精神状態までもが別人に作り替えられたような女だった。
サオリは驚く大河原を見て、フフ、と短く含み笑いをした。その瞳には焦点が合っていないような、不思議な透明感があった。
「そうですよ。そんなに驚かなくてもいいじゃないですか。今夜は祝宴なんですから、もっと明るくいきましょうよ、大河原様」
「おい、出来すぎじゃねえか。なあ、なんか裏があんだろ、コラ」
金子が動揺を隠すようにドスの利いた声を上げたが、サオリは一瞥もせず、楽しそうに周囲を見渡している。
「あ? 無視かよ、このアマ……!」
「金子、やめろ……」
大河原が低く、震える声で制した。彼はサオリの隣に歩み寄り、その白皙のうなじを凝視した。
**本能が、この女に触れるなと警鐘を鳴らしていた。**
目の前の美しさは、毒を塗られた刃物のような、あるいは致死量の病原菌を孕んだ死体のような、生理的な忌避感を伴う異質さを放っている。
「……化けやがったな。瑞穂屋が、タダで身を投げ出すはずがねえと思ってたが……まさか、これほどまでの『仕上げ』をしてくるとはな」
大河原は、自分の背筋を走る正体不明の寒気を振り払うように、サオリの肩に重い手を置いた。
「面白い。その面の皮、今夜中に剥ぎ取ってやるよ」
サオリは嫌がる素振りも見せず、明るい瞳で大河原を見つめ返した。
「ええ、楽しみにしてますね。……さあ、始めましょう」
工藤が一行の前に進み出た。
「……道案内は俺が務める。さあ、最高のお席へ案内しようじゃねえか」
夕闇が迫る中、一行は沈黙を守ったまま、蔦の絡まる廃ホテルのエントランスを抜けた。剥がれ落ちた壁紙、埃の積もった赤い絨毯。しかし、工藤が最上階の重厚な扉を開けた瞬間、そこには戦時下の日本とは思えない別世界が広がっていた。
白く光るテーブルクロス。冷気を漂わせる電気冷蔵庫。そして、窓越しに燃えるような夕焼け。サオリは大河原の傍らで、小さな鼻歌を刻みながらその最上階の一室へ足を踏み入れた。
iPhoneに記された刻限まで、あと数時間。
歴史の針が、銀座の消滅へと向かって、静かに、そして確実なテンポで時を刻み始めていた。




