第16話
少々残虐的な描写があります。
「なぜだ! なぜお前がここにいる!」
突然の男の叫びに、神達は顔を見合わせた。この世界の住人達が互いに元から知り合い同士であるのは、奇跡に近い。
カナレットに向かって、聞くに耐えない野蛮な言葉を浴びせるクライブ。
(よくもまあ、僕のカナレットにそんなことを)
苛立ったリフは立ち上がった。
そしてリフとほとんど同時にカナレットの前に立ち塞がってやったバジールは、やはりさすがの観察力といえた。主をよく見ていなければ、合わせられないタイミングのよさだった。
「僕の妻にそのような言動は慎んでもらいたい」
冷静に諭したが、クライブと呼ばれた男はさらに激昂した。
「なにを言う! その女が俺になにをしたのか知ってるのか!? そいつは俺を捨てて逃げたんだぞ! 実の姉のくせに、俺を地獄に置き去りにして自分だけ逃げた張本人だ! 姉のくせに! 姉のくせに!」
攻撃的だ。
それを見たバジールが袖口に隠している短剣を引き出そうとする仕草をした。しかし、リフがそれを視線だけで制するとバジールは察した。彼がいると、本当に助かる。
背後でカナレットが立ち上がる気配があった。バジールとリフの間からクライブに歩み寄ろうとする。しかしふたりは背を向けたまま、騎士が姫をそうするように距離を詰めて道を塞いだ。近付けるのは得策ではない。
近付けないとわかると、カナレットはその場で口を開いた。ようやくの言葉だったのに、声は震えて、それでいてとても小さかった。
「クライブ……あなた、どうしてここに──」
「殺されたからだ!」
カナレットは愕然とする。本当にわけがわからないといった顔だった。
「……どういうこと……なにを言ってるの、だって現にあなたはここに生きて……。いえ、まず、どうして、だってあなた、あんなに両親に愛されていたじゃない」
服も毎日新しいものを。
美しい髪を毎朝梳かしてもらえて、微笑みかけられて、抱き締められて、どこに行くにも一緒で、愛していると言ってもらえて、あなたがいて幸せだと、生まれてきてくれてありがとうとそう言ってもらえて、大切にされて、どの瞬間も愛されていたじゃない。
その言葉を聞いたクライブは、左半分だけどろりと溶けてしまったように歪んだ表情をした。
「はあ? 俺が愛されてただと?」
「だ、だって、あんなに──」
「俺は息子として愛されてたわけじゃない!」
「……えっ」
リフは察した。
そうか。そういうことか。
クライブは顔の皮膚をすべて引き剥がされたみたいに目を剥いて、吐露した。
「俺があの男に毎夜、なにをされてたか、知ってるだろ!?」
神達は沈痛な面持ちをした。
バーレンは彼の素性を知っていたのだろう。そんな彼をこんな矢面に立たせていることが苦しくて仕方ないとばかりに、胸を抑えて瞑目している。
カナレットは何度も浅い呼吸を繰り返した。
随分と長い沈黙だった。横目で見える顔色が真っ青だ。
「し、知らなかった……そんな、ことが起きてたなんて」
クライブはさらに激憤した。
「知らなかった!? ああ、そりゃそうだろうよ、お前だけ逃げ出したんだから! ここで会えたのも神からの贈り物に違いない。今すぐ殺してや──」
「それ以上はいけないよ」
飛び掛からんとするクライブの顔面を掌で抑える。そのまま突き放すと、バランスを崩して尻餅をついた。
平穏なはずの世界に鈍い音が響いて、やがて再び静かになる。
クライブは俯いたままだ。
「……ならいいさ。追放してくれ。もう消えてなくなりたい」
短い導火線で爆発した怒りは消えるのも早かった。すべて諦念に達したみたいに萎れて、処遇を言い渡されるのを待っている。
判決に横槍を入れたのはカナレットだ。
「待って、ごめんなさいクライブ、私、自分のことだけを考えて逃げてしまった。ごめんなさい、本当にごめんなさい。ねえリフ、クライブを黒の地で雇えない? このまま消えてしまうなんて、私、耐えられな──」
「俺を黒の地に呼んだら1日と経たずに殺してやるからな」
リフは迷った。
カナレットの願いは叶えてやりたいが、カナレットの身の安全を考慮すると名案とは言えない。それにクライブのこの目は、本気だ。
本気で殺しにくる。
カナレットを睨むクライブと、カナレットに懇願されるリフ。主の指示を窺うバジール。
リフは唇を舐めた。熟考する癖だ。
そのときだった。
「じゃあ、俺が拾ってやるよ」
衆人の目が声の主に向けられる。
デルフトだった。
組んでいた長い脚を解いて立ち上がると、クライブよりも頭ひとつ分以上は背が高い。デルフトは初めて会ったときのように人を小馬鹿にした嘲笑を浮かべてクライブを見下した。
「俺が拾ってやる。バーレンも追放より他の地で生きてくれたほうが気が楽ってもんだろ?」
バーレンは尖った顎を引いた。
「その通りだ。リフ神の奥方には申し訳ないが、ぜひそうして欲しい」
デルフトも頷く。そして鼻を鳴らして笑った。
その相手は、リフだった。
「カナレットも、カナレットの弟も助けてやるよ。この俺が」
目を向いて笑うデルフトに対し、リフはずっと目を逸らさなかった。ふたりが敵対しているのは明らかだった。
「リフ神様。今はまずカナレット様を」
緊迫を破ったのはバジールだった。リフはなんとか憤怒を抑え込んだのか、ふう、と長い息を吐き出す。
「では、彼は追放を免れ、青の地の住人になるということでよろしいか」
リフが問うと、満場一致で可決した。
さすがに追放は本意ではなかったのか、クライブも静かに事の成り行きを見守っている。だが、同時に不安げな表情でもあった。バーレンという人格者から、この場で他の神に楯突くようなデルフトの下で働く未来を不安視しているのだろう。
リフは最後にもう一度デルフトを睨み付けてカナレットの手を引いた。
「帰るよ、カナレット」
「で、でもクライブが──」
「お前の口から俺の名など聞きたくない!」
「これ、クライブ!」
父のようにバーレンがクライブを叱り付ける。それを背中で聞きながら、3人は黒の地へと戻った。
◇◆◇◆◇◆
「ああクライブ……いい匂いだ……」
そうして、すー、はー、と吸ったり吐いたりしているのは父だ。
真夜中のベッドの上。
この男がクライブの股間に顔を埋めて、どれほどの時間が経っただろう。ズボンを膝まで降ろされ、下着1枚のみで守られた頼りない股間に男の熱い息が絶えず吹きかけられる。
(どうして俺がこんな目に)
クライブはいつも夜を呪ったし、いつも父を、母を呪ったし、果てには人間の性欲そのものを忌み嫌った。
父がなぜ自分をその対象として見るのかわからなかった。
この凶行に気付いているはずの母が止めてくれないのも、やはりわからなかった。
唯一癒やされたのは、姉のカナレットと遊んでいるときだけだった。
カナレットはおとなしいとは言えない性格で、クライブと一緒に駆け回ることが多かった。それでいて、よく厨房の仕事をさせられるからと、こっそり果物の欠片を盗み出してくれては、それらの大半をクライブに分けてくれた。
クライブは自分が汚物になってしまったと思っていた。
ほぼ毎夜、父に体をいじくりまわされて、嫌で嫌で堪らないのに、それなのに、不本意ながら果ててしまう自分は汚物以下のなにものでもない。
けれどカナレットは純白だった。
母の薄桃色の髪も、父の茶と黄色の間のような、紅葉しかけた葉のような髪も、なにも受け継がなかった漆黒の髪と瞳は、それでもいつも清廉潔白だった。
一緒にいると、自分も浄化されているような気になるのだ。白濁にも負けない黒さが羨ましかった。
「お姉ちゃん、怪我してるよ」
いつの夜だったか。
とうとう父の行為に耐えられず、父の来る前にあらかじめカナレットの部屋に向かったあの日だった。
遅い水浴びをしたカナレットの背中に黄色や青や赤や黒の痣を見つけて駆け寄ると、カナレットはそれを急いで隠してしまった。
「クライブ。どうしたの?」
「眠れなくて。一緒に寝たい。いいでしょ?」
「もちろん。さあ、おいで」
同じ抱く行為でも、カナレットのそれは白かった。自分から吐き出される濁った白とは違う、美しくて気高い白さだった。
カナレットに抱き締められながらベッドに横になる。
「ねぇ、どうして怪我をしてるの?」
「うーん……私がうまく仕事をできないからかな。失敗してしまうの」
「それで、どこかに体をぶつけてしまうの? 物や、壁に?」
問うと、カナレットは少し考えてから頷いた。
「そうだね。物だね。きっと、物なの」
そうか。
仕事って大変なんだなあ。
次の日の夜、クライブは乱暴に扱われた。カナレットの部屋で過ごし、おもちゃに出来なかった苛立ちが父にはあったのだろう。
いつもより雑に、いつもより強く、荒く、いつもより長く。
「もうやめて……!」
そう言って父を押し退けて見たベッドには血が広がっていた。鈍い痛みに気が付いて肛門に触れると、ぬるりと血が溢れた。
もう無理だ。
もう限界だ。
もう耐えられない。
「クライブ!」
これまで従順だったクライブはとうとう逃げ出してカナレットの部屋に向かった。
この扉を開ければカナレットがいる。
この血を洗い流して。この血に混じった白い欲を洗い流して。
そして俺を守って。
やってくれる。
カナレットならやってくれる。
あの鬼に向かって枕を投げてランプを投げて、椅子で頭を殴り付けて。そうとも、きっと守ってくれる。
きっと。
きっと。
「お姉ちゃん!」
そうして飛び込んだカナレットの部屋に、カナレットはいなかった。
開いた窓と風に膨らんだカーテンがそよいで、クライブを頼りなく歓迎する。
なぜ、いない?
いるよね。
まだお仕事中なんだよね。
庭かな。
厨房かな。
物置かな。
けれどそれらすべてを探してみてもカナレットはいなくて、背後からにじり寄る足音がどんどんと大きくなる。
嘘だ。そんなことない。カナレットならやってくれる。絶対にやってくれる。
守ってくれるよね?
お使いにでも行ったのかもしれない。明日なら戻ってくる。
明日の明日。
明日の明日の明日の明日。
きっと戻ってくるよね?
助けに来てくれるよね?
それから助けに来てくれないとわかったクライブが絶望と怒りと憎しみに犯されて気が付いた事実は、自分で自分を守ればいいという実にシンプルなものだった。幼かったから、誰かに助けてもらうのが当たり前すぎて、そんなことに思い至らなかったのである。
こうしてカナレットがいなくなった3年後。
ついにクライブは父を殺してしまい、父殺害に怒り狂った母に殺された。だが、神の調整が間に合わなかったのは明らかであったから、この世界の住人に招待されたのである。
それでもクライブは、自分を見捨てたカナレットを憎まなかった日はなかった。




