第18話
「それでお前はカナレットを憎んでいるわけか」
クライブの新しい雇い主デルフトは、青の地に戻るや庭先に置いてあるソファで対面に座ることを要求し、カナレットとの過去を根掘り葉掘り聞いてきた。
否定するか。
同情して、同調するか。
どちらだろうかと考えていると、思いの外、デルフトはなんの反応も示さなかった。
大して面白くもない一冊の本を読み終えた瞬間のように、ふうん、そんなものか、とばかりの表情で、なにも写っていない白の空を見上げている。
説教の言葉でも考えているのだろうかと思っていると、デルフトはいきなり立ち上がって伸びをした。
「よし、お前の仕事を教えてやる」
「え、それだけ?」
「なにが?」
「いや、今の話を聞いて、それだけなのかなって……」
「お前、自分だけが悲劇の主人公だとでも思ってんじゃねえか? お前、カナレットがなにをされてきたのかは考えたことないのか?」
カナレットが?
なんの話だ。
訝しんでいると、デルフトは馬鹿にしたみたいに鼻で笑った。
「幼稚だな。とにかく、来い。お前の仕事はたったひとつだ」
そう言って、青の城へと入っていく。後を追った。
まだ白色の服を着付けていたクライブは、青の世界では風に押されてゆるやかに動く雲のようだった。
角を曲がり、階段をいくつか登る。そうして辿り着いたのは、冷たそうな印象を抱かせる真っ青な扉の前だった。
その扉を押し開けると、今度はむっとした熱気に包まれた。
そこは青い薔薇で満たされていた。
中央にあるベッドの周りを埋め尽くす薔薇は青空や海原を思い出させる。
そこに浮かぶベッドに、ひとりの女性が眠っていた。
真っ白な髪に、痩せた体。かなりの高齢女性だ。
「俺の妻だ」
「えっ」
どちらかというと、母かと思った。横目で見ると、デルフトは確かに愛情を持って女性を見下ろしていた。
「……俺は奥様のお世話を?」
「そうだ」
「……畏まりました」
挨拶をしようとベッドの傍で膝をつく。忠誠の誓いをしようと枯れ枝のような腕を手に取った。
ぎょっとした。
死んでいる
手に取った腕に体温はなく、脈もなく、生命の息吹がひとつもない。驚いたクライブが振り返ると、デルフトは冷たい目で見返してきた。
「そうとも、もう彼女は死んでいる。百年も前に。子も宿らなかった」
「……他に住人は」
「いない。必要ないから。俺には、彼女だけで充分だった。他には、なにもいらなかった」
「俺は、なにをすれば……?」
「彼女には防腐剤を毎日塗布する。それをやってくれ。あと、5日に一度は花を処分してくれればいい。俺が5日に一度、新しいものを摘んでくるから」
「わかりました」
そうして、去ろうとするデルフトにどうしても訊ねたくなって呼び止めた。
「デルフト様」
「なんだ」
「どうして、こんなことを?」
問うと、デルフトの眉が歪んだ。悲しいというような、不愉快というような、そんな表情だった。
「それは彼女の死体を未だに保存していることへの疑問か? それともお前を拾ったことか。それともお前に彼女の世話を任せることか。どれだ」
「……全部」
「死体の保管は……確かに幸せだったころを忘れたくないからだ。そうでないと、ひとりになったときに忘れて、不幸を感じてしまう。俺は不幸だ、なんて不幸だと嘆き苦しむ。
俺はそうじゃない。幸せだった。確かに、幸せだった。だから思い出を取ってある。それだけのことだ。
お前に任せるのは、そろそろ潮時だと思い始めたからだ。そしてお前を助けたのは──
彼女が死んで以来、初めて俺に触れたのが
お前の姉だったからだ」
それがなんだというのだ。
わからなかったけれど、デルフトはそれ以上は語らずに部屋を出てしまった。
部屋に取り残されたクライブは、彼女を見つめる。
きっと寿命をまっとうしたに違いなかった。
人間と神では寿命が違う。
クライブのように死んでからここにきた人間は神と同じ寿命になるけれど、生きたままここにきた人間は、人間そのものの寿命で老いて死んでいく。
幸せに暮らして、亡くなった。
その幸せを捨てられず、まだここで眠っている。
「初めまして。これからお世話をさせていただきます、クライブと申します。どうぞ、よろしくお願いします」
言うと、ほんの僅かに微笑まれた気がした。そして同時に
もう、いいの
逝かせてちょうだい
そう囁かれた気もした。
クライブは自分以上に不幸な人なんていないと思っていた。だが、デルフトも充分に孤独な人だった。
なんだか、お前は間違っているとでも言われたみたいだ。
これまでのどんな同情や説教よりも、ずしんと響いた。
◇◆◇◆◇◆
「クライブ」
自分の声で目が覚めた。
ああ、悪夢を見ていた気がする。とんでもない過ちを犯した悪夢を。
なぜ私はクライブを呼んだのかしら。
「落ち着きましたか」
ユトリロが顔を覗き込んできて、察する。
「夢じゃないのね」
クライブと出逢った事実は、クライブが過ごしてきた地獄は本物だった。カナレットは両手で顔を覆って泣いた。
「カナレット様、泣かないでください。今、バジールを呼んできますから」
いいのだ、私など医者に診てもらう価値などない。そう言うのも間に合わず、ユトリロは走って行ってしまった。
入ってきたバジールに診察されそうになるが、カナレットはその手を拒否した。
「やめてください」
「まだ顔色がよくありません」
「いいんです、放っておいてください」
「それは出来ません」
「なぜ? どうしてです? クライブのことは放っておいたでしょう? リフの仕事は理不尽をなくすことではないんですか、なのになぜクライブは助けてくれなか──」
これは八つ当たりだ。
自分があの子を手放したから、助けなかったから、怒りの矛先を変えてしまおうとしている。
「ごめんなさ──」
「いいんです、大丈夫です。カナレット様、ご自分を責めないでください。あなたも、ひどい仕打ちをされていた、だから逃げた、それがなんの罪になるというのですか」
「だって、弟を残して」
「あなたは助けてくれと言われたのですか」
額に触れるバジールの手が冷たかった。頸動脈に触れる指が冷たい。
「こんなことをされているのだ、助けて欲しいと、一言でも言われましたか」
言われていない。
「では逆に、助けてくれと言われていたなら、あなたはその手を振り払って逃げましたか」
そんなこと、するはずがなかった。自分はなんとしてでもクライブと共にあの家から逃げ出しただろう。そのあとの生活がいくら苦しくたって、絶対に姉弟で手を取り合って逃げたはずだ。
ランプを投げて、椅子で頭を殴り付けて、その結果、たとえ親を殺したとしても。
「カナレット様は気付かなかっただけです」
「気付くべきでした」
「どうやって?」
「……え?」
「どうやって気が付くと言うのです。働かされて働かされて、疲れてしまって、なんの音も聞こえずに眠ってしまうほどのあなたに、どうやって気付けと言うのですか。
それに、あなただって子どもだったのではないですか。
今でこそ16歳のあなたですが、その当時はいったい、おいくつだったのです? そんな子どもに、なにができるというのですか」
でも、だって、私があの子をひとりにしたのは事実なのだ。
冷たいバジールの手が離れていく。
「リフ神様にすべて言うのです」
「……なにを? 私はあの人にすべて言いました」
「とにかく、すべてです」
そうして立ち上がると、そのすぐ後ろにリフがいるのに気が付いた。口論した事実を思い出し、気まずさを覚える。
部屋にふたりきりになった。




