銀座deお買いもの
サオリの足元は限界だった。
二〇二五年、仕事帰りのままこの時代に放り出された彼女が履いていたのは、華奢なパンプスだった。すでに両方のヒールは瓦礫に持っていかれ、残っているのは不自然に反り返った薄い底と、傷だらけの革だけだ。ボロボロになるほど履き潰したわけではない。ただ、この時代の「道」が、現代の靴を容赦なく破壊したのだ。
工藤から「そんな不自由な靴で逃げ遅れたら捨てていくぞ」と吐き捨てられ、サオリはハナを連れて銀座の路地裏にある、色褪せた暖簾の雑貨屋へと足を踏み入れた。
五月のぎらついた太陽が、瓦礫の街を白く焼きつけている。
「……あの、靴とかって、置いてないですかね」
帳場に座る骨張った老人にサオリがおずおずと尋ねると、老人は手元の帳面から目を上げず、しわがれた声で応じた。
「……靴だあ? こんな時に贅沢言っちゃいけねえよ。せいぜいこれだわな」
老人は無造作に店の奥から一足の「物体」を放り出した。
「……代用靴だ。底は古タイヤを切り抜いて作ってある。少々の火踏んだって焼けやしねえよ」
それは、粗末な帆布に摩耗したタイヤのゴムを無理やり縫い付けた、靴と呼ぶのも憚られるような代物だった。サオリはそのあまりの惨めさに言葉を失ったが、背に腹は代えられない。
サオリは内ポケットをゴソゴソと探った。だが、手に触れるのは合皮のパスケースだけだ。中には令和の十円玉や百円玉が数枚入っているが、この世界では何の価値もない金属片に過ぎない。
(あ……お金、持ってないんだった……)
バツが悪そうにパスケースの中で小銭をジャラジャラと弄び、顔を赤らめるサオリ。その様子を、老人は濁った眼で見つめていた。すると老人の視線が、サオリの胸ポケットで鈍い光を放つステンレス製のクリップに釘付けになった。
「……姉ちゃん、その胸の銀の棒は何だあ?」
「え……、いえ、これは……」
サオリが言葉を濁すと、老人は鼻先にずり落ちていた分厚い老眼鏡を指でグイと押し上げ、食い入るように身を乗り出した。
「見してくんねえな。悪いようにはしねえからよ」
老人はペンを奪い取るように受け取ると、光にかざして舐めるように眺め回した。継ぎ目のない鏡面仕上げ、指先に伝わる未知の重量感。老人は「なんだこりゃあ……」と喉を鳴らしながら、ノックした瞬間に現れる極細のペン先と、紙の上を滑るように走るインクに目を見開いた。
サオリが返答をためらうほど、老人は**「容易に素性を明かせない高価な物品」だと確信したようだった。**その眼には、剥き出しの欲がぎらついている。
「……ほう。こいつあ、たまげた。いいだろう、なら、もっとマシな靴がある。待ってな」
老人が鼻息荒く奥へ消えると、サオリは呆然とその背中を見送った。
(……あのペン、ホームセンターで買った、ただの安物なんだけどなぁ)
自分の持ち物の本来の価値と、この時代の狂った価値観とのあまりの乖離に、彼女は心の内でそっと毒づいた。
やがて戻ってきた老人は、さっきのタイヤ靴を足蹴にするようにひっこめ、しっかりとした編み上げの作業靴をサオリの前に置いた。
その様子を隣で見守っていたハナが、ここぞとばかりに身を乗り出した。
「おじいさん、うちら服も探してんだぁ。こんな妙な格好してたら、すぐに憲兵に捕まっちゃうよ」
「……へっ、口が回る嬢ちゃんだな。はいこれ、持ってきなぁ、おまけ。」
老人はニタニタと不気味な笑みを深め、奥から丈夫な生地のモンペと、セルロイド製の髪飾りを持ってきた。
「さあ、たなぼたで色々手に入ったし、戻ろうか。あとこれ、ハナのでしょ」
サオリは手に入れた荷物をまとめると、お駄賃代わりにセルロイドの髪飾りをハナに手渡した。
「えっ、いいの!? あんがとさん!」
ハナは髪飾りを太陽にかざし、その透き通るような質感を嬉しそうに眺めている。サオリはその無邪気な横顔を見ながら店を後にした。
履き替えた作業靴は、歩くたびに「ゴツッ、ゴツッ」と瓦礫を粉砕するような重い音を立てた。パンプスを路地裏に捨て去ったとき、サオリは自分の「現代人としての足場」が、完全になくなったことを悟った。
二人はそのまま、銀座四丁目の時計塔へと向かった。
サオリは、iPhoneのカメラで、青空の下にそびえ立つ服部時計店を映した。
「……ここよ、ケンジさん。建物の北西角、定礎の石のすぐ上。指が一本入るくらいの隙間があるの」
『あった……ここだ。サオリさん、今から、そこにキットカットを入れるから。甘いもん食って、元気出してください。……いい? いくよ!』
サオリは息を呑み、一九四五年の冷たい石の隙間に指を差し込んだ。八十年の時を超えて、あの赤いパッケージの感触が、指先に触れる奇跡を信じて。
……だが。どれだけ指を奥へ突っ込んでも、指先に触れるのは乾いた砂埃だけだった。
「……ないよ。ケンジさん、なにもない」
『えっ、嘘だろ? 今、確かに押し込んだよ! 奥でパキッて音がしたくらいだ!』
「……入ってこない。ただの、冷たい石の隙間だよ……」
二人の間に沈黙が流れる。
作業靴の硬い革が、靴擦れを起こしたかかとに容赦なく食い込み、現実を突きつけてくる。
『……クソ、やっぱり未来からは、届かないのかよ……』
画面の向こうで、ケンジががっくりと肩を落とした。サオリは、その絶望を何かにぶつけたくなった。彼女はポケットから、工藤の配下から押し付けられた真っ黒に干からびた沢庵を取り出した。
「これ、ケンジさんへのプレゼント。届かないだろうけど、熨斗代わりに入れておくわ」
ヤケクソでその腐りかけの沢庵を、石の隙間へ強引に押し込んだ。
「わざわざここまで、ごめんね、ケンジさん。キットカット……食べたかったな……」
サオリが引き返そうとした、その時。画面の向こう、二〇二五年のケンジが悲鳴を上げた。
『……っ、うわあああ! なんだこれ! んクッサッ!!』
「……え?」
『サオリさん! 出てきた! 指の隙間から、なんか黒い塊がポロッと……うわ、何これ、殺人的な臭いなんだけど! 雑巾とドブを混ぜて煮詰めたような……おえっ!』
ケンジが鼻をつまんでのけぞる。そこには、八十年前の空気を吸い込んで炭化した、真っ黒な沢庵が転がっていた。
「……届いたの? もしかして沢庵?」
『キットカットはダメで、沢庵は届くのかよ! なんなんだよこのタイムパラドックス!……うわ、マジで臭い!』
ケンジが本気でえづいている。
サオリは、不格好な作業靴の重みも忘れ、不謹慎にも吹き出してしまった。
「……ざまあみろ、ケンジさん。それが一九四五年の『味』だよ笑」
奇跡は起きなかった。だが、史上最低の異臭を放つ「連絡線」だけは、確かに開通したのだ。
サオリはハナを連れ、新しい靴の音を響かせながら、拠点である廃ホテルへと戻っていった。




