第20話
「クライブ!」
境界線に立つカナレットはクライブを見るや顔を輝かせた。
(馬鹿な奴。あんなに喜んじゃって)
クライブも内心を隠して笑顔を貼り付け、カナレットのもとへ駆け寄る。手を振ってみたりなんかして。そうしてやると、カナレットはことさらに笑顔を深くした。
「クライブ、よかった、来てくれたのね! 私、どうしても謝りたくて……! 本当に、なにも知らなくてごめんなさい! 自分のことばっかりで──」
「あのさ」
「置いてくるなんてひどいことを──」
「ねえ、もういいからさ、ちょっと付いてきて」
謝罪をするカナレットを見るのは滑稽だった。許されもしないことをずけずけと並べ立てて不愉快極まりない。耳鳴りがしそうだった。
踵を返して城へと急かす。
しかし、さすがのカナレットも二の足を踏んだ。境界線に立って、もじもじとしている。
「えっ、でもこの先は……」
苛立った。早く来いよ、役立たず。
「見せたいものがあるんだよ。付いてきて」
「で、でも──」
「なに、来てくれないの?」
強く言うと、カナレットは困惑しつつも、負けたらしかった。当たり前だ。
俺はあんたに捨てられた実の弟だもの。
許してもらうには機嫌を損ねたらいけないよな?
俺のほうが優位だ。俺に従うしかないんだよ。
カナレットは城を見て訊ねる。
「デルフトはいないの?」
「いないよ」
「わかった……」
そして、諦めたように自ら境界線を越えてきた。これでいい。俺は強要したわけではない。この女が自分で境界線を越えて来ただけだ。俺のせいじゃない。悪いのは全部この女だ。
なにもかも、この女のせい。
「ほら、付いてきて、早く!」
デルフトが帰ってくる前に事を終わらせなければならない。こんな所でモタついていたら、鉢合わせてしまう可能性だってあった。
そうしてクライブが急いで駆け出そうとすると、どさ、と背後で音がした。なんだなんだと振り返れば、カナレットが地面に倒れている。
「……え?」
カナレットは動かない。転んだだけなら、すぐに起き上がるはずなのに、ぴくりともしなかった。
あー、もう、鈍臭い奴だな。
「なに、なんだよ。早く来てよ。デルフト様が帰ってきちゃうじゃん!」
苛つきながらカナレットを足蹴にすると、カナレットはされるがままに仰向けになった。
ぎょっとした。
唇が真っ青になっている。しかも、はっ、はっ、と呼吸が浅い。ほとんど呼吸ができていないのだ。
気付いた。
罠だ!
この世界の境界線は越えてはならない。越えたら殺されても構わないことになっている。白のバーレンは侵入者に対して聞き取り調査をしてから処分を下す手法を取っていた。きっとデルフトは境界線を越えたものにのみ発動する罠を仕掛けていたに違いなかった。
あー、くそ!
どうしよう!
奥さんの爪を取っただけじゃなくて、この女の死まで俺のせいにされる!
なんだよ、こいつ、役立たず!
俺を置いて行っただけじゃなくて、そっちまで引きずり落とそうってのか!
そうだ、黒の地に戻しておけばいい。そしたら人間だから心臓発作かなにかで片付けてくれるだろ!
クライブはカナレットの体を引きずり、境界線の近くに横たえると、またお腹を蹴って境界線の外に戻した。ゴミをそうするみたいに、ごろん、ごろん。
これでよし。
あとは奥さんの爪だ。なにか接着剤のようなものを試してみよう。どこかにあるはず。
そして、さっさと城に戻ろうとしたとき。
「ク、ライ、ブ」
カナレットの声がした。振り返るとカナレットは泣きながらクライブに手を伸ばしていた。
命乞いか。
くだらない。助けてやるとでも思ってるのか、馬鹿め。
「ごめ、んね」
ごめん。
そう繰り返すカナレットの姿にぞっとした。なぜ、怖くなったのかはわからない。わからないけれど、逃げ出したくなった。あのままでは、まるで自分が悪者に思えて、とてもじゃないけれど傍にいられなかった。
クライブは走って走って城に戻り、がちゃがちゃと引き出しを荒らすように接着剤を探す。
ごめんね。
死にかけているくせに、なぜそれを言うのだ。
なんなんだ、なんだというのだ。
本当に、俺のされていたことを知らなかったとでも言うのか……?
本当に、俺が息子として愛されていたと信じていたとでも言うのか……?
馬鹿な。ありえない。あんな地獄に気付かないなんてありえない。嘘だ、嘘だ!
ごまかそうとしてるだけだ!
「なにやってんだ?」
はっとした。
振り返ると、すぐ背後にデルフトが立っていた。
「デルフト様……! おかえりなさいませ!」
「接着剤なんて、どうすんだ?」
クライブは手に持っていた接着剤を慌てて引き出しに戻した。
「い、いえ……! 窓枠のヒビを見付けまして、その修繕をしたところでした! 放っておくとヒビが広がってしまいますから、早めに塞いでおいたほうがいいかと思いまして! それで! もう終わりましたので!」
喋りすぎていると自覚しつつも、口が止まらない。デルフトは何事かを察したのか、すぐにあの部屋に向かい始めた。
まずい、まだ爪が!
「デルフト様! お茶はいかがでしょう!」
「いらない」
「お茶菓子なども作れますが!」
「いらない」
「ではお召変えは!? 外から帰宅されたのですし、着替えをしたほうがよいのでは!?」
「いらない」
必死の足止めも叶わず、デルフトはあの部屋の扉を開けてしまった。そしてデルフトは絶句する。
「……どういうことだ……」
ああ、もうだめだ。
クライブは天を仰いだ。
追放されて消えてなくなるんだ。あの女のせいだ。全部、あいつのせい。
「……デルフト様」
だが、その声に振り仰ぐ。自分が発したのではない嗄れた声。それは明らかに、女の声だった。
仰天した。
彼女の目が開いていた。
「ロンギー!」
彼女に駆け寄り、ベッドの傍に膝をつく。細い手を取ったところで、デルフトはなにかを勘付いたらしかった。
「お前、まさか……!」
はっとしてクライブを振り返ってくるデルフト。クライブは今にも逃げ出したかったけれど、逃げる先なんてどこにもなかった。立ち尽くしてしまう。
「デルフト様、聞いて欲しいことがございます」
デルフトがなにかを言う前に、彼女が小さく囁いたのでデルフトは耳を彼女の口元に寄せた。
「なんだ? なんでも聞く」
彼女は口を窄めることさえ、たっぷりと時間が掛かった。息が漏れるだけの口から言葉が紡がれるのを、デルフトは懸命に待っている。
そして、言った。
「わたくしを、焼いてくださいませ」
デルフトが目を剥いた。
「な……!」
「わたくしは、もう死んでいます。ですから、どうかあなたも解放されてください」
「なにを言う!?」
彼女が微笑んだ。
しわくちゃな笑顔だった。
「あなたがわたくしを愛していなかったこと、気が付いていました。あなたは仕事、いつも、わたくしはひとりで、最期もひとりで死にました……だからって、こんなことを贖罪としてくださらなくていいのです」
デルフトは彼女の手を崇めるみたいに額に押し付けた。
「しかし……俺はあんただけいてくれればいいと、そう思うべきだった……他にはなにもいらないと、そう思うべきだったんだ……!」
彼女はおもむろに首を振る。油のない機械みたいに、ぎこちない動きだった。
「愛せないことに罪はありません。わたくしは、あなたに愛されるほどの女ではなかったということです」
言葉と共に、彼女の力が抜けていくのがわかる。枕へシーツへ体ごと、命ごと沈んでいく。
「待ってくれ、ロンギー、悪かった、本当に悪かった」
「燃やしてください」
閉じていく瞼が、もう二度と開かないことを知っているみたいにゆっくりだった。
「わかった、わかったよ」
「燃やして……」
「ロンギー、待って、ロンギー……!」
彼女は最後まで懇願して再び眠りについた。
そして今度こそ枯れ果ててしまった。
打ちひしがれたデルフトは、しばらく俯いていた。
ややあってから、憎しみを込めてクライブを睨み付けてくる。
「……青の地に誰か侵入したな……」
やっぱり、デルフトの罠だったのか。クライブはぎくりとして肩を震わせる。
「えっ! えっとぉ」
「誰だ。まさか、カナレットじゃねえだろうな」
「あの、その」
「カナレットはどこだ! 侵入者の生命をロンギーに移転させる罠を掛けてたんだ! このままじゃ、カナレットが死ぬぞ!」
むっとした。
皆、カナレットばかりだ。だから思わず反論した。
「あの女がなんだって言うんですか! 死んだっていいじゃないですか! それだけのことをしたんですよ、あの女は!」
衝撃があった。
殴られたとわかったのは、尻餅をついてからだった。
走っていくデルフトの背を見送る。
「なんだよ……なんで、あの女を庇うんだよ……同情されるべきなのは俺だろ」
虚しくて俯いてしまった。




