第11話
「いやいや、そこに置いたらナイトに取られるだろ?」
「じゃあ、ここに」
「だからそこだとポーンに──あんた、チェスやったことないのか?」
「ありませんよ。というか、なんで私はチェスをさせられてるんです?」
ユトリロの1件があってから5日後、カナレットは律儀に青の境界線にやってきていた。カナレットが訪れたときには既にデルフトが待っていて「おう」と、あたかも旧知の仲のように片手を上げて迎えられた。
(いや、おう、じゃないんだよ)
と思いつつ、拍子抜けして今に至る。
デルフトと境界線上にチェス盤を置いての遊楽はなかなかどうして摩訶不思議である。
デルフトは青地のワイシャツに青のデニムを履いて、裸足だった。痩身というか、かなりの痩せすぎで、手首も足首も細くて骨が浮いている。襟足を長く残した髪は全体的に顔を隠していて、爽やかな顔立ちに影を落としている。
デルフトは胡座を掻いて、カナレットから取った黒のポーンを拳の中でこねくり回している。
「だって、ユトリロの代わりに俺と遊ぶって約束したじゃん」
「そうなんですけど、遊ぶってこういうことですか。なんだか、もう少し違うイメージしてました。つまり、ユトリロさんともチェスを?」
「いや、あいつには酒を渡してただけ。飲んだらどうなるか見てるだけで楽しいし」
「性格悪」
「褒められても約束は約束だからな。次から来なくていいとは言わないぞ」
「褒めてはないです」
カナレットがポーンを動かすと、どこからともなくビショップが飛んできて取られてしまう。
するとデルフトは胡座の膝に左肘を乗せ、頬杖をついた。シャツの袖がずり下がり、手首の内側が顕になる。
ためらい傷が見えた。
それもひとつじゃなく、数え切れないほど。中には深いものもあった。
カナレットは見なかったふりをした。デルフトが呟く。
「あんた、貴族じゃないな?」
「その通り。むしろ、ど平民です」
「貧困層?」
「その通り。むしろ元ホームレスです」
「わかるわ、そういう雰囲気。やさぐれてるというか、刺々しいというか、根性ありそうというか」
「いやぁ、褒められても」
「褒めてはない」
カナレットがルークを動かす。デルフトがキングを動かす。今度はなにも取られなかった。
「どのくらい野宿した?」
「半年ってところですかね」
「1箇所のところに?」
「いえ。ああいう生活って、いい場所には必ず先輩方がいて、なぜか新入りを排除しようとするんですよ。自分達の領域だからって。それで意味不明なルールを強いてきたりして。いざこざが起きても嫌なので色んなところを渡り歩いていたら、役所の助成金の案内と共に拾っていただきました」
「世話好きがいるんだな、あんたの国には」
「そのようです」
ビショップを動かして青のポーンを取る。ナイトにビショップを取られる。今度はカナレットがクイーンを動かした。
「暇じゃね?」
「チェスをやっているので、そこまでは」
「毎日の話。なんもすることなくてマジ暇じゃね?」
「まぁ。でもユトリロさん達がなんだかんだ遊んでくれるので、そこまでは」
「それが何十年、何百年と続いてみーよ。マジ暇よ」
だから死にたいのだろうか。
カナレットは言わなかったけれど、その疑問は拭い切れなかった。
「青の地には他にだれもいないんですか?」
「いるよ」
「……へえ」
なんだか、触れないほうがいい話題の気がした。人の顔色を窺うことに関してはかなりの自信がある。そうやって色んな争いを避けて通ってきたのだ。
「あんたさ、嫁いできてどう思う?」
「なにがです?」
「あー、もう敬語じゃなくていい。この世界。どう思うかってこと」
ではお言葉に甘えて。
「特になにも思わん」
「変じゃね?」
「なにが?」
「異常じゃね?」
「だからなにが?」
「あんた馬鹿?」
「は? あんた失礼すぎでは」
「おかしいじゃん。自分が統べる場所しか行けないなんて、おかしくない? 別に色んなところ行ったってよくない?」
「まあ。でも緑の森に集まることもあるって聞いたけど」
「そんなの追放とかの多数決取るためのときだけじゃん」
「そうじゃないときも集まればいいじゃん」
「そんなの簡単にできるわけないじゃん」
「じゃあ私がなんか言っても仕方ないじゃん」
あーあ。
デルフトは嘆きながら境界線に沿って寝そべった。なにもない白い空を見上げながら、また嘆息つく。
「つまんない」
この人の根源はこれなのだろう。
長くをこの世界で過ごしすぎて、変わらない毎日が退屈で、楽しみを求めている。ユトリロに対する仕打ちは快楽のひとつだった。ユトリロを陥れてやろうという悪意はなく、いつもと違う娯楽を欲した結果なのだ。
なるほど確かに、退屈は人をおかしくする。
ならばちょっと付き合ってやるかと考える自分も大概お人好しなのだろう。
だから試しに提案してみた。
「手押し相撲って知ってる?」
デルフトの退屈そうな瞳がきょろりとカナレットに向けられた。
「は? なに?」
「手押し相撲」
「なにそれ」
「向かい合わせに立って掌だけで押し合って相手が足を動かしたら負け。ただし手を掴んだり、掌以外に触れたら失格」
「よしやろう」
カナレットとデルフトは線を境に立って向かい合った。
「こうやって胸の高さで肩幅に掌を見せるの」
「うん」
「それでこうやって押すの。えいっ」
ぱんっとデルフトの両掌を押すと、デルフトは簡単に後ろへ足を動かしてしまった。
「こうなったらデルフトの負け。私の勝ち」
「おっけ。やろ」
「よーい、スタート!」
ぱし。ぱし、と攻防が続き、さらに手を出そうとして、しかし出さずに手を引くフェイントをカナレットが仕掛けると、案の定、デルフトは引っ掛かって前のめりになった。
「くっ! こ、の……!」
なんとか体勢を整える。
そのあとで目を剥いて抗議してきた。
「おま、汚っ!!」
腰に手を当てて、勝ち誇ってみせた。
「これも戦略のひとつなんだぜ」
「くっそ……なんかムカつくわー……」
「勝負ってそういうもの」
「もう一回やるぞ」
「えー。どうしよっかなー」
「あんた、いい性格してんなー」
「いくよー。よーい、スタート!」
ぱし! ぱし、ぱしん!
しばらく膠着状態が続き、睨み合い。
んー。と、真剣にやってる自分達がなんだか可笑しくて、カナレットは笑ってしまった。
「ははっ!」
「なんだよ、なに笑ってんだ」
「いやぁ、ふたりして夢中になってるなあと思って」
子どものころに弟とやっていたっけ。あのときは、楽しい日々がずっと続くのだと信じきっていた。もうとっくにあの日の続きを諦めていたのに、ふと思い出してしまう。
だからきっと自分は今、楽しいのだろう。
楽しいから、楽しかったあのときを思い出している。カナレットは笑顔を隠しきれなかった。
ぱしん!
デルフトの力は正面から受けるには強かった。バランスが崩れて、腕をぐるぐるとして、結局、体勢を戻せずにデルフトの胸に手を付く形で転ばずに済んだ。
あちゃー。負けたか。
「失格」
そう降り注ぐデルフトの声音の、なんと優しいことか。先までと段違いの声におそるおそるデルフトの顔を見上げて、驚いた。
泣いていた。
彼の涙は髪の色を透かして薄水色に見えた。ゆるりと彼の青白い頬を流れてくる涙はカナレットの頬に滴って、また流れて境界線の上に音もなく落ちていく。
「なぜ──」
泣いているのか。
そう聞くより先にデルフトは背を向けてしまった。手で乱暴に涙を拭うと腰に手を当てて、強がって言う。
「今日はもう帰っていい。また5日後だ」
「……わかった」
大丈夫なのかと、問いたかった。涙の理由を解決しなくても、大丈夫なのかと。
解決できないのかもしれないと思い至ると、どうにも訊けなかった。
彼が歩き去っていく背中を見送って、チェス盤に視線を落とす。あと1手でデルフトがチェックメイトを取れる配陣になっていた。気付かなかった。こんな自分など負かせてしまえばいいものを、敢えてそうしなかったのだろうか。
カナレットは膝を折り曲げて、初めに教えてもらった通りの初期位置に駒を戻してやった。並び替えておけば、また5日後にすぐに始められるはずだから。
「……あれ。キングとクイーンってどっちだったかな……」
キングとクイーンが並び合っているのは覚えているのだが、キング、クイーンの順だったか、クイーン、キングの順だったか、わからなくなってしまった。
こっちか、いや、こっちか?
悩んだあとで、もう5日後にデルフトに聞こうと諦め始めたときだった。
「キングが右だよ」
ふと声がして振り返ると、リフがいた。長い手が伸びてきて、カナレットの手からするりと駒を取ると、正しい位置に置き直してくれる。
「ありがとう」
「いいんだよ。さあ、帰ろう。カナレットには僕の相手もしてもらわなくちゃ。──デルフトの5倍の時間は遊んで欲しいな」
言って、手を引かれた。仕草は優雅で優しいのに、その力はなかなか強かった。そのまま城に向かう。
「……怒ってる?」
「まさか。ユトリロのための約束だって知ってるし、そんな優しい行動で怒るわけがないよ。全然。デルフトの体に触れたからって、まさかそんな、怒るわけがないよね。遊びだものね。そんなことで怒ったら理不尽でしょう?」
見ていたのか。遊びといえど軽率にすぎたかもしれない。
「ごめんね、リフ」
「全然。全然、怒ってないよ。ユトリロのためだもん。ね?」
言いながらも、リフはぎゅうぎゅうと握る手の力を緩めてはくれなかった。




