第4話
「本当にすみませんでした!」
食事のあと、部屋に戻った途端、ユトリロが床に頭をつけそうなほど謝罪をしてきたのでカナレットは驚いてしまった。慌てて膝を付いて、ユトリロを引き起こす。
「やめてください! 私にこんなことをしていただかなくても……!」
「庇ってくださり、感謝します! 俺、ここを追い出されたら行く場所がないんです! だから、本当にありがとうございました!」
「行く宛がないのは私も同じです。だから、どうか顔を上げてください」
説得すると、ようやくユトリロはゆるゆると上体を起こした。
ぎょっとした。
ユトリロの顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。そして大声を挙げ始めた。
「もーーぅ嫌だぁーーーー!」
「えぇ……!? ゆ、ユトリロさん……!?」
「なんで俺は酒をやめられないんだぁーーー!」
こういう場合はどうすればいいのだろうか。リフに知られたら、またユトリロが責められてしまいそうだし、ダイクは今頃食器を片付けているし、ならばやはり頼りがいのありそうなバジールだろうか。でもバジールを呼んだら必然的にリフの耳にも届いてしまいそうだし。
ほとんど人間関係を築いてこなかったせいで、こうしたときの対処法がまるでわからない。
まず落ち着いてもらわないと、リフに気付かれる。
「ユトリロさん、しー! しー!」
「うわぁーーーーんッ!! もう嫌だよーーーーぅ!!」
「あー、えーと……!」
とりあえず黒色のハンカチでユトリロの涙を拭ってやる。それでも喚き散らすので、思い付く限りのことを言った。
「日中はお酒を飲まないように私も手伝いますから! ほら、今までは私がいなかったから隙間時間に飲めてしまえましたけど、今日からは私がいるのですし、飲む暇も量もきっと減りますよ!」
言うと、ひっく、ひっく、と喉を鳴らしながらも少しの落ち着きを取り戻した。こう見ると、なんだか幼い。カナレットよりも歳上のはずだが、弟に感じる庇護欲が掻き立てられる。
「ほ、本当ですか……?」
「もちろんです! 明日からずっと一緒にいるのでしょ?」
(執事がどういうものなのかよくわからないけれど、多分、一緒にいる時間は長いはず)
案の定、ユトリロはこくんと頷いた。ハンカチで涙を拭き、苦笑しながら鼻水も拭き取ってやる。
「なんて顔をしてらっしゃるのです」
「奥様……じゃなくてカナレット様ぁー! 明日から厳しくお願いします!!」
「わかりました。もうこの洋服でしたらひとりで着替えられるので、今日は休んでください」
「ひっく……畏まりました。明日、また伺います」
「はい。ありがとうございます」
ぐっしょり濡れたハンカチは「洗っておきます」ときっちりと受け取って、ユトリロは部屋を辞去した。
(やれやれ、随分と大きな弟だこと)
カナレットは弟を嫌いになったわけではなかった。差別主義者、男尊女卑である両親に耐えかねて家を出ただけで、弟への愛は、弟が生まれたときから少しも変わらない。
(どうしてるかしら)
きっと、両親に愛されて幸せに暮らしているに違いない。今頃、可愛い婚約者と夕食を共にしているかもしれない。そうであればいい。
「ふふ」
打ち解けられそうでよかった。
安堵して立ち上がった、そのとき──
「カナレットは優しいねぇ」
背後から声がした。
仰天して振り返ると、ベッドの上にリフが座っている。足を組んで、モノクルをハンカチで拭く姿に背筋が寒くなった。
「り、リフ神様……」
いつの間に。どうやって。そんなものは愚問といえよう。
カナレットはユトリロとの会話を思い返していた。酒についての話のみで、疑わしいやりとりはなかったはず。
(大丈夫、大丈夫なはず)
モノクルを着け直したリフは微笑みながら、ベッドの上をぽんぽんと叩いた。隣に座れと言うのだ。カナレットは従った。
ぎしり。
ベッドが僅かに沈み込む。リフと膝と膝が触れ合って、触れたところから氷になってしまいそうだった。
「リフと呼んで。敬称もいらないよ」
「わかりました……」
リフが顔を覗き込んでくる。首を傾げるその姿はどこか無邪気だ。
「ユトリロといるときのほうが、よく笑っているね」
「そ、そんなことは……」
「カナレットは僕が怖い?」
「いえ!」
否定しても、紡錘の虹彩に覗き込まれると見透かされているみたいで、打ち明けざるを得なかった。膝の上で握った自分の手に視線を落とす。
「ただ、緊張してしまって……」
「緊張? なぜ?」
素直に伝えることにした。
「怒らせてしまって、追い出されたらどうしよう。怒らせては駄目だと、失礼をしてはいけないと、そんなことばかり考えてしまうのです」
「そう……。不安なんだね」
強く握り締めていた手に、リフが手を重ねてくる。白く、細長い指は中性的なのに、掌は、片手でカナレットの両手をすっぽり包んでしまうほど男性的な大きさをしていた。
「安心して。僕が君を呼んだのに、僕が追い出すだなんてそんな理不尽はしないよ」
「……ありがとうございます」
「それに、僕は一度手に入れたものは手放したくない性分なんだ。大丈夫。カナレットは──」
ふと、リフの顔が近付いてきた。ぎゅっと身構えると、耳に唇が触れる距離で囁かれる。
「死ぬまで僕のものだよ」
鳥肌が立ったのは、未来永劫を囚われたことを痛感したからなのか。その低い声に体が反応したからなのか、わからなかった。
「着替えておいで。一緒に眠ろう」
「えっ」
「大丈夫。君が僕を愛してくれるまで、君の体は求めない。それ道理というものだろう? でも、カナレットの傍に少しでも長くいたいんだ。許してくれる?」
「も、もちろんです」
カナレットは言われるがまま寝間着へと着替えた。待たせてはならないと急いで戻ると、リフはジャケットを脱ぎ、ベルトを外し、ワイシャツのボタンを胸まで開けていた。首筋から溢れる色気といったら、カナレットが直視できないほどだった。サイドテーブルにモノクルを置いたリフに誘われるまま、カナレットはリフの隣へと寝転んだ。
「ねえ、カナレット」
「は、はい」
「僕を抱き締めて欲しい」
「い、今ですか?」
「そう。眠っているときもずっと、僕を離さないで」
「わかりました」
リフはカナレットのほうに体を向けながらも、肘を付いて体を起こし、完全には寝そべっていなかった。カナレットがおそるおそるリフの背に手を回すと、リフが待ちかねたとでもいうように抱き締め返してくる。
強烈に甘い香りがした。
「僕にカナレットのことを教えて」
「私のことを、ですか」
「そう。黒色は嫌い?」
「いえ。落ち着いた色ですので好きです」
答えると、リフが深呼吸した。安心したようだった。
「好きな食べ物は?」
「なんでも。嫌いなものはありません」
「そう……。好きなことはある? 本を読むだとか」
「読書が好きです。音楽を聴くのも、星を見るのも」
「ああ……星か……」
少し口調がゆっくりになった。眠いのかもしれない。しきりに頭を撫でられて、なんだかカナレットも睡魔を感じ始めていた。
「この世界の黒の地の天候は、僕が決められるんだ。明日は、星を見られるようにしてあげる。一緒に見よう」
「はい」
「ねえ、カナレット」
「はい」
ふ、と吐息が前髪に掛かって、リフが微笑んだ気配があった。
「呼んだだけ」
「……ふふ、そうでしたか」
思わず笑ってしまったのは、あのリフも悪ふざけをするのだとわかったからだ。
(なんだ、怖がることないじゃない)
「カナレット」
「はい」
「カナレット」
「はい」
「カナレット」
「はい」
またリフが笑った。今度は、ふふ、と吐息が続いた。
「呼んだら応えてくれる。……嬉しい」
そして、おそらくリフは眠ってしまった。カナレットは言い付け通り、彼を抱く腕を解かなかった。
ようやくこの人の妻になったのだと、実感した。




