第5話
「カナレット、起きて」
頬を撫でられている感触に気が付いて、カナレットは薄っすらと瞼を持ち上げた。いつの間にか自分も寝入っていたらしい。先に目覚めたリフがカナレットを起こしていたのだ。
「おはよう、カナレット。よく眠れた?」
「おはようございます。すっかり体も軽くなりました」
「そう。なら、よかった。そろそろユトリロが来る頃だから、僕は先に行くよ」
「わかりました」
カナレットが上体を起こし始めるのを見届けて、リフはベッドから立ち上がった。はだけたままのシャツの上からジャケットに袖を通す姿はどこか妖艶で、見ているだけで引きずり込まれてしまいそうだった。ベルトを締め直すその背中も、なんだか見ていられない。
「それじゃあまたあとで。朝食のあと、黒の地をゆっくり案内するから」
「わかりました」
そうしてドアを出て行くのを見送ろうとすると、リフが思い出したように足を止めた。
「ああ、そうそう。カナレット。僕以外に心を奪われてはいけないよ。もちろん、ユトリロにもね。できる?」
「は、はい」
「約束だよ」
どこか意味深な気がしなくもないけれど、素直に頷いておく。リフはカナレットの頭をぽんぽんと撫でた。
残っていたのは、その感触だけだった。
瞬きをして、再び目を開けると、もうそこにリフはいなかった。ドアを開けた様子もないし、足音もないし、服が擦れた音さえしなかった。ぽつんと取り残された部屋が、リフは間違いなく人ではないのだと伝えてくる。
「カナレット様」
ノックと共にユトリロの声がする。
「はい、どうぞ」
「おはようございます、カナレット様。ひっく……。お召し変えを……ひっく」
これは言われなくともわかる。顔は赤いし、特有の匂いはぷんぷんだし、それよりなによりユトリロ自身が寝間着にナイトキャップのままだ。洗面道具の代わりに酒瓶を持っているし、なんなら他にはなにも持っていない。
(昨日、約束したばかりじゃない!)
「こらー!!」
ユトリロいわく、明日から頑張るから飲み溜めをしたらしい。
ふざけんな。
◇◆◇◆◇◆
「どこから調達してくるんだろうねぇ」
朝食のあと、城の外に出たリフとカナレットはユトリロの酒の出処について話をしていた。リフはくすくすと笑ってはいるものの、カナレットは酒の怖さを知っている。背後を付き従うユトリロにむすっとした顔を向けると、まだほんのり赤い顔で照れ笑いしてくる。
「黒の地は、土も花も草木もすべて黒だよ」
それには気が付いていた。城を出てからずっと黒ばかりが続いているのだ。初めこそ城の周囲だけが特殊な環境なのかと考えていたが、実際に根付いている花々が花弁から茎から雄蕊からすべて黒なのだから「ああ、そういうことね」と納得はしていた。
「ここが境界線」
「わ……綺麗にすっぱり分かれてるんですね」
そこは青の地との境界線だった。人工的に線が引かれているわけではないのに、くっきりと地の色が一直線に変わっている。澄み渡った深い青空色は、とても美しかった。
思わず駆けて、境界線の寸前で立ち止まる。ぴしゃりと世界が変わる線は圧巻だった。
「鮮やかな青ですね」
「美しい?」
「はい、とても!」
「青の地に行きたい?」
カナレットは笑顔も忘れてリフを見てしまった。
彼は、どうして試すようなことを言うのだろう。
黒は嫌い?(黒を好きと言ってくれ)
バジールのほうが好き?(僕のほうが好きと言ってくれ)
言葉の端々に、なにか、そういう真意があるような気がしてならない。
言ってほしいのかもしれない。
青の地には行かなくていいです、よりももっと直接的な言葉を求めているのかも。カナレットは迷いながらも、言った。
「いえ、リフがいいです!」
青は美しいが、自分の居場所はここなのだと知っている。自分にはここしかない。だから、卑怯だと思われても、リフが望む言葉を予想して口にした。
なんて性格が悪いのだろう。
例えば自分が青の地に落ちていたとしても、同じく「あなたの地がいい」と宣ったくせに。リフでなくても、他の誰かに「あなたがいい」と言ったくせに。
自分でもわかっている。けれど、気に入られるためには言うしかなかった。
それなのに──
はにかんだリフの笑顔のなんと美しいことか。
無邪気で、屈託がなくて純粋で純真で。カナレットは自分の言葉こそ黒く淀んでいる気がして罪悪感を覚えた。
「そう。カナレットは僕がいいんだね」
「そうです! 逆隣は何色なのです?」
「そっちは黄色だよ。見に行くかい?」
迷った。本心を言えば、見に行きたい。黄金の草木や芝はきっときらきらと輝いて、意識せずとも頬が緩んでしまうほど美景だろう。
けれど、リフの目が語っていた。
だから、その通りに言った。
「いいえ、大丈夫です。行ってはならないという境界線がどういうものかさえわかれば、見なくてもいいです」
多分、そう言って欲しかったのだろう。他の色、他の地に興味なんて持って欲しくない。興味を持つということが、そちらに行きたいのでは、という不安に直結してしまうのかもしれなくて、カナレットはやはり彼の望む答えをした。
リフが嬉しそうに笑ったから、正解だったのだと知る。
「黒の地に噴水があるよ。そっちに行こうか?」
「はい! ぜひ、そちらに──」
「なんだ、本当に嫁を貰ったのか」
リフに駆け寄ろうとして、ユトリロでもない声に振り返る。そこには青のシャツを着た青年だった。涼やかな目元にほくろがあって、肩まで伸びた髪から覗く耳にピアスがきらめいている。
青の地の神だろうか。
カナレットは挨拶をしようとした。
「はっはっはっ! なんだ土地だけでなく嫁の髪も瞳も黒を選んだのか! とんだ災難だったな、お前も! 髪が黒いばかりに!」
かっちーん。
カナレットは元来、気の強い性格である。礼儀を尽くして挨拶をしようとしたけれど、どうやら相手は礼儀を尽くさない主義らしいので挨拶なぞしなくてもいいだろう。
カナレットは嘲笑を浮かべながら横目で青年を見つつ、リフの元へと歩みを進めた。
「黒髪黒目、似合います? リフの妻にぴったりでしょう?」
挑発するように言って、リフの腕に腕を絡めて笑って見せた。それが馬鹿にされたと理解したのか、青年は眉根を寄せて表情を歪めた。
「ふんっ。統べる神が神なら、嫁も嫁だな」
「お似合いという意味ですか? うふふ、嬉しいです」
こてん、と頭を傾げてみせる。リフの胸あたりに少し頭が当たった。
「同じレベルって意味だ」
「似た物同士ということですか? やだー、そんなに褒めていただけると照れてしまいます」
腕を絡ませたまま、リフの手を握ってみせる。
みるみるうちに青年の顔が醜く歪んで、ほら来るぞ、と思った途端、やはり吠え始めた。
「ちが──なんなんだ、この女は!」
そうなればこっちのものである。勝ったも同然。相手にするだけ時間の無駄。こういう奴は、おちょくっておいたほうがいいのだと経験上、知っている。
「私ですか? リフの妻ですが?」
またわざとらしく小首を傾げる。すると、リフが吹き出した。
「ぶはっ! 最高だね、君は」
言いながら、頭を撫でてくれる手付きがおそろしいくらいに優しかった。握り返してくれた手が、大きい。
「噴水に行きましょう」
「そうだね、行こうか」
べーっ。
青年に向けて舌を出し、最後までふざけて見せて、踵を返す。
ユトリロに至っては笑い上戸なのか涙が出るくらいに笑っていて、リフが「行くよ」と言ってようやく落ち着いたといった感じだった。
2、3歩進んだときだった。
びしゃんっ!
頭から桶を引っくり返されたと勘違いしそうなほどの冷水が降ってきた。しかも濡れているのはどうやら自分だけらしい。ぼたぼたと髪から顎から水が滴っていく。
なんだ、なんだ、と掌で顔を拭うと、背後で笑い声が聞こえた。
振り返れば、青年が腹を抱えて笑っている。
「よく似合ってるぞ!」
そしてさらに青年は指でテーブルの上の埃をそうするみたいに、中指を親指の腹を支点にしてピンッと弾いた。
ばしゃん!
今度は正面から水が飛んできた。目の前で水の塊が弾け飛んだのだ。今度は、もろに鼻に入ってきて咳込んでしまう。
「あっはっは! お似合いだ、お似合いだぞ、このドブネズミめが!」
(うわー。陰険ー)
とはいえ、自分も同じ土俵に乗って挑発したことだし、これ以上はなにも言うまい。こういう輩はなにを言っても無駄なのだ。自分が優位に立って終わらなければ気が済まないガキ大将。付き合っていても仕方がない。
「リフ、行きま──」
最後まで言えなかったのは、リフの目のせいだった。
白目が黒く濁っている。
真っ黒な眼球に銀の瞳が浮いているだけの目で、青年を凝視していたのだ。
しかも、びくびくと瞼や頬の筋肉が痙攣している。
はあ、と、ねっとりした息を吐き出すために口を開けたかと思うと、口角が耳まで切り開かれて、鋭利な牙が見えた。
瞠目した。
「り、ふ……?」
その横顔は、まさしく蛇だった。
ぶつぶつ頬や額に銀色の鱗のようなものが浮かび上がる。牙の隙間から、大量の涎が垂れ落ちた。
ぞっとした。
このままではいけないと、体が先に動いた。
「リフッ!!」
腕を強く引くと、驚いたリフがカナレットに視線を向けた。
そのときには既に人の顔に戻っていた。
「神は神に攻撃してはならない。この世界の掟だぞ、リフ神」
そう言い捨てて、青年は雨が上がるように静かに消えて行った。
「あわわわわ! カナレット様! びしょ濡れです!」
ユトリロが持ち歩いていたハンカチで顔や髪を拭いてくれる。カナレットはそのハンカチを受け取って、自分で処理を始めた。ちらりとリフを覗い見る。
リフはなにか恐ろしいものでも見たみたいに目を見開いて、口を手で覆っていた。その手が小刻みに震えている。
カナレットはその手を握った。手を取ると、隠していたその唇も震えていた。
「リフ、行きましょう。ね?」
「か、カナレット……み、見た……?」
「いいんです。私を思ってのことだったのでしょう? 大丈夫です。いいんです。行きましょう」
そう言って、強引に腕を引かなければリフは歩いてくれなかった。ユトリロの道案内で噴水が見えると、カナレットはユトリロに下がるように目顔で伝えた。
ふたりきりなって、リフがようやく語り出した。
「感情的になると、ああなってしまうんだ。……怖い? 逃げたくなった……?」
噴水の水は透明だった。勢いよく吹き出しているのではなく、ドーナツ型の受け皿の中央に背の高い花が咲いており、雄蕊から水が湧いて花弁から溢れるように水が落ちている。
カナレットは透明な流れを見つめながら考えた。
怖くないといえば嘘になる。
「でも、リフは神様ですから」
「……え?」
「あのくらいじゃないと、リフが神様であると信じられなかったかもしれません。リフが、あんまりにも人間ぽいから」
「カナレット……」
「それに、私が水を掛けられて怒ってくださったのですから、逃げ出したくなるわけがありません」
リフは微笑みながら、ジャケットを脱いでカナレットに羽織らせた。カナレットの胸の前で襟を合わせてくれる。
「君は最高だね」
ふふ、とカナレットは笑った。純粋に嬉しかったのだ。
「光栄です」
「さあ、城に戻ろう。風邪を引いてしまうよ」
「はい!」
ふたりが歩き出すと、自然とユトリロも付き従う形になった。




