第6話
「わざわざ診察なんて……」
「これもリフ神様のご命令ですから」
散歩から戻り、ユトリロに手伝ってもらいながら着替えを済ませると、部屋にバジールがやってきた。なんでもリフから診察をするように命じられたらしく、人間の世界でも見慣れた医療器具をいくつか携えている。リフは書斎にいるそうだ。
ユトリロが部屋を出ると、診察が始まる。
「ではソファに座ってください」
従った。顎の下のあたりをぐりぐりされたり、口を開けて喉を見られたり、下瞼をぐいっと引き下ろされてみたり、胸や背中の音を聴診器で聞かれたり、色々と続く中でぽつりとバジールが話し出す。
「黒の地にはリフ神様を含め、私達しかおりません。カナレット様がお過ごしになられていた場所より、格段に人との関わりがなくなるかと思います」
「そうですか」
「ですが……私なんかが申し出るにはあまりにも僭越なのではございますが、どうか、この場に留まっていただきたいのです」
「あ、はい」
バジールはぽかんとした顔をした。
ソファに座っているカナレットに対して、バジールは床に膝を付いて診察をしていた。それに加えて、ここにいて欲しいと言った際には頭も下げたので、カナレットがいた世界ではその行為は最敬礼に当たる。だからなにを言い出すのかと思っていたら、当然のことしか言わないから即答をしただけなのに、バジールは驚いているらしかった。
「え? い、いいんですか?」
「はい。ここにいますけど」
「なぜ?」
「なぜ……うーん。実は私、女学校の寮に住まわせていただいていたのですが、卒業日より前には出なくてはいけなかったんです。しかしお金もないですし、前金もなくて保証人もいない私に家を貸してくださる大家さんなんていなくて、ホームレスになるのがほぼ決まっていたんです。
それか道端で裸も同然で立って体を売ってお金を稼いで、その日の泊まり宿を初対面の男と流れ歩く。そんな日が待っているはずだったんです。だから、ここに来られてむしろ幸せですし、なんならずっといたいです。というか、いさせてください」
バジールはまたぽかんとした。だから言い添えた。
「人間の世界って、そんなに良いものじゃないですよ」
言うと、バジールは言葉を選びながら視線を泳がせた。それは口にしてもいいのか迷っているふうにも見えた。医療器具を箱に収めながら、小さく呟き始める。
「リフ神様は、先程、私に診察を命ぜられました。そのとき、とても上機嫌だったのです」
「へえ」
「なにかあったのですか、と問うと、カナレット様のお話をしてくださいました」
「……私の?」
「はい。……『リフの妻にぴったりでしょう』と、そう仰られましたか?」
「はい。青の変な人に絡まれて、そのように」
「リフ神様は、そのお言葉をとても喜んでおられました」
しかし、あれは売り言葉に買い言葉だったはず。あの場にいたのなら、それは察するはずなのだが。
「リフ神様は理不尽がお嫌いです。ですから、自分を愛してもいない人の一生を貰うということに重責を感じ、花嫁を呼ぶことも非常に引け目を感じておりまして、長年、おひとりを貫いてまいりました。そのため、カナレット様をどうにか幸せにしたいと考えておいでです」
「はい」
「そして、どんなに努力を尽くしても、きっと自分を愛してくれはしないだろうとも、考えておりました」
「えっ」
それは予想外だった。
惚れさせると言った彼は自信満々に見えたし、整った顔立ちや丁寧な口調を鑑みれば、愛されないなどとは無縁に思えたからだ。
「幸せに暮らしてくれればいい、愛されなくとも、ここに来なければよかったと思わずにいてくれたら、それでいい、リフ神様のお考えはそういうものでした。しかし──」
バジールは見上げるようにしてカナレットに眼差しを向けた。そこには主を慮る懇願が内包していた。
「カナレット様は自らリフ神様の体に触れ、寄り添い、ぴったりであると言葉にしてくださった。リフ神様は少なからず、カナレット様なら愛していただけるやも、と期待しておいでです。ですから、これから、なにを見ようとも、ここにいてください」
「なにを、というのは、リフの姿に関するものですか」
問うと、バジールの形のよい眉が歪んだ。苦しそうな表情をして、おもむろに首を振る。
「そうかもしれない、としか私にはお答えできません」
「わかりました。それに関しては問題ありません。リフにも言いましたが、リフは神様ですから人間らしくない姿形をしていても、なんら不思議ではありません。それに、私は国から棄てられたも同然。私には、ここしかないのです。どこにも行きません。安心してください」
バジールの目尻が垂れた。気難しそうだが、笑顔はとても優しげだ。
「いてくださること、感謝します」
手を胸に当てるのは、なにか意味合いがあるのだろうか。カナレットの国では挨拶のときなどに男性がよく胸に手を当てるけれど、バジールはどういう意味なのだろう。
わからずにいると、バジールの声音が普段通りに戻った。
「それにしても、カナレット様が体を売るだなんて想像ができませんね。買おうとする男を殴ってしまいそうな強さを感じるのですが」
「生きていくためならば、致し方なし、ということもあります。誘惑の練習までしたのですよ」
「まさか、そんな」
「本当ですのに」
「いえいえ、カナレット様、ご冗談を──」
カナレットは別になにかを意図したわけではなかった。信じてくれないなら実際にやって見せてやろうくらいの軽い気持ちだった。
床に膝をつくバジールの頬を片手で包んで、爪の先で耳をなぞる。そしてぐっと顔を近付けて、吐息が混じってしまうほどの距離で囁いた。
「このまま、近付きたいな」
言ってから、ぐっ、とバジールの喉が鳴った。そのあとでカナレットが離れると、バジールはハンカチで額の汗を拭った。
「ちゃんと練習したのですよ」
「え、ええ。よ、よく、わかりました。そ、それは、もうやっては駄目です」
「そうですね。自分でも、我ながら下手くそだなと落ち込むのです」
「い、いえ、リフ神様にはやって差し上げてください」
「はい?」
◇◆◇◆◇◆
一応、神には仕事があるらしい。昼食はまた一緒に、ということだったけれど、それまでは暇になってしまう。けれど、それをリフは予想していたのかきちんとユトリロとダイクが相手をしてくれた。
提案されたのはボール遊びだった。
黒のボールを転がして、いかに床に描いた円の中に近いところで止められるかという遊びだ。
「ほっ!」
これがまた難しい。柔らかいボールはあまり転がらないし、かといって力を入れ過ぎるとあっという間に円を通り過ぎてしまう。
カナレットが投げたボールはころころと円の外へ転がっていった。
「なかなか難しい……」
「そうなの、そうなのー。これ、めっちゃ難しいんだよねー! ……あっ、ごめん! 僕、敬語苦手でいつもこんな喋り方になっちゃって……」
ダイクは口を抑えて慌てた。ユトリロは気にしていないのか、ソファに腰掛けてうつらうつらとしている。眠たいらしい。
カナレットは次のボールを拾った。
「大丈夫ですよ、そのままの喋り方で」
「で、でも、バジールにしっかりしろって……」
もじもじと指先を弄ぶダイク。
確かに挨拶をしたときもバジールに諌められていたなと思い出した。
ボールを投げる。円よりもだいぶ前で止まった。次はダイクの番だ。2回ずつ投げるのがルールなのだ。
ダイクがボールを拾う。
「じゃあ私達だけでいるときは敬語やめましょう。てか私も正直に言うと敬語は苦手なので普通にしよう。どう?」
転がす。ぴたり。円に触れる直近で止まった。
うお。凄いな。
小さく拍手していると、喜びに満ちた笑顔でダイクが手を握ってきた。眩しい笑顔だ。
「ほ、ほんと?」
「もちろん」
「やったぁ! ありがとう!」
「いえいえ、私も気楽で──ユトリロさんお酒だめ!」
「あー! またお酒隠してたなぁ!? んもー! またバジールに怒られるよ!」
「一口……」
「だめ!」
「1滴だけでも……」
「だめったら、だめ!」
懐から小瓶を取り出して飲もうとするユトリロをふたりで止めて、酒を奪う。ダイクに見張ってもらっている間に、風呂場の排水口に酒を流した。
戻ると、ユトリロはソファで眠ってしまっている。なんて自由なんだ。
「ユトリロさんは奔放だね」
言うと、ダイクは組んだ手の指をもじもじとさせて、語り出した。
「僕達は皆、1回捨てられたんだ」
それは悲しい告白だった。語るダイクの横顔は憂いを帯びていて、カナレットまで悲しみに浸ってしまいそうだった。
「捨て……? ユトリロさんも?」
「そう。ユトリロも僕も、バジールも」
「バジールさんまで?」
どういうことなのだ。
考えていると、ダイクはさらに続けてくれた。
「僕達、本当は皆、別々の神様のところで働いてたんだけど、ユトリロはお酒がやめられなくて、それで仕事の色々なことができなくなって、僕は口調が直らなくて、王様にもこんな感じで不敬罪で、バジールは真面目すぎて融通が利かなくて、他の従業員と馴染めなくて扱いにくいからって、3人共、別々の時期に捨てられて、そのまま消滅するはずだった。
でもリフ神様が拾ってくれたんだ。
この世界の住人を消滅させるとき、入口の森で神様が集まって多数決を取るんだよ。でも、他の神様のところで働いてた従者なんて関わりがないから、だいたい問疑に掛けられた時点でほぼ消滅は決まってる。
でも、リフ神様だけが、反対してくれた。
他にいいところがたくさんあるのに、ひとつの欠点で廃棄されるのはおかしいって。捨てるなら、僕が貰うって……。
だから僕達、ここしかないんだ。
もう、あとがない……。
ここを追放されたら、もう消えてなくなるしかないから。
ねえ、カナレット様」
急に話を振られて驚いた。ダイクが真剣な眼差しを向けてくるので圧されてしまう。
「な、なに?」
「僕達、一生懸命やるから、嫌いにならないで。ユトリロのお酒も、なんとか頑張るから。僕達、ここにいたいんだよ。お願い」
なんだ、そんなことか。
バジールにしかり、ダイクにしかり、些細な頼みごとをするわりに大袈裟だから身構えてしまったではないか。
「それを言うなら私だって放り出されたら行くところなんてないし……拾われ者同士、仲良くしましょうとしか言いようがないというか……。とりあえず、ユトリロのお酒の件は協力する。なんとか断酒! まずは3日間断酒を目標に!」
「よかった……。うん! 断酒!」
そのとき、寝返りをうったユトリロのどこかから、ことん、と音が聞こえた。
ダイクとカナレットは、示し合わしたようにユトリロの服を弄る。
「あー! ここにも!」
「こんなところにも!」
「もー! ユトリロ!」
「ユトリロさんの部屋も捜索しよう! 絶対に隠してあるよ!」
そうして1時間で合計46本の酒瓶を見付けたふたりなのである。




