第13話
それは鴉のようにも見えたし、蝙蝠のようにも、蝶のようにも見えた。
けれど羽根に見えていたものが、降り立った人物の長いコートだったとわかると、男は安堵した。
なあんだ、ただの人か。
人──?
有り得ない。
ここは男の家の中。
窓は閉められ、ドアも閉められ、隙間風ひとつ吹き込んではこない、叫び声ひとつ漏れ聞こえもしない密室だ。
だから、人であったことのほうが異常なのだ。
しかし、紛れもなくその男達は室内に降り立ち、男をごみ屑に向けるようなその眼差しで見下してくる。
銀髪の男と、それに從う紫の髪の男。
「な、なんなんだ、お前達は」
男はベッドの上で体を起こした。これまで乱暴に扱ってきたせいで、やけに軋んで悲鳴を上げる。
心からの疑問を声に乗せると、紫の男がなにやら紙を懐から取り出して読み上げた。
「人身売買、婦女暴行、臓器売買。これらを組織ぐるみで行わせているのが、あなたですね?」
男は絶句した。
ば、ばかな。
部下にさえ自分の名も顔も見せていないのに。知られるはずがないのに。裁かれるはずがないのに。どんなに末端が捕まったところで、自分のところまでは決して追手が来ない手筈を整えていたのに。
銀髪は口を歪めて笑った。それなのに、蛇のような眼はぎらぎらしている。
「僕はねぇ、怒ってるんだよ。君みたいなクズがいるせいで、愛する妻と一緒にいられないんだからさぁ……! 嫌われたらどうしてくれるの、ねえ……!?」
は、はあ?
な、なんなんだ、なんなんだ、こいつらは。
銀髪の男がポケットから取り出した黒革の手袋を嵌める。
殺気を感じたのはそのときだ。
やられる!
男は咄嗟に枕の下に隠していたピストルを抜いて、銀髪目掛けて引き金を3回引いた。
2発は届かなかった。紫の髪の男が短剣で弾丸を真っ二つに割ってしまったからだ。
そして残るひとつは、銀髪の男が掌でぱしんと受け止めてしまった。拳に握られた弾丸を、わざとらしく指を開いて落としてみせる。ことり、とそのままの形の弾丸がひれ伏しているみたいに転がった。
「僕はねぇ、理不尽が嫌いなんだよ」
そう言って、黒革に覆われた手を伸ばしてきて、問答無用で男の額を鷲掴みにした。
強烈な痛みだった。
頭皮を削がれているわけでもなく、髪を毟り取られているわけでもないのに、白目を向いて、のたうち回りたくなる痛みが脳天に突き刺す。男は情けなく叫び、だが抵抗することもできなかった。
視界が暗転する。
そこには、男だった骨と皮が大きすぎる服と共に落ちているだけだった。
「あと何件?」
「8件でございます」
「急ごう」
「はい」
「それにしても、バジールが全弾を受け止められなかったのは珍しいね」
「……申し訳ございません。次は、必ず」
「いや、いいんだよ。2発を斬れるだけでも凄いのだから」
そうしてふたりはまた、影に溶け込むようにして消えた。
腐ってどす黒く変色した男の魂は天国にも地獄にも落ちずに、ただ無と化した。
◇◆◇◆◇◆
仕事は半分を片付けた。
さすが主ともいうべきか、集中すればこんなにも速度を上げられる。やはり3日もあれば終わりそうだった。
残りの書類の概要をまとめなければ。
カナレットの食事はダイクとユトリロがやっているだろうから、自分は主の分を用意すればいい。調理は既にダイクが済ませていたから、バジールは軽食を書斎に運んだだけだった。
主は書斎のソファで眠っていた。
軽食を取りに行っているほんの少しの時間で風呂に入ったらしく、さっぱりとしていた。着替えを風呂場に用意しておいてよかった。バジールは安堵して、ブランケットを主に掛けた。
自分用にと淹れてきた紅茶を一気に飲み干す。
主が休息から目覚める前に、概要のまとめを進めておきたい。
それから1時間ほどが経って、主がむっくりと体を起こした。バジールもすかさず立ち上がり、ホットタオルと温め直した軽食、飲み物を並べた。
「ありがとう、バジール。寝過ぎた?」
「いえ、たった1時間ほどです。また一覧を作成しておきますので、今夜はカナレット様とお休みになられてはいかがでしょうか」
「うん。途中まで一覧はできてる?」
「はい」
バジールは今しがたまとめたばかりの一覧を手渡した。主は眠そうな目を強引に開けながら、眺めている。
「うん。この中で粛清は2件かな。その2件の報告書をピックアップしといてくれる? 明日の朝一番で確認するから。バジールも、もういいから寝るんだよ。朝からなにも食べてないでしょ」
「承知しました。お心遣い、感謝します」
件の報告書を主のデスクに置いておく。主が書斎を出るのを確認すると、バジールはソファに深く沈んだ。
大丈夫。やれる。
自分なら、やれる。できるはず。起きろ。立ち上がれ。たった2日の徹夜くらい、どうということはない。明日が終われば寝ればいいのだから。
不思議と空腹を感じなかった。ただ体が重くて仕方がなかった。
立て。立て──!
「バジールさん」
その声に、はっとした。そう呼ぶのはこの世界でひとりしかいなかった。
目の前にカナレットがいる。しかもわざわざ床に膝を付いて、自分の顔を覗き込んでいるではないか。
気付かなかった。
なんて失態を晒してしまったのか。
「カナレット様! 申し訳ございません、大変、見苦しい姿を──」
「いえ、いいのです。ダイクから、バジールさんが自分の食事を持って行かなかったと聞いたものですから」
「……え?」
カナレットの手には持ち手付きのトレイがあった。その上にミルクティーとサラダ、スープが乗っている。
「いえ、私は先程……」
確かに軽食を持ってきたはず。
しかし果たしてそれが二人分だったのかは、定かではなかった。空腹でなかったから、厨房に置き忘れたのかもしれないと、そのとき初めて思った。
「ユトリロとダイクが言っていました。バジールさんは、頑張りすぎているとき、お食事を忘れるのだと。けれど自分達が持って行くと拒否されてしまうのだと。だから、私が運ばせていただきました」
「そ……! そんなことをカナレット様に……!」
あのふたり、なにを考えている!
激昂しようとしたのをカナレットが抑えた。
「やらせてくださいと、私が頼んだのです。ふたりは従ってくださっただけです。少しでも食べて、少しでもいいから眠ってください」
「……しかし、私には職務を滞りなく進める責任が……」
「食べて寝てくださらないなら、私もずっとここにいます」
そんなことをしたら、せっかくふたりの時間を過ごせると思ったのに、と主に怒られてしまう。バジールは飛び起きてサラダをスープで流し込み、ミルクティーを飲み干した。そのソーサーに、あのクッキーが乗っていた。美しい円形だった。
「それはユトリロが作ったのです。一番、綺麗にできたから、バジールさんにあげるのだと言って盛り付けていました」
だが、自分は昨日、そんなユトリロに暴言を吐いたのだ。手の震えを危惧して、ひどいことを。
そんな手で、これを作ったのか。
あんな言葉をぶつけた自分に、贈ってくれるのか。
罪悪感と、焦燥と、疲労も相まってバジールは泣き始めてしまった。
「以前の雇い主のときも、同じことをしてしまったのです。すべてひとりでやろうとして、仲間を信用できずに排除しようとしてしまった。だから、私が排除された。二度と、同じ過ちはしないと決めていたのに」
「もう、ユトリロ達と長い付き合いだそうですね。おふたりはバジールさんが優しいことをちゃんとご存知でしたよ」
「申し訳ございませんでした。カナレット様に、こんなことまで」
「いえ、いいんですよ。さ、眠ってください。横になって」
カナレットは軽くバジールの肩を押して、ソファへと横にさせた。そして柔らかなブランケットを顎の当たりまで引き上げてくれる。
「目が覚めたら、またいつものバジールさんですよ。優秀で、気が利いて、だれもが頼れるバジールさんです。今は少し疲れているだけです」
そんな言葉達が暗闇の中でふわふわと浮いていた。カナレットの声は心地よくて、青々しい緑の葉の先から滴る朝露のようにバジールの心に染み渡っていく。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
次第に音が聞こえなくなって、バジールは沼に沈んでいくような気がした。
「おやすみなさい」
そう言って、頭を撫でてくれた手は果たして夢の中だったのか。
バジールにはわからなかった。
けれど、もう一度、触れてほしいと強く思った。




