静かなる包囲網
築地の検分から戻ってきたばかりのヌシの舎弟頭、金子は、サオリの差し出した一貫を、射抜くような眼光で見つめていた。数日前までこの祠を占拠していた大男たちの姿はもうない。だが、その代わりに立ち込める焦げた醤油とノビルの鮮烈な香りが、この場所が誰の支配下にあるかを静かに告げていた。周囲の民衆は息を殺している。工藤の若い衆も、ハナも、老婆ですらも、ただ一点を見つめていた。
「……瑞穂屋のアマがよ。俺を、これっぽっちの雑魚で手なずけようってのかよ」
金子の低い声が響く。だが、その鼻腔には、暴力的なまでに芳醇な香りがこびりついて離れない。金子は、無造作にその一貫をひったくるように掴んだ。獲物を食らう獣のように、一気に口へと放り込む。
「…………ッ!」
金子の動きが、石像のように止まった。
咀嚼した瞬間、まず襲ってきたのは、ノビルの「ぷつり」とした鮮烈な弾力だった。弾けた緑の茎から、脳を突き抜けるような香りが溢れ出す。続いて、老婆の「神の酢」で完璧に締められたコハダの旨味が、波のように押し寄せた。炭火で熱を帯びた脂が、舌の上で生醤油の塩気と混ざり合い、濃厚な「アミノ酸の奔流」となって喉の奥へと滑り落ちていく。
「……なんだ。……なんだ、こりゃあ……」
金子の口から、呻きのような声が漏れた。彼が築地で見てきたどの高級魚とも違う。これは、飢えた身体の細胞一つ一つを強制的に呼び覚ますような、暴力的なまでの「生命の味」だった。サオリは、金子の目を真っ直ぐに見据えた。
「……金子さん。築地は見てきたんでしょう? あの場所なら、あなたたちの若い衆を全員食べさせてあげられる。…親分さんに伝えて。ここから手を引いてくれるなら、築地のあの土地は、本当の意味であなたたちの“金庫”になるって」
金子の目がわずかに揺れた。暴力による占拠より、築地での正当な利権の方が組織にとっても実利が大きい。サオリは「味」で胃袋を掴み、「築地の現実」で理性を揺さぶったのだ。その時だった。金子の背後で、重い足音が響いた。
一人、また一人。民衆たちが、泥に汚れた足で、ゆっくりと歩み寄ってくる。彼らはヤクザの威圧感に怯える様子も、逃げ出す気配もない。ただ、サオリの背中を守るように、そして金子を無言で圧するように、大きな「壁」を作っていった。「……邪魔を、するな」最初の一貫を食べた釣り人の男が、低く言った。それは、たかが雑魚だと笑われた魚に「命」を吹き込んでもらった男の、矜持だった。
「このお嬢の寿司の邪魔を……俺たちの『希望』の邪魔をするなら、あんたが舎弟頭だろうが、俺たちは引かねえぞ」
一九四五年の銀座。すでにヤクザの兵隊が引いたはずの祠の跡で、食欲という名の「新しい軍勢」が芽生えた瞬間だった。祠の影から、老婆がヒタヒタと這い出してきた。老婆は欠けた歯をのぞかせ、金子の顔を覗き込み、喉の奥で湿った笑いを転がした。「……ヒヒッ。……金子のアニィよ。あんた、オジキにどう話すつもりだい?」
老婆の細い指が、金子の胸元を指差す。「築地の利権に目がくらんで、わざわざ検分にまで行ってきたんだろう? ……神さまの酒まで味方につけたこのお嬢を敵に回して、築地の旨味まで逃すような間抜けな真似……あんたのオジキが許してくれるかねぇ……ヒヒヒッ!」
金子は老婆の言葉を噛みしめるように沈黙し、やがて忌々しそうに吐き捨てた。「……チッ。野郎ども、一旦引くぞ! オジキへの報告が先だ」金子が背を向けたその瞬間、包囲していた民衆から、安堵と勝利の混じった地鳴りのような歓声が上がった。
「……お口に、合いましたか?」
去りゆく背中に向けたサオリの声は、今度は震えていなかった。




