第12話
バジールは苛ついていた。というより、焦っていた。
主の公務は多岐に渡る。ほとんどが書類だが、定期的に人間の世界にも向かわなくてはならない。そうでなければ人間の世界は理不尽に塗れて治安は悪くなる一方なのだ。
いわば、主は人間世界全土の警察のようなものである。
ただし、救済はしない。なにも与えず、なにも諭さず、なにも許さず、奪う。
つまり、法で裁けない理不尽を喰らう。それは見るも悍しい魂の嚥下だ。
なのに、このところ書類も進まなければ人間の世界に行く機会もめっぽう減っている。カナレットとの時間を捻出するため、どうしても作業時間が減るのだ。本来ならば、人間の行った理不尽がすべて書面で報告され、どの行為に粛清が必要かを検討し、掃除に向かわなければならない。人間の理不尽な行動は溜まる一方だ。バジールが天誅に相応しそうなものを選出するが、それでも主はすべての報告書を読むことにこだわる。
報告を見ずに粛清不要と決断するのは、それこそ理不尽だという考えからだ。
それもこれもすべてカナレットのせいである。
いや、カナレットが来たことで主は生き生きとしているから一長一短では語れないのだが、どう考えても作業の滞留はカナレットの存在が大きな原因としか言えない。
どうすればいいだろう。
カナレットは今ごろユトリロとダイクと暇潰しをしているはずだった。自分は主の業務をスムーズに進めるサポートが重要な任務。このままではいけない。やや介入し過ぎな感も否めないが、ここは他に頼れる者もいないし、自分が行動しなければ。
書類を吟味している主に無言で退室し、カナレットの元へ向かう。
「よっしゃあ! 当たった!」
「カナレット様、上手ー!」
「次、俺ー!」
カナレットとユトリロとダイクはおもちゃの弓矢で遊んでいた。手作りの的を壁に立て掛けて、着矢するとぴこぴこと音の鳴る矢を楽しそうに放っている。
(ああ、リフ神様はお忙しいというのに)
「カナレット様」
「あ、はい」
呼ぶと、カナレットは素直に駆け寄ってきた。ちらりとユトリロ達に目配せをすると、空気を読んでふたりは辞去してくれる。そしてその雰囲気をカナレットも勘付いたらしかった。
「私、なにかしました?」
「いえ、そうではないのです。ただ、お願いがございまして」
「はい、なんでしょう」
「……お耳を」
「はい」
カナレットが耳を寄せてくるのに合わせ、腰を曲げる。そしてそっと耳打ちした。
「1週間、リフ神様に、業務に集中するようにお伝えしていただけませんか」
言うと、カナレットが目をぱちくりとする。不愉快と思われだろうか。フォローしなければ。
「実は業務が滞っているのです。ただ、1週間もあれば片付く量ですので、集中していっきにやっていただけないかと」
「なるほど。しかし、それを私が言ってなにか変わりますか」
なるほど。無自覚というわけか。
「もちろんです。お食事は各々で、さらに夜のお休みの時間をほんの少し遅く取っていただければ充分ですから」
元々、主は多忙ゆえに書斎で軽食を済ませるのが日常だった。毎食をダイニングで歓談しながらとなると、それだけで2時間近くの滞留が発生する。
「わかりました。言ってみます。今すぐに言ったほうが?」
書斎から自分がいなくなってすぐでは、あまりにも怪しいだろう。バジールはほんの一瞬考えて首を振った。
「いえ、今夜で構いません。ご尽力に感謝します」
「いえ、こちらこそ。あ、バジールさん」
「はい、なにか」
「バジールさん、顔が疲れてます。無理しないでください」
そう言って握らせてきたのは、小袋に入ったクッキーだった。紅茶の香りがする。
「……これは?」
「ダイクとユトリロと、私の3人で作ったものです。遊びの景品で、真ん中に当てたらおやつを貰えるというルールだったんです。私が勝ち取ったものですから、お裾分けです。どうぞ、召し上がってください」
なんだか罪悪感を覚えた。
バジールはカナレットを利用しようとしている。
ここにいて欲しいと願ったのも、主の生気が爛々と輝き出したからだし、彼女の機嫌を取るのも主のためだし、彼女に主を突き放すように言うのも、やはり主の業務のためだった。どれも、決して彼女のためではない。
それなのにカナレットは、自分の身を案じている。
掌に乗せられた3枚のクッキーが、やけに重い。
「バジールさん?」
「あ、いえ、失礼を致しました。ありがたく、いただきます。では」
「はい」
そうして廊下に出たバジールは、その場で立ち尽くしたままクッキーを眺めた。ダイクひとりならば、美しい円形や四角になっていたのだろうけれど料理に不慣れなユトリロも混ざったからか、なんだか歪んだ形をしている。もしかすれば、カナレットも料理は不得手なのかも。そのところ、どうなのだろう。気になりつつ、袋を開けて1枚を口に含んだ。甘いけれど、ほろ苦い。
自分のしていることは間違っていない。
順調に業務を進めるためにも必要なことだ。これが正しいのだ。これが自分の役目なのだ。
間違っていない。絶対に間違っていない。
そう言い聞かせてすべてのクッキーを口に押し込んだのに、掌に感じた重みはいつまでも消えなかった。
◇◆◇◆◇◆
「えっ」
その日の夜、ベッドに寝転んでからバジールの願い通りの発言をすると、リフは体を起こしてカナレットを覗き込んできた。
「どういうこと?」
「リフが私のために多くの時間を割いてくれているのを感じるのです。こんなに突然、生活の仕方を変えてしまったら仕事に差し支えがあるのでは?」
「い、いや、そんなことは」
明言しないあたり、やはり仕事の滞りがあるのは痛感しているのだろう。バジールが自分を利用しようとするのもわかる。
「ですので1週間くらい、以前のやり方に戻してみてはいかがでしょう? それから、これまで通りの仕事量をどうやってこなしていけるかを模索すればいいのです」
「僕と会わないってこと?」
「いえ、控えるという意味です。このままでは、私はリフの重荷になっていると負い目を感じずにはいられません。ですから、とりあえず仕事を片付けて、ふたりで過ごしながらも仕事量を減らさない方法を考えましょう」
「でも、僕が呼んだのに、僕の仕事のためにカナレットをひとりにするのは理不尽だよ」
「そんなことはありません。それが永遠と続くわけではないですし。リフのお仕事は代わりが利きませんから、滞ってしまえばそれこそ理不尽なことが増えるのでは?」
といいつつ、リフの仕事内容など皆目見当もつかないのだが。
(はて、この世界でなんの仕事があるのだろう)
「カナレットは僕がいなくてもいいの?」
「いえ、そういうことではなくて……いきなり生活をがらりと変えてしまうと反動が大きいでしょうから、1度、軌道修正したほうが私にとっても気楽だという意味です」
おそらく、バジールから頼まれたとは言わないほうがいいのだろう。思い付く限りの言い逃れを並べると、リフは納得いかなそうな顔で再びカナレットを抱き締めた。
「仕事が片付けばいいの?」
「……いや、無理しない程度に時間を掛けて──」
「仕事を終わらせてくればいいんでしょ? わかった。そうする。頑張る。今日はもう寝よう。明日から仕事だけする」
「ちゃんと食べたり寝てくださいね?」
そう牽制をしたが、果たしてどうなることやら。
まあ、バジールが傍にいるから無理はさせまい。
カナレットはそう信じて目を閉じた。
◇◆◇◆◇◆
バジールの勤務時間は深夜にまで及んだ。明日からはきっと主が全力を尽くすはず。1週間といったものの、主は躍起になって3日で終わらせようとするはずだった。
ならば報告書のタイトル、もしくは概要だけでも一覧にしておけば、ぐっと効率的だ。
「これは、詐欺ですか」
人間世界では理不尽が蔓延している。すべてに鉄槌を下していたら、あっという間に人間が滅んでしまうから、その匙加減が難しい。
羽根ペンを走らせる。備考、金額も僅少、粛清の必要なし。
ちらりと瞳を向けた先にはまだ書類の山が3つは残っていた。せめて1つは潰してしまいたい。
「……これは殺人。粛清の要検討ですね」
そこへノックがあった。ゆるゆると開かれたドアからユトリロとダイクが覗き込んでくる。
この忙しいときに。トラブルだろうか。
「なにかありましたか」
「いや、なにもないんだけど……」
「俺とユトリロも手伝おうか、なんて……」
「いえ、結構です。ひとりで出来ます」
「そ、そう? でも、すごく大変そうだからって、カナレット様が心配してて……」
「ホットミルクティーを持ってきたんだよ。紅茶、好きでしょ? ユトリロが淹れたからきっと美味しいよ」
そして手にティーカップを置いた盆を持って歩いてくる。
ふと、ダイニングで水を零した一件を思い出した。
「やめろ!」
気付けば怒鳴っていた。そして止まらなくなってしまった。
ユトリロがびくついて、盆の上のカップがかちゃりと音を立てる。紅茶の香りが強くなったのは、少なくとも盆の上に溢れたからに違いなかった。
「零して書類が汚れたらどうするつもりなのですか! むしろ、せめて運ぶのであればダイクに任せるべきでしょう! そのほうが事故が少なくて済みます! ユトリロ! あなたはまだ依存症が──」
言い掛けて、まずい、と感じた。ユトリロは愕然とし、ダイクはむっとしている。
盆の上のカップがカタカタと震えている理由が酒のせいだけではないと知っているのに、バジールはとうとう謝れなかった。
「ユトリロ、行こう」
「でも、カナレット様が助けてあげようって……」
「拒否したんだから仕方ないよ。優秀な執事様に任せて僕達は寝よ寝よ。大丈夫、ユトリロはあの日からずっとお酒飲んでないもんね、ずっと!!」
最後のほうは明らかにバジールへの嫌味だった。
ドアが閉じられて、バジールはデスクに項垂れてしまう。
ああ、まずかった。
あれは医者としても友としても、言ってはいけなかった。
けど、自分のやっていることは正しいはず。
一番長く主を支えてきたのは自分であるし、主も自分を右腕だと思ってくれている。そんな自分が後輩達に仕事を任せるわけにはいかないし、書類が汚れたら取り返しが付かないし、自分は間違っていない。
正しい。
絶対に正しい。
「よし」
バジールは再びペンを持った。
いつまでも紅茶の匂いがした。




