第8話
そのトラブルは、ある日の朝食の途中で起きた。
ユトリロが水を零してしまったのだ。カナレットのためにグラスに注ごうとしていた水は大きく的を外れて、カナレットの手に掛かってしまう。料理も水浸しになり、ユトリロは明らかに、かなり慌てた。
ハンカチでカナレットの手を拭くユトリロと、さっとナフキンを用意したバジールに囲まれる。
「も、申し訳ございません!」
「大丈夫ですよ、このくらい。気にしないで」
「ユトリロ、代わりの料理を持ってきなさい。カナレット様は私が」
「で、でも──」
「ユトリロ」
「……はい」
バジールに制されて、ユトリロはダイニングを出て行った。厨房にいるダイクに料理を持ってくるように伝えに行ったのだろう。その肩はすっかり落ちている。
(そんなに気にしなくてもいいのに)
なんだかいつもと違う気がして、違和感を覚えた。ユトリロを追おうとして、だがバジールに訊ねられて気を逸らされる。
「お召し物は濡れておりませんね」
「あ、はい、大丈夫です」
「料理はお下げします。大変、失礼致しました」
「いえ! 本当にいいんですよ」
なんなら味が少し薄くなっただけだし、このまま食べてもいいのだが、と思っている間にバジールの長い手でひょいと皿を回収されてしまう。
(なんだか勿体ないけど、普通はこういうものなのかしら)
ふむ、と思いつつ視線を向けると、向かいに座るリフが珍しく悲しそうな顔をしていた。いつでも微笑んでいるイメージだっただけに、カナレットは驚いてしまう。
どうしたのだろう。
リフが目を伏せながら呟いた。
「カナレットは優しいね」
今のハプニングについて言われているのだろうとすぐにわかった。だからあれだけのことで怒るなんて信じられず、否定してしまう。
「そんなことは……。こうしてお世話をしてくださるのも、なんだか気が引けてしまうほどでして……本当に、ありがたいです」
「傷付かなければいいんだけど」
「傷なんて、そんな。濡れただけですから」
リフは相変わらず悲しみに暮れた顔をしていて、でも小さく頷いて会話は終わった。
なんのことだろう。
よくわからずに、その日を終えた。
◇◆◇◆◇◆
「カナレット様、僭越ながら御髪を整えたほうがよろしいかと」
3日後の昼過ぎ、バジールに言われて気が付いた。
そういえばずっと伸ばしっぱなしで、気になったときには自分で切っていたからボサボサなのだった。整髪店は料金が高く、通ったことがない。ユトリロが毎日苦戦して髪型をセットしてくれているのを思うと、ユトリロが仕事をしやすいように整えてもらったほうがいいのかもしれない。
「そうですね。ユトリロさんに頼んでみます」
「先程、指示を出しておきました。道具を揃えて、まもなく来るかと思います」
「さすがバジールさん。気が利きますね」
「恐縮です」
数分としないうちに、鋏や櫛、ケープを持ったユトリロが部屋にやってきた。薄暗い顔をしているのが気になる。もしかしたら、体調が優れないのかもしれない。
「ユトリロさん? 大丈夫ですか?」
「……はい」
「では、私はリフ神様のサポートに行ってまいりますので、失礼致します」
「わかりました。お気遣い、ありがとうございました」
恭しく礼を執るバジールを見送る。
背後でドアがパタンと音を立てて閉まったにも関わらず、ユトリロは、その場に立ったまま動かなかった。
「やはり、体調でも?」
ぱっとユトリロが顔を振り仰いだ。
「い、いえ」
「ベッドでお休みになったらいかがです? あ、バジールさんには内緒にしておきますから、どうぞ使ってください」
「いえ、大丈夫です!」
鼻息荒く言って、ユトリロはカナレットを鏡台の前に座らせ、ケープを巻いた。
「髪を切ることもできるなんてすごいですね」
だがユトリロから返事はなかった。
作業に集中しているのだろうと思って雑談はやめた。
手持ち無沙汰になると、鏡の中でユトリロの手捌きをなんとはなしに眺める。かしゃかしゃと気持ちのいい鋏の擦れ合う音がしばらく続いた。
工程も終わり頃になると、ぼさぼさで跳ねたり、ぱらつきが気になっていた髪がすとんと真っ直ぐになる。見るからに滑らかであるのがわかった。
(切るだけでこんなふうになるのだから、すごいなあ)
改めて感心する。
「前髪を切ります」
「わかりました」
そっと目を閉じた。
しゃく、しゃく。
前髪がぱらぱらと頬を落ちていくのがわかる。
その手が、どうにも自信なさげであることに気が付いた。
遠慮がちというか、迷っているというか。
ぷるぷると震えているのだ。
やっぱり体調が悪いんだ。きっとすぐに終わるだろうし、休んでもらおう。バジールにも言えば、ユトリロは気兼ねなく休めるはず。提案しよう。
「ユトリロさん」
「わあ!?」
右目に鋭い痛みが走った。
わっと驚いて顔を引くと、鏡の中の自分の右目から血が出ているのが見えた。カナレットはパニックになってしまった。
目が、目が──……!
だが、それ以上に狼狽したのがユトリロだ。
鋏の刃先についた血液を凝視しながら、両手を見下ろして震えている。それは怪我をしたカナレットよりも大きな震えだった。
「俺……俺は……!」
そして踵を返すや、やにわに駆け出した。なんだか嫌な予感がして、カナレットはユトリロを追った。
「ユトリロさん! ユトリロさん、どこに行くんですか!」
ユトリロの足は早かった。そのまま階段を駆け下りて城の外へ飛び出して、ずっと走っていく。
「ユトリロさん、待って!」
男の脚力に敵うはずもなかった。どんどん離されていく。
けれどカナレットは諦めなかった。
今、諦めてしまったら、なにかが終わってしまうような気がしたのだ。大切な、なにかが。
ユトリロがやってきたのは、黒と青の境界線だった。
その境界線の上に、なぜか酒瓶が一本置いてある。黄金に輝く四角のボトルにはウィスキーと銘打ってあった。
(なんで……? なんで、あんなところに……!)
ユトリロはまるでそこに酒があることを知っていたみたいに一目散にその瓶を引っ掴み、栓を開けた。
「待って!」
そして逆さまにしていっきに飲もうというとき、間一髪でカナレットが追い付いた。
ほとんど抱き付く勢いで制止する。
瓶を奪い合う形でふたりは揉みくちゃになった。地面に転がって、それでもどちらも酒を離さなかった。
「ユトリロさん、だめ!」
「酒がないと、酒がないと!」
「大丈夫だから!」
ユトリロの目が釣り上がった。
そして発せられた声はいつもとは打って変わって低かった。明らかな敵意がそこにはあった。
「寄越せ!」
カナレットは怯んだ。でも、意地になって瓶を離さなかった。
「だめ!」
それからの奪い合いの中でカナレットは殴られもしただろうし、髪を引っ張られもしただろうし、押し倒されもしただろうし、蹴られもしただろう。けれど、必死のあまり、自分がなにをされているのかわからなかったし、痛みのひとつもわからなかった。ただ瓶を抱き締めて、ただ耐えた。
そして体力が削られていく。
もうだめだ、奪われてしまう──というときに一瞬の隙を突いて青の地へ瓶を投げ込んだ。
音もなく瓶が転がって、青の芝生の上に黄金の液体がとぷとぷと垂れていく。
「酒が……!」
安堵するのもつかの間、青の地へ行こうとするユトリロに縋って引き止める。行ってはいけない。行ってはだめだ。
──他の地へ行ったら殺されてしまう
カナレットはその言葉をよく覚えていた。境界線をほとんど超えてしまう寸前で、カナレットはユトリロを転倒させた。
寸分の間も与えず、ユトリロを抱き締めた。
それしか思い付かなかった。
それしか出来なかった。
なおも抵抗を続けるユトリロを全力で抱き締める。
「離せ! 離せぇ!」
「大丈夫! 大丈夫だから! あんなもの、なくてもユトリロさんは大丈夫だから!」
暴れ回るユトリロがユトリロに見えなかった。
のんびり屋のユトリロと、この凶暴なユトリロと、どちらが本物なのだろう。
のんびり屋であればいい。一縷の望みをそこに見出して、カナレットは耐え続けた。
「うるせえ離せ!」
もうカナレットは声を出すこともできなかった。歯を食い縛って、とにかく、とにかくユトリロを止めることに注力した。じたばたと四肢を振り回すユトリロを抱き続ける。それは執念に近かった。
しばらく攻防が続いたあとで、ユトリロが脱力し始めた。泣いているのだ。
項垂れて、嗚咽混じりに泣いている。
「……離して、ください……」
もう、その声に凶暴なユトリロはいなかった。
「大丈夫ですから、落ち着いて」
「……離して……」
消え入りそうな声に応える。
『離して』が、『離さないで』に聞こえた。だから絶対に離すものかと、さらに強くユトリロを抱いた。
「離しません……!」
とうとうユトリロはカナレットを、爪を立てる力強さで抱き返してきた。
カナレットの胸の中で大声で泣き叫んでいる。
しばらく泣き続けたあと、打ち明けてくれた。
「震えが、止まらないんです……」
爪がぐりぐりとカナレットの肌を抉るその痛みさえ、カナレットはわからなかった。その代わり、その告白に胸を抉られた。
そうか。
酒をやめると離脱症状が出るのか。カナレットの父もアルコール依存症で暴れまくったが、やめようとしなかったのでやめたあとまで考えがいたらなかった。
(私ったら、なんてことを)
「ごめんなさい、私、まったく気が付きませんでした。いえ、お水を零したあの日に気付くべきでした……!」
はっとした。
リフは、もしかしてあのとき既に気が付いていたのだろうか。
このことを言っていたのだろうか。
カナレットは申し訳なくなって、ユトリロの頭をさらに抱き締めた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。あなたを苦しませるつもりじゃなかったんです」
「ごめんなさい、ごめんなさい……! 俺、あなたを傷付けるつもりじゃなかったんです……!」
「大丈夫です、わかってます。私がいきなり声を掛けてしまったから……!」
「違う! 俺、やっぱりだめな奴なんです……!」
「そんなことありません!」
「カナレット様ぁ……!」
大丈夫、大丈夫。
そう唱え続けていた。そうでなければ、カナレット自身が揺らいでしまいそうだった。
ユトリロにお酒をあげたほうが辛くないのでは?
こんなに辛い思いをさせるなんて、必要なのだろうか。
ああ、どうしよう。
「なんだ、酒は飲まないのか?」
そこに現れたのは青の神だった。ぺたんと地面に座りながらユトリロを抱くカナレットには足の爪先しか見えなかったけれど、まさしくあの男の声に違いなかった。
「デルフト、様……」
ユトリロが呟いた。けれど彼を見ようとしないのは、なぜなのだろう。敢えて見ないようにカナレットの胸に顔を埋めている。カナレットの首筋にあるユトリロの指の力が強まった気がした。
カナレットは怒りを抑えながら、なんとか問う。自分でも驚くほど、汗だくだった。
「あなたが、お酒を渡してたんですか」
デルフトが大仰に両腕を広げてみせた気配があった。演技じみていて腹が立つ。
「なにが悪い? そいつは酒が好きなんだぞ。だからプレゼントしてただけだ」
「もう、今後はやめてください」
「なんでだよ! そいつは依存症なんだぞ? 酒がなけりゃろくに働けもしねえ。酒があっても酔っ払ってなにもできやしねえ役立たずだ! それを思い出させてやってんだ、俺は!」
ユトリロはカナレットに縋るように抱きついていた。ほとんど倒れている状態のユトリロは、重かった。
「うう……カナレット様ぁ……」
「大丈夫ですよ。城に戻りましょう」
「おい無視してんじゃね──」
そこでカナレットは顔を上げた。
うるさい男に一睨だけでもくれてやりたかったのだ。
そのとき、デルフトと目が合った。
デルフトは驚いていた。
「おま……目ェどうした」
そのときカナレットは、デルフトが優しい人なのだと思った。
なぜそう思ったのかはわからないけれど、目の傷を訊ねるデルフトの表情は焦燥が滲んでいて、今にも駆け寄ってきて、傷口を覗き込んで、眉をハの字に下げそうな勢いだったのだ。心根はいい人だ。多分、そう。
なのに、なぜ、こんなことをするのだ。
ユトリロがまた興奮を再燃した。
「カナレット様、ごめんなさい、右目ごめんなさいぃ!」
「大丈夫です、なんともありません」
大丈夫──そんなはずはないのだが。自分でも、なんともないで欲しいと願っている。
「なんで、そこまで」
デルフトは呆然としていた。立ち去るなら今だ。
「とにかく今後一切ユトリロに関わらないでください」
言うと、デルフトは正気を取り戻したらしかった。はんっ、と鼻で笑って腕を組む。
「俺はそいつの元雇い主だぞ」
「それがなんの関係があるんですか」
「可愛がる権利がある」
「捨てたくせに」
ぴくり。デルフトの青筋が浮かぶ。
「お前が代わりに遊んでくれたっていいんだぜ」
「いいでしょう」
ぴくり。デルフトが僅かに目を見開いた。
「……言ったな? なら5日に一度、14時に必ずここに来い。来なかったら毎日酒を贈る」
「わかりました」
ぐっとデルフトの眉間に皺が刻まれる。
「……本当にいいんだな?」
「いいです」
「ひとりで来いよ」
「わかりました」
デルフトはなおも不満そうな顔をしていたけれど、しばらく見合うと踵を返して立ち去ってくれた。
どっと息を吐く。
よかった。これでお酒の供給が断たれるはず。
「ユトリロさん、帰りましょう」
「……うう……」
ユトリロはまだぐずぐずに泣いていた。カナレットももう力を使い果たしてしまって、このままでは動けそうもなかった。
ああ、どうすれば。
「リフ」
助けて。
その願いは風にすら乗らなかったはずなのに、運んできたのはほんの少しの風だった。
ふわりと頬を撫でたのは、リフが羽織ったコートの裾だった。
天から降り立ったようなリフと、その横にはバジールとダイクまで揃っている。3人のコートの広がりが、鴉が羽根を広げたその姿に見えた。
リフはカナレットの前で片膝をつき、黒の手袋をつけたその指で右頬を撫でてくれた。
「リフ……!」
「……やっぱり傷付いてしまったんだね」
リフは悲しげに微笑んだ。
目のことを言っているのか、酒の離脱症状のことを言っているのか、わからなかった。
わからなかったから、苛立った。
ぱしん!
リフの頬を平手打ちしたのは、カナレットだった。
リフは呆然としているし、バジールとダイクを目ん玉が飛び出てしまいそうなほど目を見開いているし、叩いたカナレット本人も驚いていたけれど、言わなくては気が済まなかった。
「なんで教えて下さらなかったんですか!」
「……え……?」
「ユトリロのこと、わかっていたくせに!」
「え、え……? だって、それはユトリロが乗り越えなくちゃならないことなんだよ、カナレット」
「馬鹿言わないでください! ユトリロが乗り越えなくちゃいけないことでも、ユトリロひとりだけで乗り越えなくちゃいけない必要なんてないでしょう!? バジールだって知っていたのでは!? あなた医者でしょう!?」
「あ、あの、それは手を貸さぬようにとご指示が……」
「ふざけんな!!!!」
「カナレット、話を──」
「うるさい!!!!」
カナレットは元来、気の強い性格である。
「バジール!」
「は、はい!」
呼ぶと、バジールは体側にぴったりと両腕を伸ばして直立した。
「ユトリロを運んで! ダイクも手伝って!」
「は、はい!」
「か、カナレット──」
「うるさい! リフなんて知らん!!」
ぷいっ、とリフに背を向けて歩き出す。リフをその場に残して、カナレットはそのまま立ち去った。
カナレットは元来、気の強い性格である。淑やかを装ってはきたが、ここで取り繕うのはもう無理だった。
バジールいわく、これほどに茫然自失としたリフを見たのは初めてなのだとか。




