第10話
カナレットの部屋の前で、バジールと、どちらが先に謝るのかという摩訶不思議な押し付け合いをしているのが、リフにはなんだかおかしかった。
しかも無言で先に相手をドアの前に立たせてみては、そっちが先だと後ろにいる相手をまた無言で前に押し合い、ふざけんなとまた後ろにいる相手を押し出すという、よもや主とその最も優秀な従者のふたりとは思えないほどにバタバタとした、実に子どもじみた行為だった。
「謝りかたなんてわからないから、バジールが手本を見せてよ」
「なにを仰りますか。私が先に謝るのはおかしいでしょう」
「大丈夫だから先に行ってきて!」
「初めに主役が出てこないと話になりませんよ──いや、この場合、先に謝ってしまったほうが後者のハードルが上がるやも……?」
その一言で今度は互いに見合い、はっと行動に移る。やれ自分が先だ、自分が先に行ってやる、さっきは先に行けと言ったじゃないか、とドアノブの醜い奪い合いになる。
押し合いへし合いの結果、バジールが先に部屋に飛び込んでしまった。
(ああ……! やられた!)
しかし連れ戻すまでの勇気はなく、地団駄踏む。
そんな間にもぴたりと閉まったドアに耳をくっつけた。
バジールはなんて言うのだろう。
「カナレット様」
どうやら彼女は眠っているらしい。声を掛けるバジールが躊躇っているのがわかる。なんだかほっとしたような、残念なような。このまま謝るのを先延ばしにできてしまったほうがいいような。でも謝ってしまいたいような。
バジールが気落ちした気配があって、踵を返す音がした。後にしようということなのだろう。内側からドアノブがかちゃりと下がる。
「バジール?」
そこで寝起き特有の舌足らずな声があった。
カナレットが目を覚ましたのだ。バジールが息を呑み、姿勢を正したのが見なくともわかる。
「カナレット様。お休み中に大変失礼を致しました」
「いえ、大丈夫です。……まさか、ユトリロさんになにかあったのですか」
「いえ、問題ありません。ダイクが付いております。しかし、どうしてもお伝えしなければならないことがございます」
「……なにか?」
一拍の間があった。
「申し訳ございませんでした」
服の擦れる音がする。
頭を下げたのだろう。
「私は医者としてだけではなく、ユトリロの友としても失格でありました。ひとりでできるまでやれと言うよりも、共に戦ってやるべきでした」
ベッドの軋む音。カナレットが起き上がったか、あるいは立ったか。
「い、いえ! 私も皆さんの苦労も知らずにずけずけと立ち入ったことを偉そうに言ってしまって、お恥ずかしい限りです! だから、どうぞ顔を上げてください」
また一拍。
従うべきか、さらに頭を下げ続けるべきなのか、迷ったのだろう。リフも、自分でも迷うと感じた。
「恐縮です」
バジールは姿勢を正したようだ。
カナレットの落ち込んだ声がする。
「私のほうこそ、すみませんでした……ひとりで、断酒が続いていると浮かれていて、現実を見られていませんでした。お酒を断つにも苦しみがあるとは思いもしませんでした。無知で、とても恥ずかしいです……。一番辛かったのはユトリロさんです。私ではありません。だから、もうこれで終いにしましょう。どうぞ、お仕事にお戻りください」
「お気遣い、感謝いたします」
それからややあって、ドアノブが下がり、バジールが出てきた。
その顔のなんと晴れやかなことか。ふうー、と長く息を吐いたうえで、さらに額に汗が滲んでいるのは緊張したからなのだろうけれど、心は軽くなったのだと明らかだ。
「私は仕事に戻ります」
また、ふう、と息を吐きながら言って、礼を執ってからバジールはその場を去った。彼はいつも完璧だ。
廊下に取り残されたこの城はおろか、この黒の地の主、リフ神。情けなさなど、もはや棚上げである。
(よ、よし。行くぞ。謝るべきことを謝らないのは理不尽極まりない。謝らないと。謝らないと。)
自身を鼓舞してドアノブに手を伸ばしたとき──。
「リフ? いるのでしょう?」
室内から呼び掛けられた。
驚き以上に、安心した。
入室のきっかけを与えてくれたのは助かった。深呼吸をして部屋に入ると、カナレットは寝間着にストールを羽織り、ベッドに腰掛けていた。
その顔や首の傷が痛々しかった。
自分に治癒の能力さえあればと、歯噛みする。自分は、壊す、喰らう、奪うの専門なのだ。
練習してきたはずなのに、何度も頭の中で反芻したはずなのに、いざとなると言葉が出てこない。きっと頭と口は仲が悪いに違いない。言いたいのに言わせてくれないのだから、口の性格が悪いのだ。
とにかく、言わないと。
リフは絨毯の毛足に視線を落とし、なんとか声を発した。
「……カナレット……さっきは──」
「さっきはごめんなさい」
「えっ」
先手を打たれてしまった。
呆気に取られて顔を上げると、カナレットが伏目がちに言った。
「リフがどういう思いで行動したのかを聞きもせず、頭ごなしに怒ってしまって……本当にすみませんでした。しかも、手を上げるだなんて……ごめんなさい!」
カナレットの言葉がリフに浸透すると、リフは苦笑した。自分があれだけ練習したのに、カナレットはこの場ですぐにやってのけてしまう。
カナレットには勝てそうもない。
リフはどうしようか迷って、ゆっくりとカナレットの隣に腰掛けた。細い膝の上で重なっていたカナレットの手を優しく取る。
「ごめんね」
堰き止めていた障害さえ取り除けば、あとは流れるように言葉が溢れた。
「ひとりを強制すべきじゃなかった。……助けてあげるべきだった。ユトリロは苦しんでいたのに、僕の頑固な性格のせいで余計に苦しませてしまった。皆で強くなればよかったんだよね。気付かせてくれてありがとう、カナレット」
「いえ、ありがとうだなんて……」
カナレットの白い肌に咲いた赤い傷をそっと撫でる。滑らかだったはずの肌に生まれた歪な凹凸は、胸の中に隠して見えないようにしてるはずの自分の性格を表されているようで堪らなかった。
「僕を、嫌いになった?」
問うと、カナレットはきょとんとした。それからすぐに首を振る。
「まさか。ありえません」
「もう怒ってない?」
「もちろんです。私のほうこそ、追放されるのではと不安だったくらいです」
「それこそ、ありえないな。──おいで」
カナレットを膝の上に乗せて、細い腰を抱いた。抱き締めるとカナレットの香りがして、思わず深呼吸してしまう。肺腑をカナレットで充満させると、体中の筋肉という筋肉が弛緩してしまってリフも眠ってしまいそうなほど安心できた。
「ねえ、カナレット」
「はい」
「大切にするから、これからずっと、僕を嫌いにならないでね」
「もちろんです」
「眠るとき、またここに来ても?」
「ええ、もちろん」
「ありがとう」
本当はこのままでいたかった。カナレットの体温を感じている間は、自分自身を求められている気がして安心する。その安心をいつまでも感じていたい。
けれどリフには仕事がある。うんと努力をして、離れる決心をした。額に口付けをして、そっと立ち上がる。
部屋を出る寸前に、ふと気になったことを問うた
「同じことをしてくれる?」
「……はい?」
「僕がいなくなるかもしれないってなったら、今日と同じように傷だらけになっても抱き締めて、引き留めてくれる?」
カナレットは眉を下げて困惑の表情を浮かべた。
「いなくなってしまうのですか」
ぞくぞくした。
まるで、いなくならないで欲しいと言われているみたいだ。
僕を求めてる。僕がいなくちゃだめ。僕がいないと。僕がいないと。
そんなふうに思ってもらえたらどんなに幸せか。リフは今すぐカナレットにキスしたいのをぐっと堪えた。先の仕事に行く葛藤よりも、随分と労力を要した。
ああ、カナレットの心がすべて僕で埋まってしまって息もできないくらいになってしまえばいいのに。
リフはまた、そんな薄暗い欲望を胸に隠して微笑む。
「カナレットが望む限り、いなくならないよ」
早くこの部屋を出ないと、重い欲望に負けてしまう。リフはやっとの思いでその場をあとにした。
廊下に出て頬に触れると、鱗がざらついていた。




