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1945年に飛ばされた私、iPhoneだけ2025年と繋がってるんだけど? 〜終戦回避は無理ゲーでも、戦後復興をRTAして100歳まで君臨する〜  作者: 栗昆布
第3章 東京デフラグ ―更地をコンクリジャングルへ!編―

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観測者の檻

湿った朝だった。一九四五年、五月の朝。

 廃ホテルの地下、淀んだ空気が肌にまとわりつくソファの上で、サオリは重い瞼を開けた。隣ではハナが、昨夜の続きを追いかけているかのような、険しい寝顔で小さく身をよじらせている。サオリの脳裏には、昨夜の「石」の実験が泥のようにこびりついていた。深夜、定礎の前でiPhoneを構えさせ、中身を座標に置き去りにした、あの異様な光景。

 (はたして、生身の人間で同じことが起こりうるのか……)

 昨夜、ビデオ越しにケンジが見せてくれた、緑青にまみれた十円玉。あれは今、八十年の時を越えた向こう側にある。そして、こちら側の一九四五年に残されたのは、中身の消えたパスケースだけだ。


「……サオリ」


 ハナが、目を擦りながら起き上がった。昨晩の出来事が、あまりに彼女の知る世界の道理から外れていて、その胸には言葉にできない「モヤモヤ」が渦巻いている。

「ねえ、サオリ。昨日の石のこと、あたしぁ一晩中考えてたんだ。ちゃんと見てたよ、あの『からくり』の中にゃ、ずっと箱が映ってた。なのに、あんたが箱をひょいと動かした途端、石はどこへ消えちまったのさ……?」

 サオリはハナの肩を優しく抱き寄せた。だが、その答えは自分自身にも見つかっていない。


「……わからないわ。でも、ハナ。もう一つ確かめたいことがある。少し怖いけど……付き合ってくれる?」


 サオリは、工藤たちが朝の調達に出かけた隙を狙い、ハナを連れてホテルのリネン室へ向かった。壁際に並んだ二つの無機質なスチールロッカー。

「ハナ、お願い。このiPhoneでロッカーの『外側』をずっと写して。……これからあたしが左のに入るから、ハナはこれを向けたまま、ロッカーをあっちまで押し動かして。……それから、もう一つのロッカーを、元の場所に戻してほしい。昨日と同じことを、『私』ができるか試したいの」

「そんなこと……」

 ハナは狼狽える。だが、サオリの瞳に宿る、何かに取り憑かれたような静かな熱量に圧され、何も言えなくなった。サオリはiPhoneをハナに託すと、左側のロッカーの中へ滑り込んだ。鉄の扉を内側から引き寄せ、自ら暗闇を招き入れる。完全な、遮断。

 扉が閉まった瞬間、世界から光が消えた。ガタガタ、とロッカーが揺れ始める。ハナが必死に鉄の箱を押し、床を引きずる鈍い音が響く。その時だった。不意に、外の音が「音」ではなくなった。ハナが鼻息荒くロッカーを押す振動も、床を削る軋みも、すべてが水の中に落としたインクのように拡散し、サオリの意識から剥がれ落ちていく。

 (……あ、軽くなった)

 重力が消失した。ロッカーはハナによって移動させられているはずだが、サオリはもはやその中にいなかった。そこは、濃密な「無」が支配する亜空間だった。

 サオリはそこで、夢を見ていた。それは五分という現実の時間では到底説明のつかない、果てしなく長い地獄だった。一九四五年の焦土を歩き、二〇二五年のネオンの中を泳ぎ、その間に積み重なった八十年分の「誰かの記憶」を濁流のように浴び続ける。自分自身が、緑青にまみれた十円玉になり、幾千もの手に触れられ、暗い貯金箱の中で何十年も眠り続けるような、永劫の孤独。意識は引き延ばされ、一分が一年に、一秒が一日に感じられる。

 (もう嫌だ。出して。出してください。どこでもいい、ここじゃない場所に)

 意識の断片が、濁流の中で摩耗していく。そこにあるのは希望ではなく、数えきれないほどの死と忘却が堆積した暗黒の海だ。サオリは激しい嘔吐感を覚えながら、その漆黒の泥の中で、ただひたすらに「現在」という一点を求めて足掻き続けた。

 リネン室では、ハナがパニックに陥っていた。サオリの入ったロッカーが、ある瞬間、まるで中身が風に変わったかのように「軽く」なったからだ。大人の女一人の質量が消え、あまりの軽さに勢い余って前のめりになり、ハナの手からiPhoneが滑り落ちる。画面が床を向き、扉を捉えていたフォーカスが、一瞬、完全に外れた。

「サオリッ! どこ行っちまったんだい!」

 ハナは慌ててiPhoneを拾い上げ、移動させた先のロッカーをこじ開ける。だが、そこには何もなかった。ハナは泣きだしそうな顔で、元の位置へ引き戻した「もう一つのロッカー」の扉に手をかけた。

 扉を開けた、その瞬間。「……ぁ、っ……! おぇっ……!」

 真っ暗な底から、胃の底をぶちまけるような嗚咽とともにサオリが崩れ落ちた。ハナが慌てて支えようとするが、サオリは自分の体を抱きしめ、激しく震えている。その瞳には、かつてないほどの恐怖と拒絶が刻まれていた。

「サオリ! どこへ飛んでたんだい、一体!」

「……なに、ここは……?」

 サオリはピントの合わない目でハナを見つめ、掠れた声で呟いた。ハナは興奮した面持ちで、震えるサオリの肩を揺さぶった。

「すごいよ、サオリ! あんた、本当に消えちまったんだ。……ねえ、これを使えば、あんた二〇二五年に戻れるんじゃないのかい? あの石っころみたいに、この箱を動かせば、あんたのいた場所に……!」


「……やめて」


 サオリの口から、悲鳴に近い拒絶が漏れた。

「え……?」

「二度と、あんな場所……絶対、無理よ……」


 サオリは、嘔吐をこらえるように口元を抑え、首を激しく振った。ハナが「希望」として語る未来への帰還。それが、あの永遠に続く孤独の泥沼をもう一度泳ぐことなのだとしたら、そんなものは救いでも何でもない。あそこは「移動の通り道」などではなく、生きたまま魂を削り取られる屠殺場だ。

「……ハナ、今、どれくらい経った?」

「……だから、ほんの五分そこらだってば! あんた、顔が真っ青だよ!」

 五分。サオリの感覚では、あれは一生を繰り返すような、あまりに長すぎる空白だった。二度とやりたくない。あんな場所を通って未来に戻るくらいなら、ここで死んだ方がマシだ。内臓がひっくり返るような拒絶反応が、全身を駆け抜ける。


「……暗闇、だった……」


 サオリは、吐き気とともにその言葉を絞り出した。脳裏に、あの底なしの虚無がこびりついて離れない。あそこを通って八十年分を跳躍するなど、正気の沙汰ではない。だとしたら、現れる場所に「別の暗闇」が必要だったという推論は、もはや証明するまでもない確信として彼女の中に沈殿していた。


「……ねえ、サオリ。あたし、なんだか気味悪くなっちまったよ」

 ハナが、自分の腕をさすりながら呟く。

「ロッカーを動かしてるとき、急に、あんたが消えちまったみたいに軽くなったんだ。……今のサオリは、本当に、あたしの知ってるサオリなんだよね?」

 サオリは、自分を抱きしめるハナの震えを、冷え切った掌で宥めるように受け止めていた。だが、その瞳にはもはや迷いはなかった。亜空間で浴びた「八十年分の孤独」が、彼女の倫理観を静かに、だが決定的に変質させていた。


「大丈夫よ、ハナ。あたしは、あたし。……ただ、少しだけ『重り』の使い道がわかっただけ」


 サオリはiPhoneを手に取ると、その黒い鏡面を、まるで呪いの道具でも見るかのような冷徹な目で見つめた。指先の震えはまだ止まらない。胃の奥には、今もあの粘りつくような虚無の残滓がこびりついている。だが、この反吐が出るほどの拒絶反応こそが、必勝の確信だった。


「行きましょう、工藤さんのところへ」


「え……? でも、あんたそんな顔して……」


「いいの。……これなら、勝てる」


 サオリは乱れた髪を無造作にかき上げ、湿ったリネン室の空気を深く吸い込んだ。地獄の門は、あちら側ではなく、こちら側で開くべきなのだ。

 窓の外では、五月の重く湿った空気が銀座を覆い、今にも降り出しそうな鈍色の空が、焦土を暗く沈めていた。サオリはハナの手を強く引き、地図を広げて待ち構える男の元へと、迷いのない足取りで地下の暗がりを歩き出した。

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