担保
リネン室から戻ったサオリの顔は、死人のように青白かった。
だが、その瞳だけは異様なほどに澄み渡り、見たこともない「鋭さ」を宿している。地図を前に煙草をくゆらせていた工藤は、彼女の姿を認めるなり、思わず火のついたままの吸い殻を床に落とした。
「……おい、どうした。幽霊でも見てきたような面してやがる」
サオリは返事もしない。ただ、工藤の目の前まで歩み寄り、机上の地図を上から見下ろした。そのあまりに生気のない、それでいて研ぎ澄まされた威圧感に、工藤は一歩身を引く。
「……工藤さん。何か、いい案まとまりました?」
掠れた、だが鉄のように硬い声。工藤は動揺を隠すように鼻を鳴らし、広げた地図の脇に置いてあった、一通の使い古された封書を指先で弾いた。
「……ああ。五月二十五日だ。奴らから受け取ったあの『覚書』……。実質受理させられたようなもんだが、あれを逆手に取る。正式な契約の場を、このホテルにセットしてやるんだ」
工藤は、ヤクザ側から押しつけられた理不尽な条件が並ぶ書面を苦々しく見つめ、その横に、作りたての重厚な書類を叩きつけた。
「奴らはもう、俺を呑み込んだ気でいやがる。だが、その油断にこの『裏の契約書』をぶつける。戦後の物資ルートを独占するっていう官僚連中との極秘の約束事だ。中身は全部俺のデっち上げだが、公印の偽造も完璧に済ませた。本契約のついでに、このデかすぎる利権をエサとしてチラつかせりゃ、強欲な銀座のヤー公どもも、天下を取ったつもりで喜んで這い寄ってくるだろうよ」
工藤は薄汚れた爪で、偽造書類の公印をなぞった。
「だが、問題は奴らの用心深さだ。本契約の場だとしても、逃げ道がねえ場所には踏み込まねえ。この裏取引が『本物』だって信じ込ませるには、それ相応の担保が……」
「……それ、私がやります」
迷いのない、氷のような一言だった。工藤の手が止まる。
「……お前、今なんて言った?」
「私を、その契約が終わるまで奴らの側に置いてください。人質、でいいです。この書類に書いてある『利権』の、生きた証拠として。私が銀座の連中の監視下にいれば、あいつらは自分が優位に立ってるって確信して、警戒を解くはずです」
工藤は、咥えていた煙草を灰皿に叩きつけた。
「……ふざけたこと言ってんじゃねえぞ。お前、自分が何言ってるのか分かってんのか? 人質だぞ?相手はヤクザだ。もし話がこじれりゃ、命なんてねえ。それどころか、女のお前が奴らの手に渡って、どんな目に遭わされるか……想像もつかねえのかよ!」
「いいんです。……だって、これなら確実に勝てるから」
サオリは、工藤の怒鳴り声に怯むどころか、自分の命さえも盤上の駒としてしか見ていないような、冷徹な眼差しで彼を見据えた。
「工藤さんの作った偽物の書類に、私という『本物の担保』を付け足してください。あいつらは、欲張りだから。私っていう実物を手に入れたと思えば、もっと大きな欲をかいて、必ずこのホテルに来ます。……ねえ、これ以上に確実なエサ、他にありますか?」
工藤は言葉を失った。目の前の二十歳の女が、恐怖や羞恥を通り越して、何か別の恐ろしい生き物に変質してしまったような錯覚に陥る。サオリの瞳の奥にあるのは、覚悟というより、底知れない殺意だ。
「……お前、冗談じゃねぇ」
工藤は新しい煙草に火をつけた。深く煙を吸い込み、毒を食らうような顔でそれを吐き出す。サオリの狂気が、工藤の中の「欲」と「毒」を強制的に呼び覚ましていた。
「……わかった。そこまで言うなら、これ以上は言わねえ。お前を人質として差し出す。そうすりゃ、あの古狸どもも欲をかかざるを得ねえだろうよ。ただの利権争いが、奴らにとっちゃ『天下を取るための儀式』に変わるわけだ」
工藤の目が、次第に昏い光を宿していく。
「五月二十五日。憲兵も、官僚も、ヤー公も……全員がこのホテルで、自分たちの新しい王国を夢見て酒に酔う。面白い。地獄の門を開けるにゃ、それくらいのハッタリが必要だ」
サオリは密かに、ハナが握りしめているiPhoneへと視線を送った。窓の外の空は、泣き出しそうなほど重く、鈍色に沈んでいる。
人質。担保。
その言葉の裏で、サオリはただ、あの亜空間で味わった永劫の孤独を思い出していた。iPhoneという「檻」の内側で、世界がどう書き換えられるのか。この忌々しい暗闇を、誰の目蓋の裏に焼き付けてやるべきか。
プランは、もう頭の中で完成している。
「……これなら、勝てる」
サオリは誰にともなく呟き、地下の暗がりへと視線を戻した。




