構造科学の偏執狂者
第3章 東京デフラグ ―更地をコンクリジャングルへ!編―
竹本にとって、帝都東京は「燃える前から壊れていた」。
それは重力と風圧、そして可燃物の密度が織りなす、巨大な数式の欠陥品に過ぎなかった。
昭和二十年、三月十日の夜。
空を埋め尽くしたB29から、黒い雨のように焼夷弾が降り注いだ。
下町の隅田川沿い。炎に巻かれ、腰が抜けて泣き出した母親の肩を、三十二歳の竹本は驚くほど静かな手つきで抱き寄せた。
「おっかさん、ここに居て。大丈夫だから」
震える母親を、古い蔵造りの影、分厚い壁の間に座らせる。
竹本は狂乱する周囲には目もくれず、手に持った計算尺と、数時間前から何度も書き直した風向図を交互に睨みつけていた。彼は知っていた。火は生き物だ。酸素を求め、気圧の低い方へと這いずり回る。だが、この蔵の配置、隣接する建物の崩落角度、そして今吹いている北北西の風。それらが組み合わさるこの一角だけは、炎の牙が届かない「空白の座標」になるはずだ。
「……動いちゃいけない。あと二十分、ここにいれば火の道が変わる」
竹本は母親の耳を塞ぎ、自分の体で彼女を覆った。すぐ隣の家が爆裂音を立てて崩れ、熱風が肌を焼く。普通なら正気を失う光景だ。しかし、竹本の脳内では「爆裂による酸素の消費量」と「気流の反転」が、寸分違わぬ精度で演算され続けていた。
夜が明けた時、周囲は文字通りの地獄だった。だが、竹本が母親を隠した蔵と、その周囲のわずかな地面だけは、彼の計算通り、奇跡のように煤けただけで焼け残っていた。
「……ほらね。計算通りだ」
竹本が呟いたその言葉は、勝利宣言ではなく、安堵の震えを隠すための呪文だった。
――その一ヶ月後。
本郷、東京帝国大学、工学部の地下研究室。
竹本は、大学院で構造力学の研究を続けながら、軍嘱託の技師として駆り出されていた。
窓は空爆対策の暗幕で覆われ、裸電球が一つ、揺れている。周囲の学生たちは、軍から下りてきた「木製航空機の翼断面図」や「簡易防空壕の補強案」といった、その場しのぎの付け焼刃な製図に追われていた。
「……竹本。君のこれは、一体何のつもりだ」
背後から、低く、湿った声が響いた。
建築学科の老教授、佐伯だった。かつては欧州の建築美学を日本に紹介した権威だが、今では軍の顔色を伺いながら「日本精神の具現たる防空神殿」などという、噴飯ものの構想を垂れ流す御用学者に成り下がっている。
佐伯が震える指で指したのは、竹本の製図板に乗った一枚の図面だった。それは軍からの依頼とは一切関係のない、竹本が個人的に設計している「多層階式防火居住構造体」――後世の言葉で言えば、超高層RC造ビルの断面図だ。
「……柱の太さが異常だ。鉄筋の密度も、コンクリートの配合比も、現在の資材状況を無視している。これでは一棟建てる資材で、軍の兵舎が十棟は建つ。竹本、今は非常時だぞ。国家の資材をドブに捨てるような真似をして、非国民の誹りを決して受けてもいいとでも言うのか」
竹本は計算尺を置くと、ゆっくりと椅子を回転させた。その瞳には、かつて学生が抱いていたはずの敬意など、欠片も残っていない。
「教授。あなたの言う『非常時』は、あと数ヶ月で尽きます。ですが、重力という物理法則に休みはありません」
「言葉を慎め。丹下君を見たまえ。彼は大東亜建設記念営造物のコンペティションで、この国の誇りを形にしようとしている。建築とは、国民の士気を高める象徴であるべきだ」
「人間は百年もすれば死に絶えます」
竹本は無愛想に、だが断定的な口調で返した。
「ですが、物理的に正しい骨組み(ストラクチャー)は、思想や国家が滅びても残ります。私の仕事は、誰かの魂を慰めることではなく、次に来る巨大な破壊を、ただ『耐え抜く』ための器を遺すことだけです。教授。あなたの言う美学で、焼け死んだ十万人を一人でも救えましたか? 私は、計算尺一本で母親を火炎旋風から奪い返した。それが私の真理です」
竹本は立ち上がり、製図板に描かれた太い柱を指差した。
「私が計算しているのは、次の戦争のための兵舎ではありません。空襲という名の『都市の初期化』が終わった後、この焦土に最初に打ち込まれるべき不滅の骨格です。鉄筋の密度が異常? 逆ですよ。これまでの日本の基準が、物理に対して失礼なほどに脆弱だったんです。……あなたが推奨する木組みの精神論では、三月十日の火の粉一つ防げなかったではないですか」
佐伯教授の顔が、屈辱で赤黒く染まる。絞り出すように吐き捨てた。
「……君のような男に、これからの東京は任せられん。君の評価は……せいぜい中の上だ。構造にだけ特化した、不具の建築士だよ。出て行きたまえ」
「光栄です。情緒という名の麻薬に狂わされた建築士よりは、数値を信じる不具の方がマシですから」
竹本は迷いなく製図板を畳み、必要な図面と計算尺を鞄にねじ込んだ。もはや、この死に体の大学に学ぶべきことは何もない。
一号館を出ると、四月の柔らかな陽光が、皮肉なほど美しく本郷の街を照らしていた。
竹本は、かつて地図上で算出した「次に初期化されるべき土地」に想いを馳せる。鞄の底には、数年かけて蒐集した帝都の「骨格の断片」が詰まっていた。鉄道省の地質断面図、東京市土木局の河川改修資料、そして軍の秘密地下壕計画から密かに盗み写した地盤データ。それらを己の計算で繋ぎ合わせ、一つの巨大な地層地図として再構築した、彼だけの真理だ。
焼け残った蔵の実家を、彼は未練なく処分した。母親を郊外の安全な縁者に預けた今、彼を縛るものは何もない。あるのは、超高層の莫大な自重を支え、次なる空襲の火炎旋風を耐え抜くための完璧な支持層――彼が導き出した「帝都の次なる中心」の座標へ、己の数式を打ち込みたいという純粋な欲求だけだ。
「……さあ、答え合わせをしようか」
竹本は誰に聞かせるでもなく呟き、崩壊を待つ帝都の岩盤へと、一歩を踏み出した。




