第21話
ああ、死んでいくのだろうか。
カナレットは底知れない寒さに絡め取られながら、クライブの去ったほうばかりを見詰めていた。
これがクライブによるものなのか、わからない。
わからないけれど、助けなかったということは、やはりカナレットのした行為を許せない意思表示なのだろう。
殺してやる。
最後にその望みを叶えられたのだとしたら、姉として喜んでやりたい。そして、どうかこれで憎むのを辞めてほしい。私を、ではなく、人生を憎むことを辞めてほしい。
憎しみは疲れてしまう。
もう、どうか疲れたりしないで、幸せになって欲しい。
おこがましい願いだろうか。
カナレットは自嘲した。もう指先ひとつ動かせない。
そこへ顔を動かす手指があった。
動かされた視線の先に、リフがいる。
ああ、あなた。
カナレットは静かに意識を手放した。
◇◆◇◆◇◆
「カナレット、大丈夫?」
カナレットに異変があったのはすぐにわかった。だから駆け付けたのに、そこに横たわっていたのはほとんど生気のないカナレットだった。
瞼を閉じる力もないのか、虚ろな瞳は宙に向けられている。自分を見てくれない黒曜石に鳥肌が立った。
いったい、なにがあったのか。
共に駆け付けたバジールが診てくれているのだけれど、身体に異常はないのだという。ユトリロはバジールの指示した薬を取りに、ダイクは熱い湯を取りに城に戻った。
焦る自分に対し、冷静なバジールは心強い。
「これはおそらく神の御業かと。生命を他の者へ移す術ではないかと思います」
それならどの神も使える技だ。奪取専門のリフでさえ覚えている。発動できるということは、解除も取得済みだ。
なんとかなりそうだ。
「では、それを断ち切ればいいんだね」
バジールは頸動脈に触れながら、苦い顔をした。
「いえ、もう断ち切ってあります。しかし残された生命が少なすぎるのです。どうにか生命を与えないと」
生命を与えるって?
どうやって?
与えるって、なに?
「僕は奪うことしかできないのに」
カナレットに安心のひとつも与えてやれなかった自分が生命などというものをどうやって与えられるというのだ。
「カナレット、目を覚まして。僕達がなにか考えるから、もう少し頑張って」
抱きあげようとすると、されるがままにぐにゃりと曲がるカナレットの体がリフの胸を抉った。
ああ、やっぱり花嫁なんて呼ぶんじゃなかった。
こんなに辛い思いをさせてしまう。
こんなに辛い思いをしてしまう。
ごめんよ、カナレット。ごめん。
嘆いていたって仕方がない。なにか考えないと、なにか、なにか。
「俺がなんとかしてやる」
そこへ現れたのはデルフトだった。
走ってきたのか、いつも涼しい顔のデルフトは肩で息をして、額いっぱいに汗を掻いている。
デルフトはカナレットの様子を見て舌打ちした。
「すまない。青の地への侵入者に対する罠が発動したらしい」
察した。カナレットが境界線を好奇心で越えるはずがない。あれほど全力でユトリロを止めたのだから。越える理由があるとすれば、ただひとつだ。
「……弟か」
「そのようだ。だから責任を取って俺がカナレットを助ける」
デルフトはシャツのボタンを乱暴に開け、素肌を晒した。境界線ぎりぎりのところで膝をつく。デルフトの胸は激しく上下していた。
「助けるって、どうやって……?」
「俺が死ぬ」
デルフトは額の汗を袖で拭いながら言った。
バジールは思い付いたらしかった。
「なるほど……デルフト様の生命をカナレット様に譲渡するわけですね。それなら助かります。しかし──」
「ああ、そうだ。俺の生命を分けるとしたら、カナレットは青の地の神になる」
リフは耳を疑った。
「僕の妻でありながら、そんなことは可能なのか?」
「わからない。なにせ前代未聞だからな。でも、そうじゃないとカナレットは死ぬ。それでもいいのか?」
瞳を見据えてくるデルフトは、もう答えが決まっているらしかった。それなのに試すようなことを聞いてくるのだから、つくづく捻くれた性格だと思う。
リフは目を見つめ返しながら言った。
「……頼む、カナレットを助けてくれ」
それはデルフトに死んでくれと言っているのと同じだった。それでもデルフトはいつものように意地悪に微笑んだだけだった。
そんな顔がふと真顔になる。
「でも、ひとつ頼みがある」
「……なんだ」
「俺と、俺の妻を焼いてくれないか」
「……妻? だって君の妻は百年も前に──」
そこまで言って、すべて辻褄が合った。カナレットの命がどこへ移されたのかを。
君は大切にしてきたんだな。
「わかった」
リフは頷く。
もう言葉はいらなくて、デルフトもただ頷き返して、視線をカナレットへ落とした。
境界線の上に寝転んだままのカナレットの胸に左手を置く。
「悪かった、カナレット。俺はお前を利用しようとした。そのツケが回ってきたみたいだ。こんなことになって、ごめん」
そして右手を自分の胸に置く。
ゆっくりと瞼を閉じると、どくん、とした拍動のある輝きが胸から現れた。
小さな心臓のようだった。
輝く心臓が血流に乗っているみたいに腕を通ってカナレットの胸へと移動する。
どくん、どくん──……。
カナレットの胸へ光が沈んでいく。
途端、突風が起きた。
竜巻のような物凄い風にカナレットが吹き飛ばされそうになり、リフ達はカナレットに覆い被さる形でカナレットを守った。しばらく豪風が続いた。
そして、ぴたり。
風が止む。
目を開けて、驚いた。
青と黒が混ざっていた。
青の地に黒い薔薇が咲き、黒の地に青の噴水があり、同じ花なのに葉の色が黒や青だったりする。花弁すら黒と青が入り混じっていた。
境界線が、ない。
「これは……そうか、黒の地の神である僕の妻でありながら、青の地の神になったから、境界がなくなったのか」
カナレットの横で永遠の眠りについたデルフトはどこか晴れやかな顔をしていた。
それもそうだ、百年も同じ人を守り続けてきたのだ。もういい加減、ふたりで過ごしたくなったのだろう。夫婦ふたりで、どちらをひとりにすることもなく。
カナレットが目を覚ますと、右目は黒なのに左目だけ青の瞳に変わっていた。
おやおや。最後にとんでもないことをしてくれたな、と思わなくもない。
(カナレットの中に生き続けるだなんて)
どろりとした嫉妬が芽生えるも、顔に出さぬように押し殺す。
カナレットは目を瞬かせた。
「……リフ?」
「気が付いた?」
はっと事態を呑み込んだらしい。起き上がって、説明を始めた。
「ごめんなさい、私、待ち切れなくてひとりでここに来たんです! つい境界線を越えてしまっ──デルフト?」
隣に眠るデルフトに気が付く。
「デルフト。どうしたの? デルフ──」
体を揺さぶってもなんの反応もないデルフト。
彼が死んでいると気が付いたカナレットは、リフに瞳を向けてきた。
いったい、なにが起きたのか。
それを知りたがっていた。だから、これまでの経緯を教えてやった。そしてこれからのカナレットの役目も。
「私が、神に……?」
「そうだよ」
「そんな……デルフト、どうして私のために……」
カナレットはデルフトの胸に突っ伏して泣いた。かつて生命のあった場所に、代わりに涙を流してやった。
リフとバジールは言い添える。
「彼はきっと、もう解放されたかったんだよ。奥さんと一緒に逝きたくなった。きっと、そうなんだと思う」
「……ひとりは退屈ですからね」
そしてデルフトと、城の中に眠っていた妻の火葬を終えると、カナレットはクライブを探した。
けれど、クライブはどこにもいなかった。城のどこにも。




