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冷たい手

「喫茶店を出ようか。」

耳を塞ぎながら俺は相手にそう伝える。

少しばかり気分が悪くなってしまった。

別に昔の話をしていたからではない。

ただ、喫茶店で流れていた音楽が最近流行りのJPOPから穏やかなクラシック音楽に変わったことが原因だ。

伝票を確認するまでもなく相手に1万円を手渡す。

会計は任せて先に店を出ようとしたが段差に阻まれて上手く外に出ることができない。

そこへ会計を済ませた相手がやってきて扉を開けるのを手伝ってくれた。

申し訳ないなと思いながら喫茶店の外に出る。

風にあたりなんとか気分が落ち着いてきた。

「公園にでも行こうか。」

俺たちは喫茶店の次は公園に向かうことにした。

俺たちが住んでいる町には比較的公園が沢山ある。

そのほとんどが今では使われていない。

子どもたちはゲームやスマホに夢中だからね。

使う人がいたとしても運動が大好きな小学生か、散歩中のおじいさんやおばあさんくらいだろう。

ましてやそういった人達も大きな公園に集まってしまうので、小さな公園はほぼ貸切状態と言っても良い。

いつも行く公園に向かおうと思って。進み出す。

相手もどこの公園に行くかを察してくれたようだ。

足音とキリキリとした音が響く中、俺は話し始めた。

「聞き流す程度に聞いてくれていいよ。」


僕は昔からピアノが好きだった。

初めてピアノの音を聴いたのは赤ちゃんの頃だろう。

音楽関係者の母がよく寝かしつけにピアノを弾いてくれていたという話を五歳の頃に聞いたことがある。

赤ちゃんの頃の記憶はほとんど忘れるなんて言葉を聞くけど、僕は覚えている。

あの優しい音色を。

六歳の頃、僕はピアノに初めて触れてみた。

鍵盤が酷く重い。

子どもながらにこんなものを軽やかに弾く大人は皆、指が疲れないのかなって感じたっけ。

それから頻繁に足が地面につかない高さの椅子に座っては鍵盤の白と黒を眺めていた。

そんな僕を見て母はすぐに僕にピアノを習わせた。

家の近くのピアノ教室。

母が教えてくれるのかと思っていたが、母は自分はもうそこまで上手に弾けないということをよく口走っていたのでわがままは言わないようにした。

最初の難関は譜読みだった。

ドレミファソラシドをやっと読めるようになったと思ったらト音記号とヘ音記号で音がごちゃごちゃになるし、シャープやフラットといった黒鍵。いわばピアノの白いところではなく黒いところの音もなんかも入ってくる。

音を覚えるだけで半年はかかった。

しかし、不思議と苦痛ではなかった。

僕は譜読みをしながら少しずつピアノが弾けるようになっていった。

簡単な童謡から始まり、次第にいかにもピアノといえるような曲を弾くようになった。

特に覚えてるのはアラベスクだなぁ。

あれは登竜門と言ってもいい。

正直曲の難易度で言ったらもっと難しい曲もある。

しかしあの曲は上手い人と下手な人の違いが謙虚に出る。

弾けるようになったと自慢げに先生の前で披露した後に先生のお手本を聞いた時は自分の演奏がカエルの鳴き声よりもお粗末なものであるように感じた。

もっと上手くなりたいと練習を重ねた。

次第に練習した曲なら自由自在に白と黒の鍵盤を指で飛び回れるようにまで成長した。

先生が「そろそろ、自分の好きな曲を弾いてみてもいいかもね。」なんてことを言うので僕は当時聞いていたお気に入りの曲を選んだ。

不協和音にも聞こえる数の左手の和音と右手の軽やかな音で織り成す曲。

綺麗なメロディーとは裏腹な悲しい歌詞がその曲の魅力を最大限に引き上げている。

僕は一年かけてやっと弾けるようになった。

なぜ一年もかかってしまったのかというと。

まぁ言わなくても分かるか。

才能だよ。

才能がなかったんだ。

結局僕はピアノを人並みに弾けるという状態から上に行くことは出来なかった。

別に自分に才能があると思っていたわけではない。

プロを目指していた訳でもない。

僕はその曲を最後に新しい曲を弾かなくなった。

弾けなくなった。


相手が俺の話に口を挟む。

「その曲を結果として弾けるようになったんなら…才能がなかったなんてことは…」

俺は相手の言葉を聞いて相手が何も話続けないのを確認してから話を再開する。


ピアノにおいて難しい曲を弾ける。

なんてのは才能でもなんでもない。

難しい曲を弾いた人がいたとしてその人は結局努力をしただけだ。

ピアノを弾く者が最も欲しがる才能とはどれだけ自分の頭の中にある音を人に伝えることができるかだ。

自分の奏でたい音が自分の耳に、聞いて欲しい誰かの耳に、いや心に伝わった時、初めて演奏は完成したと言える。

僕は一年かけて自分が伝えたい音を奏でることができなかった。

ピアノの先生の「頑張ったね。もっと上手く弾けるようになるよ。」という言葉が胸を刺す。

今は上手くない、柔らかくそう伝えられた。

僕はその曲を弾いた、指から血が出ても構わず弾き続けた。

どれだけ弾いても自分の音を好きになれなかった。

しかし、そんな僕の音を好きだと言ってくれた人がいた。


彼女だった。

初めは何気ない会話だった。

「ピアノをやっている。」

なんてことを口走ってしまったのを理由に彼女の前でピアノを弾くことになった。

夕日が差し込む僕の部屋で僕はピアノを弾いた。

緊張で指が震え、音を何度も間違った。

正直いって下手な演奏だった。

そんな音を彼女は「綺麗な音。」と言った。

僕は涙が出そうになった。

今まで僕の音を受け取った人たちはみんな決まって

「悲しい曲。」「悲しい音。」と感想を述べた。

母でさえも僕の音を「辛そう。」と表現した。

どんな評価よりも欲しかった言葉だった。

たった一言で僕は救われたんだ。

泣きそうになっていると彼女がピアノを弾き終わり疲れてる僕の手を取る。

ピアノを普段から弾いてると手の代謝がよくなるから自然と普段から手の温度が高くなる。

「汗をかいてるから。」と言い手を離そうとする。

すると彼女は僕の手を握り「私の手は冷たいから、温かくて大きなあなたの手が好きだよ。」と言った。

少し冷たい手が僕の心を溶かしていく。

冷たくなんかなかった。

温かい手だった。


「じゃあ俺たちは手を繋いでる時が一番ちょうどいい温かさだね。」


そんな思い出は僕が彼女と別れてからピアノを捨てるのに充分すぎた。


「はい!この話はこれで終わり。ごめんね、僕の昔の趣味について長々と話して。」

相手は首をゆっくりと横に振る。

「ピアノがあなたにとって大切なものだったってこと知ってるから。」

「そうか、それなら聞いてもらえてよかった。」

「その癖、抜けてないんだね。」

俺はイタズラしてるのを親に発見された子どものように空を弾いていた手をポケットの中に戻す。

「今でも好きだからね。」

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