海月
心臓が痛い。原因不明の痛みに苦しめられるのはこれで何度目だろうか。
息ができなくなる。過呼吸とはまた違った別の苦しさが俺を襲う。
最初の頃はパニックになってしまってそのままその場から動けなくなることが多かったが原因不明の痛みが発生する回数が増えるたびに慣れてしまった。
茶色のカバンの中から三錠の錠剤を取り出す。
痛みを止めるための薬、痛み止めの副作用を和らげる胃薬、抗うつ薬。
水と一緒に薬を流し込む。
一連の出来事を相手はただ呆然と眺めていた。
「薬…増えたんだ。」
「そりゃあね、あんなことがあったからね。」
少し静かな場所に行きたかった。
誰の目にもつかないような、静かな世界。
そうだ、あそこに行きたかったんだ。
平日の昼下がりというのもあって俺たち以外に客はいなかった。水の中に浮かぶ命たちを暗闇の中から眺めている。
水族館というのはいつになっても心が落ち着くものだね。
俺は決してどこぞの魚が大好きな魚博士なわけではない。
ただ、水族館という場所が好きだった。
特に平日のこの静かな時間に訪れる水族館、休日は子どもたちがいて賑やかだが平日の昼間は大人やお年寄りがちらほら見えるくらいだ。
運のいい日は貸切状態になる。
今日の俺は星占い一位だったのかな?他に客は見えない。
静かな世界が好きなんてことを言ったけど俺は水族館に来たらすぐに子どものようにうろちょろしてしまう。
でも、幸い今はうろちょろする気力もないのでゆっくりと魚が泳いでいるのを眺めている。
美味しそうな命が泳いでるなぁなんてことを考えてたら相手が聞いてきた。
「水族館…よく来るの?」
「うん、心を落ち着けたい時とかよく来るね。」
「そっか。」
相手の声が少し震えてるのは寒いからだろうか。
上着やっぱり貸したままにしとけばよかったな。
心臓が痛くなった→体を冷やさない方がいい。
という思考が頭によぎったようで貸していたカーディガンを返されてしまった。
本当はめちゃくちゃ体暑いから服の下で汗ダラダラなんだけど流石にその厚意を無駄にするわけにもいかないのでカーディガンの下の長袖を腕まくりしてカーディガンを羽織っている。
俺は天才かもしれない…
なんて思いながら水族館の進路に沿って進んでいくと先ほどの場所よりもより暗い場所に来た。
ここが一番のお気に入りの場所。
「クラゲ…」
「海の中に浮かぶ月。それが僕の心を落ち着かせてくれるんだ。」
なんてキザなことを言ってて恥ずかしくなってきた。
余計に汗をかきそうなものだが幸いこの場所は他の場所よりも気温が低い気がする。
「クラゲ…私も好きなんだ。」
「言ってたね。僕も昔から好きだね。」
次はこの話をしよう。
僕は写真を撮るのが下手だった。
小さい頃、写真を撮るのが好きな僕はしょっちゅうおじいちゃんのカメラを借りてはどうでもいいと言えるような景色を撮っていた。
道端に落ちているフサフサの縞模様の毛の塊、子どもが勢いをつけて滑るための道具、交通事故を防ぐ三つ目の化け物。
どの写真も撮った瞬間から過去になる。
そんなことはわかっていながらも「今」という時間を残したくて必死に色んなものを撮っていた覚えがある。
大きくなってからもスマートフォンの容量が足りなくなったっけ。
色んな写真を撮っては自己満足のように後から眺めてることが多かった。
だから「写真を撮るのが下手。」なんて彼女に言われた時はショックだったなぁ。
でも、すぐに言葉の意味がわかった。
彼女の撮る写真を何枚か見せてもらった。
なんというんだろう、過去ではなく今その景色を見ているかのような感覚を彼女の写真は持っていた。
喫茶店での写真や植物の写真、景色の写真なんかがたくさんあって、僕のお気に入りは彼女が撮った木漏れ日の写真。
限りなく綺麗だった。
僕はやがて景色の写真を撮らなくなった。
僕が残さなくても彼女が僕と見た景色を残してくれるから。
代わりに僕は彼女を撮るようになった。
彼女は海月だった。
どんな光の中で撮っても、どんな景色の中で撮っても周りが真っ暗に見えるほど彼女は美しく光り輝いてるように見えた。
僕は何度も彼女のことを撮った。
さまざまな景色の中で撮ったけど一番のお気に入りはこちらを見て恥ずかしそうに首を傾げて笑う写真。
他の人が見たらなんてことない綺麗な少女が笑ってる写真に見えるかもしれないが僕にとってそれは宝物も同然だった。
でも僕は決して彼女の写真を上手く撮れた訳じゃない。
撮る回数を重ねるごとに彼女は上手くなっているなんて言って褒めてくれたけど僕は決してそう思わなかった。
僕の目に映っている彼女が何よりも綺麗で、なによりも可愛かった。
僕の瞳そのものがカメラになればいいのになんて何回も考えては口に出していた気がする。
「クラゲってね。傷つきやすいんだよ。」
彼女が言った言葉を僕は覚えている。
そんなところまで彼女に似てるのか。
なら大切にしなきゃね。
彼女を壊したのは僕だった。
「これでこの話は終わり、ごめんね。水族館に来たもんだからついついクラゲの話がしたくなっちゃって。」
「……」
ほら〜俺がこんな話するから相手も黙りこんじゃってるじゃん。
何か話題を!この場を和ませる話題を!
相手がぼそっと呟く。
「あなたもクラゲみたいな人だね。」
はは、そうだね。




