第17話
「待って、ねえ、待って。クライブのところに行かせて」
リフが引くカナレットの腕は黒の地に戻ってからもずっと抵抗が続いた。バジールがカナレットの腰や肩を制しながら、なんとか歩を進めている状態だ。浮いたほうが早いだろうかと思いつつ、今のカナレットでは落下が恐ろしくてできないと判断した。
首だけでカナレットを振り返る。
その顔は真っ青どころか真っ白だった。今にも卒倒しそうだ。
「今は少し落ち着こう。ひどい顔色だから。バジール、ダイクにハーブティーを持ってくるように伝えて」
「畏まりました」
バジールが去っていく。それも気付かないのか、カナレットはずっとひとりでバジールに向かってぶつぶつと呟いていた。
「い、いえ、大丈夫です。ダイクとユトリロには一緒にいてもらってください。お酒を飲んでしまうかもしれないから。お酒を」
「大丈夫だよ。ユトリロにはすぐにカナレットの傍にいるように言うから。ユトリロがいたほうが気が休まるでしょ? カナレットは僕よりも、ユトリロといるほうが表情が柔らかだ」
自分で言っておきながら、悲しくなる。カナレットの癒やしになる役目は、自分が請け負いたかった。
「……あ、そうか……私の傍に……そうですよね、執事だから……そう……執事はそうあるべき、ですよね」
やはりまだ混乱しているらしい。
白んでいた顔が途端に、かっと赤くなった。そして泉のように涙を流し始める。
「姉だから、傍にいるべきでしたよね、姉なのに、姉なのに」
「そう自分を追い込まないで、カナレット。僕は君に謝らなくちゃいけない。いや、僕達は君達に、謝らなくてはいけない。調整が間に合わなかった。そのせいで、ふたりを不幸にさせてしまった」
正直に言えば、調整が間に合わないことは、ままあった。これは後日で構わないだろうと後回しにした事案が大きくなってしまって、さらに被害を生むことは多々ある。
しかも神はその多くを気に留めない。
あ、間に合わなかったか。仕方ない。幸せを多めに恵んでおくよ。え、死んじゃったの? なら、とりあえずこの世界で働くチャンスを与えてやるか。
その程度。
誰がその人を森まで迎えに行くかは神の気まぐれで、誰も迎えにいかないとわかると、白のバーレンが慈愛の心で拾ってくれると知っていたから、自分達の失敗を謝るために世界に招待しておきながら、ほとんど放置されているのが現状だった。
きっとカナレットの弟のクライブはそのひとりだった。
誰を助けるのかは神の気まぐれ。
誰を助けられないかも、やはり神の気まぐれ。
神に弄ばれている。
そう言われても、ぐうの音も出ない。
まさしく、真実だ。
全員を救えるはずがないのだから。
しかしそれは言い訳でしかない。神達にとっては取るに足らないひとりでも、彼らにとってはたった一度の人生だ。軽んじてはいけないのに、つい慣れて忘れがちになる。
「いえ、リフが悪いわけではありません。姉の私がクライブの傍に──いえクライブを助けてやるべきだった」
部屋に着くと、既にユトリロ達がいて、用意したハーブティーがあった。
カナレットをソファに座らせ、ティーカップを握らせるも、一口も飲んでくれない。
かたかたと肩を震わせて、琥珀色の液面を見つめている。
いや、そこに写った自分を見ているのだった。
「バジールさん……」
「はい」
「男性が男性と性行為をするのは、どう、するのでしょうか」
普段のバジールであれば淀みなく応えてやっただろう。けれど、さすがにリフの顔色を窺ってきた。リフは瞳で否定した。
言うな。
言わなくても、カナレットはわかっている。
「……その場合、怪我はしないのでしょうか、苦しくはないのですか、痛みはないのですか、血は出ないのでしょうか、そのあとの健康状態に、なにか支障は」
振り仰いだカナレットとバジールの視線がかち合う。バジールは無表情のつもりだったかもしれないけれど、なにかを耐えるようなその目顔がすっかり答えを物語ってしまっていた。
しばらくふたりは見つめ合って、唐突に視線が逸れた。
カナレットが吐きそうになったのだ。バジールが素早くガーグルベースンを差し出すと、待ちかねたとばかりの勢いで嘔吐した。
「わ、私……! なんて、ことを……!」
「カナレット、落ち着いて」
「クライブのところへ行かせてください、謝らないと」
「わかったよ。でも、あとで行こう。その体で行くのはよくない」
「いいんです、そんなこと。今はとにかくクライブのところへ行かないと」
「カナレット様、落ち着いて」
「どうか落ち着いてください」
「カナレット様、俺がずっとついてますから、ここにいましょうよ」
「だめなんです……! 早く行かないと!」
「いま行っても殺されてしまうよ」
「殺されたいんです!!」
リフは押し黙った。
どうしてそんなことを言うのだと、悲しくもなった。
「私は、なにも見えていなかった……あの子が愛されていると盲信して、置き去りにして逃げてしまった……あの子も連れて行けばよかった……! どうして私は、私は! ッああああああああぁぁあああ!!」
リフは愕然とした。
理不尽を嫌うと言っていながら、自分はとっくに理不尽を生み出してしまっていた。彼女の取り乱した姿は、リフの罪そのものだった。髪を掻き毟り、嘔吐し、涙と鼻水と涎が一緒になって垂れて、それでも満たされないのは彼女が罪悪感で押し潰されそうになっているからだ。そしてその罪悪感を生み出したのは、やはり神であるリフのはずだった。
「カナレット様、お飲みください。楽になります」
「い、今はお茶なんて!」
「嘔吐したのですから、口を濯がないと」
「でも、でも」
「さあ」
そして半ば強引に嚥下させる。
こくりと喉が動いたのが見えた。
「私、どうして、あの子を……」
カナレットの目が虚ろになる。バジールはその目を隠すように大きな掌で覆った。
「目を閉じてください。数を逆から数えていただけますか。10から」
「数を、逆に……?」
「そうです。10から。10の次は?」
「9」
「続けてください」
「8、7……6…………」
それを最後にカナレットはぐったりと背凭れに体を預けて、眠りについてしまった。
「申し訳ありません、リフ神様。独断で睡眠薬を処方させていただきました」
「いい判断だった」
カナレットを抱き上げてベッドに寝かせる。眠る顔がまだ青白くて、リフはその場に崩れ落ちてしまいそうになった。
理不尽を繰り返したくなくて、神になったのではなかったか。
自分は無力だ。
◇◆◇◆◇◆
「お前がクライブを唆したんだろう!?」
クライブと久しく夜を明かした翌日の夜、カナレットは父から暴力を受けていた。いつもの排除しようとする暴力とは異なり、父から圧倒的な憤怒を発散させようとする明確な意思のある暴力は、いつも以上に力強かった。
なんのことだと父を見返すも、父はその視線すら気に食わないらしく、不愉快そうに表情を歪めた。
「なんだ、その目は」
「だ、だって……なんのことだか、さっぱり──」
「昨夜、クライブを連れ出しただろう! この不良娘! 出来損ない!」
そうか。父は姉が弟を誑かして、夜遊びにでも連れて行ったと思っているのだな。
カナレットは自信を持って否定した。
「そんなこと、してない! 仕事が終わったら私はいつも疲れ果てていて、すぐに寝るもの!」
「いや、姉と弟であろうと男と女だ。そんなことが起きても不思議ではない」
なにを言っているのだ。
カナレットはわからなかったが、とにかく夜遊びなんてしていないことには絶対の自信を持っていたし、そこだけは否定したかった。
それにクライブは自分を好いてくれているというのがわかって、余計に強さを取り戻せていた。
眠れないからと姉の部屋を訪れてくれる弟の可愛さに、自分の存在意義を見出して、強くなれた。
それが父への反抗ができる理由にもなっていた。
しかし、父は血流が沸騰したように激怒した。
カナレットを押し倒した。
そして、カナレットの細い首をその太い両手で締め上げ始めたのである。
急激に呼吸を細められたカナレットはパニックになった。
息ができない!
なんとか反撃する方法を探さなくてはならないのに、頭も体も、とにかく呼吸を欲している。まともに動けない。
仕事で疲れ果てている夜ということもあって、腕に力さえ入らなかった。
父の指がちょうどカナレットの口元に移動したのは、奇跡だった。
思い切りその指を噛んでやると、父は、もんどりうった。
蘇った呼吸を繰り返す。尻を引きずりながら父から距離を取った。
もう無理だ。
もう限界だ。
もう耐えられない。
カナレットは窓を開け放ってそこから飛び降りた。
着の身着のままで、なにも持たずに、裸足であるのも構わずに月夜に駆け出して、二度と振り返らなかった。
そして二度と、戻らなかった。




