オーパーツ1945
カタカタ、と乾いた音を立てて、竹本の指から計算尺が灰の上に滑り落ちた。
だが、彼は拾わない。泥にまみれた国民服の男は、サオリの胸元で淡く発光する「物体」へと、獲物を解剖台に乗せる執刀医の足取りで詰め寄った。
「……うわ、ちょっとちょっと!触らないで! 壊れたら、もう二度と直せないんだから!」
サオリは悲鳴に近い声を上げ、反射的にiPhoneを胸元に抱え込んだ。
だが、竹本は一歩も引かない。むしろ、その距離は獲物を解剖台に乗せる執刀医のそれだった。
竹本の視線が、サオリの指の間から覗く、吸い込まれるような漆黒の鏡面に固定される。
その瞬間だった。
竹本は、煤けた人差し指で円いフレームの眼鏡をぐいっと押し上げた。
レンズの奥の瞳が、歪んだガラス越しに異様なほど大きく、冷たく光る。もはやそこには、サオリという人間への関心は微塵も残っていない。
「……10ミリを下回るな。8か? いや、7・8といったところか」
「えっ……? 何が?」
「この板の厚みだ。お嬢さん」
竹本は、まるでこの世の摂理を疑うような、低く掠れた声で続けた。
「馬鹿げている。この薄さで、これだけの面強度を維持し、たわみ一つない。一九四五年の日本において、これほど高密度の金属を、寸分の狂いもなく削り出せる旋盤は存在しない。……いいか、この筐体のエッジを見ろ。光の反射が一点の曇りもなく直線を描いている。これは研磨ではなく、分子レベルでの制御だ」
竹本は泥にまみれた指先を伸ばし、iPhoneの側面の冷たい金属をなぞる。その指は震えていたが、それは恐怖ではなく、極限の「正解」に触れた歓喜によるものだった。
「内部に真空管を収める隙間すらない。配線を通す余地もない。……だというのに、先ほどからこの板は、俺の耳に届かない高周波の唸り(ノイズ)を上げ続けている。……一体、何の『物理』で動いている? どこの計算機室が、この薄っぺらな銀板の中に帝都の未来を詰め込んだ?」
「それは……未来の……」
「黙れ。空想を聞いているのではない。俺が訊いているのは、この『物体』が放つ圧倒的な実在感だ」
サオリは、竹本の指がiPhoneのチタンのエッジをなぞるのを見て、背筋が寒くなった。
(……やばい。この人、iPhoneをただの機械だと思ってない。歴史の教科書に載ってた、あの言葉……なんだっけ。場違いな工芸品。オーパーツ。……そう、この人にとって、これは一九四五年に存在しちゃいけない『呪いの遺物』なんだ)
サオリの脳裏をよぎったその不吉な単語を、竹本は彼自身の言葉で上書きするように呟いた。
「……考古学には、地層の年代と一致しない高度な工芸品が見つかる例がある。**『時代錯誤の聖遺物』**とでも呼ぶべきか。だが、これはそれらとは次元が違う。過去の遺失物ではなく、未来から零れ落ちた『正解』だ」
竹本は再び丸メガネのブリッジを指で突き上げ、計算尺をサオリの目の前でカチリと音を立てて静止させた。その動きは、まるで抜刀術のような鋭さだった。
「……工藤、といったか。工藤君。あんたは『名義』という紙切れの嘘に怯えているが、俺はこの物体の放つ『物理的な正解』に戦慄している」
竹本は、サオリが胸元に隠そうとするiPhoneのチタン製のエッジから目を離さない。彼を突き動かしているのは、機能への理解ではない。真空管すら入らぬ厚み、歪みのない鏡面、そして指先に伝わる高周波の微細な振動への、狂気的なまでの「学術的興味」だった。
「お嬢さん。……その板を、俺に調査させてくれ。いや、今すぐ解体させろ」
竹本の声は、もはや懇願を通り越し、獲物を前にした執刀医のそれだった。再び、ガクガクと震える指でズレたメガネのブリッジを突き上げる。
「この薄さ、この剛性……内部で一体何が起きているのか、俺がすべて暴いてやる。この焼け跡の泥の中で、唯一『真理』を宿しているのは、あんたの持っているその板だけだ。……俺の指が、そう言っているんだ」
サオリは、竹本の気圧されるような執着に圧倒され、ただiPhoneを強く握りしめることしかできなかった。
暴力で地主を気取るヤクザ。その嘘に絶望する戦時中の男。そして、オーパーツに魅せられた狂人。
朝日が昇る銀座の瓦礫の上で、三人の利害はどこまでも噛み合わないまま、最悪の協力関係が始まろうとしていた。
「さあ、いこう。……工藤君。あんたのシマがどうなろうと知ったことではないが、この『物体』を安全な場所で検分するためなら、俺の知恵を貸してやってもいい」




