最終話
「見ーつけた」
それから数日後、リフはクライブを発見した。森にあるガゼボにクライブは隠れていた。
「うわあ! なんだよ! 殺しに来たのか!?」
神に向かってこの態度。どうやら開き直ったらしい。
「別に僕は君なんか殺してもいいんだけど、カナレットが悲しむからやめておく。とにかく、君の激しい思い込みを解こうと思って」
片眉を釣り上げて不愉快そうな顔をする。僕のほうが不愉快だ、とは言わなかった。言ったら殺してしまいそうだった。
「激しい思い込みって、なんだよ」
「見せてあげるよ」
「なにを」
「カナレットがされてきたことを」
そう言い終えるが早いか、リフはクライブの頭に手を置いた。
◇◆◇◆◇◆
それはなんでもない朝食の風景に見えた。父と母に挟まれたクライブはまだ幼くて、目もくりくりと丸く、顎も頬もふんわりと柔らかい幼児だ。
これは過去だ。
ふたりは過去を見ている。第三者として、部屋の隅に立って。
彼らにクライブとリフは見えていないのか、他愛のない会話を楽しんでいる。
そこにカナレットはいない。
あれ?
なんでいないのだろう。
クライブは疑問に思う。
それから少しして、3人が朝食を終えてダイニングから出ると、入れ替わりにカナレットが入ってきた。野良着姿のカナレットの顔は強張っている。まるでなにかに追われているみたいに、怯えているみたいに緊張しながら、置かれたままの食器を素早く回収していく。
「役立たずのグズ! 早く食器を片付けな!」
「はい」
戻ってきた母に怒鳴られている。
クライブは目を疑った。
あの母が怒鳴った?
父の恐ろしい行為を知っていてもなにもしなかった、あいつが?
なんで?
食器を洗いながら、カナレットはちらりと横目で母を覗い見る。そしてそっと皿についていたソースを指で削ぎ、それを舐めた。
食事を取っていないのだ。
そんな。そうだっけ?
カナレットはいつも、食卓にいなかった?
覚えていなかった。覚えているのは、自分が辛かった記憶ばかりだ。
「次は洗濯だよ! お湯なんて使うんじゃないよ!」
「はい」
場面は代わり、カナレットはひとりで山盛りの洗濯をしている。お湯を使ったほうが汚れが落ちるのは常識なのに、寒い冬の庭でカナレットは冷水に素手を浸けて服を洗っている。
指先が真っ赤になって、何度もカナレットは手に息を吹き掛けた。
その背後に父が忍び寄っていた。
そして無防備なカナレットの背中に拳を叩き付けた。
うっ、と詰まったカナレットの声がして、カナレットは冷水の張った桶に顔面から崩れた。起き上がろうとして、けれど後頭部を父に押さえつけられる。
カナレットは暴れ回っている。
息ができない、息ができない!
「お前、カナレットにまでこんなことを!」
クライブは父に体当たりしようとした。けれどすり抜けてしまって、クライブは転んでしまう。振り返ると、まだカナレットへの暴力を辞めようとしていない。カナレットの四肢が脱力しかけたところで、顔を水面から引き上げてやる。咳き込んだカナレットは、ひーひーと喉を鳴らしていた。その必死に息をしようとする顔といったら。クライブは目を背けた。
「サボるな! 早くしろ!」
「は、はい……!」
それからいくつも場面が変わった。
料理を作るカナレットの背中を鍋で殴り付けたり、脚に熱した油を垂らしてみたり、まな板にカナレットの手を置いて切断しようとする素振りまで見せて、骨の髄までカナレットを従わせていた。そして食事を与えもしない。
それなのに、カナレットはクライブに果物を分けていた。幼い自分はたっぷりと食事を取っておきながら、カナレットからの施しに甘んじている。
クライブは目を覆った。
「もう、いい」
カナレットへの暴力は続いていく。幼稚舎へ向かうクライブを見送ったあとで、カナレットは奴隷のような時間を送っていた。がりがりに痩せたカナレットの姿を、クライブはほとんど覚えていなかった。
「もう、いい。もうやめてくれ……!」
見ていられない。健気に愛されようと奮闘するカナレットが哀れに過ぎて直視できない。
そして、とうとうあの日がきた。
これまで執拗に腹や背中を狙っていたくせに、その日の父はカナレットの顔を殴った。ぱんっと弾けた鼻血が迸る。
「お前がクライブを唆したんだろう!?」
カナレットは否定している。なんのことか、さっぱりわかっていないみたいだ。
そうだ、あれだけ働かされて、性なんてものも知る由もないカナレットには薄汚れた父の考えなどわかるはずもなかった。実の父がそんなことをするだなんて考えに至るはずがなかった。
カナレットが押し倒される。
なにをするのだ、実の息子だけでは飽き足らず、実の娘までも犯すのかと思っている自分も、既に汚染されているに違いなかった。
だが父はクライブの予想に反してカナレットの細首を締め上げ始めた。
本気だ。本気で殺すつもりだ。
早く、早くなんとか!
「カナレット、頑張れ!」
殺されてやるな。そんな奴に殺されてやるな。
クライブは自然と叫んでいた。
早くしろ、早く動け!
息を求めて、かっと喉の奥が拡がるカナレット。
ああ、もう駄目だというとき、カナレットが父の指を噛み、拘束から逃れた。
「よし!」
はっと思い出す。
そういえば、あの日、父は手に包帯を巻いていた気がする。
クライブはだんだんと捻じ曲げられた記憶が元に戻っていくのを感じていた。
尻を引きずり、後ずさりするカナレット。
むっくりと起き上がる父。
早く、早く!
次に捕まったら殺られるぞ。
「なにしてんだ、姉ちゃん! 早く逃げろよ!!」
はっとした。
俺は今、なんて言った?
逃げたことを恨んでいたくせに、逃げろだって……?
目の前でカナレットが窓を開ける。カーテンが神の手のようにカナレットを外へ招いて、カナレットは逃げていく。
そこで回想が終わって、元の森の世界に戻っていた。
「わかったかい? あのときカナレットは、ああするしかなかったんだよ。そうでなければ、君を助けるよりも前に、殺されていた」
カナレットは本当に、クライブが愛されていると信じていた。だから助けに来なかった。見捨てたのではなく、愛されている家族に囲まれているほうがいいだろうと、弟の幸せを考えたがゆえの絶縁だった。
カナレットはなにも知らなかった。
そしてクライブも、やはりなにも知らなかった。
クライブは嗚咽も我慢せずに泣いた。
なんてことだ。
あの家はカナレットにとっても地獄だった。
それなのに俺は自分のことばかり。
「君には謝らなくてはならない。僕達の調整が間に合わなかった。だから悲劇の中で生きてしまった。申し訳なかった。けれど、どうかカナレットを責めるのはもう辞めてほしい。許してくれとは言わない。ただ、こういう事実もあったのだと、わかって欲しい」
クライブは膝から崩れ落ちた。
自分のことばかり考えていたのは、クライブ自身もだった。
それなのに息も絶え絶えのカナレットを放置した。
「俺は、なんてことを……! 姉ちゃんは、姉ちゃんは死んだんですか!」
「大丈夫、生きているよ。ただ、デルフトはカナレットの代わりに死んだ」
「そんな……」
罪深いのは俺のほうじゃないか!
クライブは顔を手で覆って、自分のしたことの重大さに耐えきれずに叫んだ。悲鳴とともに時間が巻き戻ってくれればいいのに、そんなことは起こり得ない。
「カナレットはデルフトの生命を引き継いで青の神になった。そこでひとつ、頼みがある」
「……頼み?」
「僕は残念ながら、あと80年ほどで死ぬ。そのあと、カナレットは数百年、生き続けなければならない。ユトリロもダイクもバジールも、やはりカナレットより先に死んでしまうだろう。でも君はまだこの住人になって数年だ。まだまだ生き続ける。
だから、僕が死んだあと、妻を頼む。
約束してくれるかい?」
クライブは涙を拭いながら言った。
失った姉弟の時間を取り戻すのだ。あんな奴らに、こんな神の気まぐれに負けたりせずに。
「もちろんです、約束します」
「よかった。よろしく頼むよ。さあて、僕も長生きしないとなあ」
リフは笑っていたが、どことなく寂しそうな顔だった。
◇◆◇◆◇◆
「クライブ!」
リフとクライブがいるところへ、カナレットと3人の男がやってきた。
そのうちのひとりは集会にも来ていた男で、クライブは思わず身構える。自分の感覚が間違っていなければ、この執事らしい男はクライブへの攻撃を躊躇しない。その証拠に、瞳はクライブを見据えていて、隙がない。
カナレットは駆け寄ってきて、クライブに抱き付いた。クライブも反射的に抱き留める。
「よかった、見付かったのね。どこに行ったか、心配してたんだから!」
「ね、姉ちゃん……よくここがわかったね」
生きていてよかったと、素直に言えないのは思春期たるゆえんか。それとも、長い間、疎遠にしてきた仲だからか。
けれど、抱き締めたカナレットは記憶の中の体よりも小さく、そして柔らかかった。
「バジールさんが、この時間までリフが帰ってこないのは、きっとクライブを見付けたからだと言ってくださったの! さすがバジールさんでしょ」
「光栄です」
この男は見た目と同じく堅苦しそうだなと思いつつ、カナレットが未だに自分を探し続けてくれていたことに喜んでしまう。
これが甘えというものか。
どんなにひどい態度を取ってもカナレットなら無償の愛をくれるだろうという信頼か。クライブは照れながらも、しかし、その瞳の色の違いがデルフトの死の証拠でもあって、胸が痛んだ。
「姉ちゃん……ごめん。俺のせいで……」
「いいの、やめて! もうすべて終わったことなんだから。それに謝らなくちゃいけないのは私のほう。クライブがなにをされているのかなんて、なにも考えなかった……本当にごめんなさい」
「いいんだよ。俺も助けてって言わなかったし、姉ちゃんがどういう生活をしてたのかも、やっぱり知らなかった。だから、ごめん!」
頭を下げると、カナレットも「私こそ」と同じように頭を下げた。
最初からこうしていればよかった。
自分はこうなんだと言って、カナレットはどうなんだと聞いていれば、こんなふうに絡まらなかった。
そこへ、パンッとひとつ拍手をしたのは赤毛の男だった。
「よし! じゃあ、これでいざこざはなしってことで!」
「フルコースで食事を楽しもーー!!」
これは参加しておいたほうがいいだろう。クライブは名乗りをあげた。
「俺もバーレン様のところで鍛えられたので手伝います」
「あ、ほんと? じゃあ皆で作ろー!」
赤毛の男が人懐こく笑う。彼はあまり人見知りをしない質のようだ。
「楽しそう! 早く行きましょ──リフ?」
皆で黒と青の地に戻ろうとしているのに、一歩も動かないリフにカナレットが気が付いた。足を止めて、声を掛けてみても動こうとはせず、ただその場で冷笑を浮かべたままだ。
「先に言っててくれる? 僕はやり残した仕事を片付けてくるよ」
「そう? じゃあ、バジールさんにリフの好きなものを聞いて作っておきますね」
「うん、ありがとうカナレット。大好きだよ」
思わず口笛を吹こうかと思った。カナレットは顔を真っ赤にして、こっくりと頷いている。
「うわー、姉ちゃん恥ずかしそー」
「うるさいな!」
茶化すと、ぱしん、と肩を叩いてくれた。この無遠慮な感じが懐かしい。
「……いってらっしゃいませ、リフ神様」
意味深なバジールの視線を受け止めて、リフは手を振った。
◇◆◇◆◇◆
そこはとある戸建ての寝室だった。使い古されたベッドの上には裸の男と女が眠っている。粘っこい空気と匂いが充満していて、反吐が出そうになる。
リフは女の枕元へと降り立った。
こういうとき、人間の本能は馬鹿にできない。
自分に対する殺意に気が付くのか、女がすぐに目を覚ました。
──と同時に、リフは黒革の手袋を嵌めた右手で口を塞ぐ。
人差し指を唇の前に立てて、しーっ、と静寂を促した。
「君がカナレットとクライブの母だね? 再婚したんだ、おめでとう」
女の目が見開かれる。
んー、んー、と呻いて暴れるも、情事のあとで男は熟睡しているらしかった。
リフは微笑んだ。
その口は耳まで裂けていた。鱗がぴしぴしと頬に浮かび上がるのを感じる。
「余計なことしてくれたよねぇ? 僕が何百年も花嫁を我慢したっていうのにさぁ。君みたいなゴミクズが弟を殺してくれやがるから、カナレットと一緒に死ねなくなっちゃったんだよねぇ。どうしてくれんのかなぁ?」
この女が弟を殺しさえしなければ、自分はカナレットと共に寿命を終え、人間らしく生き抜けたというのに。そのためだけに孤独に耐えたというのに。
夢を蹴散らされた恨みは何百年分も溜まっていた。
みしみしと女の頬骨が窪んでいく。眼球の毛細血管という毛細血管がすべて千切れ、白目が赤く染まった。赤に染まる黒の瞳はなかなかどうして毒々しい。
リフはくつくつと喉を鳴らして笑った。
心から愉快だった。
「僕がなぜリフ神になったか、教えてあげようか」
女の目がガタガタと小刻みに揺れる。その耳に口を近付けて、囁いた。
「人間のときに、殺人鬼だったからだよ」
人殺しが楽しくて楽しくて仕方なかったあの頃。ふとしたミスで殺されて、なぜかあの世界に堕とされて、罰だとして黒の地の神を任された。その挙げ句、好物だった理不尽を忌み嫌う呪いを掛けられた。
だから理不尽を喰らわずにはいられない。
理不尽こそ見ていて楽しいものはないというのに。
やっと、カナレットという癒やしを見付けたはずだったのに。
生きているという証を、求められているという証を、カナレットが与えてくれるはずだったのに。
この女のせいで、カナレットを孤独にしてしまう羽目になった。
「ああ、口惜しい。口惜しい。何回殺しても、殺し足りないくらいだ。どうかあの世界に来てくれるなよ。80年、いたぶりつづけてやるからな」
笑顔の仮面が剥がれると、そこにあったのは紛れもなく悪魔の素顔だった。
ああ、カナレット。
また僕を抱き締めて眠っておくれ。僕がいないと駄目だとでも伝えるみたいに力強く。骨を折ってくれても構わない。体中に、君の歯型やキスの痕を残してくれて構わない。
僕を求めて。
僕なしでは生きていけないと、どうか君の中を僕でいっぱいにして。
そして僕が死んだら、一生、泣きじゃくってくれ。
こんな重い愛が僕の中にあると、君は気付いているだろうか。
構わない。
80年、たっぷりとわからせてあげる。
「さようなら」
掌の中で、女の顔をぐしゃりと潰す。眼球がぽろりと床を転がった。
仕事を終えたリフは立ち上がって、首をこきこきと鳴らす。女の死体を見下ろすその瞳は冷酷そのものだった。
いけない、いけない。こんな顔ではカナレットを怖がらせてしまう。
残酷さと重すぎる愛を隠すために笑顔を貼り付けて、リフは歩き出した。
待っててね、カナレット。
すぐに帰るよ。
愛してあげなくちゃ、理不尽だものね?
了




