第7話 『鑑定』による正体バレ
(な、なに……この人……!?)
瞳の網膜を焼き尽くさんばかりに溢れ返る、夥しい数の赤文字の警告。
彼女のレア職スキル『詳細鑑定』は、対象の隠されたステータス、魔力残量、保有スキル、さらには過去の戦闘履歴に至るまで、あらゆる情報を暴き出すことができる文字通りの『神の眼』である。これまで、どれほど高ランクの探索者や、未知の凶悪なモンスターを視界に収めても、彼女の眼が処理を追いつけなかったことは一度たりともなかった。大手ギルドの令嬢として幼い頃から一流のものに触れてきた瞳にとって、この眼だけが自身の絶対的な拠り所であり、誇りだった。
だが、目の前で無骨な手を差し伸べているこの男は、根本的に何かが違った。
『エラー。対象の保有エネルギーが計測器の上限を超過しています』
『警告。概念圧縮率が規定値を逸脱。視覚化に失敗しました』
『エラー。エラー。致命的なエラーが発生しました』
夥しい数のシステムメッセージが滝のように視界を流れ、脳の血管が直接熱を帯びたかのように激しく脈打つ。情報の奔流を処理しようとするだけで、海をティーカップで掬おうとするような圧倒的な容量の欠如に襲われた。
ノイズの奥に、一瞬だけ垣間見えたもの。
9がいくつ並んでいるのかすら分からない、暴力的な数値の羅列。
そして、底なしの深淵のように渦巻く、莫大な『ストック』の気配。
それは、もはや人間の形をした『何か別の事象』だった。
瞳は弾かれたように彼の手を離し、息を荒くした。冷や汗が背中を伝い落ちる。心臓が早鐘のように鳴り、酸欠になったように肺が空気を求めていた。
「ごめん、急に触ったから驚かせちゃったな」
男――ドクは、瞳が怯えているのだと勘違いし、慌てて手を引っ込めた。
「怪我はない? 立てるか?」
ドクは不思議そうに首を傾げながら、もう一度言葉をかける。その声には、先ほどまでCランクモンスターに囲まれていたという緊迫感は微塵もなく、ごく普通に道端で転んだ子供を心配するような、穏やかで間の抜けた響きがあった。
「あなた……誰、ですか?」
瞳の声は震えていた。喉がカラカラに乾いている。
「俺? 俺は田中。田中ドク。今日は『鉄の牙』さんにお世話になってる、ただの日雇いの荷物持ちだよ。戦闘の役には立てなくてごめんな」
男は、薄汚れた作業着の肩をすくめながら、ひどく申し訳なそうに笑った。
その屈託のない笑顔と、先ほどの『見えない衝撃波』という異常な現実が、瞳の頭の中でまったく結びつかない。
「荷物、持ち……」
呆然と呟いた瞳の視線が、ドクの背後を浮遊する小さな機械に吸い寄せられた。
赤いランプを規則正しく点滅させている、探索者協会の特注ドローン。
(荷物持ち。ドローン。常識外れの、見えない衝撃波)
散らばっていた情報が、瞳の優秀な頭脳の中で瞬時に繋がり、一つの明確な像を結んだ。
昨晩、世界中のネットワークを焼き尽くした一つの異常な配信動画。アビス・ナイトの群れを裏拳の風圧だけで消し飛ばした謎の男。画質が悪く顔は判別不能だったが、彼が『紅蓮の剣』に捨てられたFランクの荷物持ちであり、赤いランプの点滅するドローンを引き連れていたという情報は、すでにネット上で特定されていた。
世界中のギルドや政府機関が血眼になって探している、あの『ワンパンおじさん』。
(嘘でしょ……)
瞳は、目の前の薄汚れたおっさんと、動画の中の怪物とを重ね合わせた。
間違いない。この男だ。
世界を滅ぼせるほどの力を持った人間が、今、なぜか第10階層で、Fランクの荷物持ちとしてただの石を拾っているのだ。
「おい! なんだ今の音は!」
その時、坑道の奥からドタドタと慌ただしい足音が響いてきた。
現れたのは、『鉄の牙』の三人だった。彼らはサボってタバコを吸っていた安全な場所から、凄まじい轟音を聞きつけて戻ってきたのだ。手入れを怠った安い革鎧に、刃こぼれした長剣。その姿は、本物の死線とは無縁の三流探索者そのものだった。
「な、なんだこれ……! 壁が、壁が吹き飛んでるじゃねえか!」
リーダーの男が、抉り取られた岩壁と、立ち込める土埃を見て悲鳴のような声を上げた。数十分前までそこにあったはずの分厚い岩盤が、まるで巨大なスプーンで掬い取られたように綺麗に消滅しているのだ。彼らに何が起きたのか理解できるはずもなかった。
ドクは急いで立ち上がり、ニコニコと愛想笑いを浮かべて深く頭を下げた。
「あ、リーダー。すみません、突然落盤が起きまして。危なかったんですけど、運良く俺たちは無傷で助かりました」
「ら、落盤だぁ? ふざけんな、こんな綺麗に抉り取られるわけ……ん? お前、誰だ」
リーダーの男は、ドクの後ろでへたり込んでいる瞳に気づいた。
「渡部、です。ソロで潜っていて……モンスターに襲われていたところを、この落盤に助けられました」
瞳はとっさに話を合わせた。ここでドクがモンスターを消し飛ばしたなどと言っても、彼らが信じるわけがない。それに、万が一彼らがドクの正体に気づけば、事態はさらに面倒なことになる。
「チッ……。まあいい、この辺は地盤が緩んでたってことだ。俺たちが巻き込まれなくて運が良かったぜ」
リーダーの男は、理解できない事象から目を逸らすように強がりを言うと、忌々しげにドクを睨みつけた。
「おい田中。お前、ノルマの石運び全然終わってねえじゃねえか。落盤でサボってた分、今日の日当は半額の3000円だからな。文句ねえな?」
命を救われた恩人に対し、なんという言い草か。しかも、相手は一撃で深層を消し飛ばした化け物だ。そんな相手に日当を3000円に減らすと凄むリーダーの姿に、瞳は呆れを通り越して眩暈すら覚えた。
しかし、ドクの反応は、瞳の予想をさらに根底から裏切った。
「あ……はい。すみません、俺の不注意で作業が遅れてしまって。3000円でも、頂けるなら本当にありがたいです。すぐに残りの石を集めますね」
ドクは文句一つ言わず、それどころか心底申し訳なさそうな顔でペコペコと頭を下げ、散らばっていたピッケルを拾い集め始めたのだ。
(……この人、本当に何なの?)
瞳は、呆然とその姿を見つめていた。
これだけの力を持ちながら、なぜあんなクズどもにへりくだる必要があるのか。
なぜ、自分の価値をこれほどまでに低く見積もっているのか。
ドクの手のひらのタコと古傷。
背中の使い込まれた背負子。
「申し訳ありません」と条件反射のように口をついて出る謝罪。
あれは、一朝一夕で作られたものではない。
10年以上、文字通り泥水をすすり、他人に踏みつけられ、理不尽を飲み込み続けてきた人間の悲哀だ。
この男は、強すぎるが故に心が壊れているわけじゃない。彼の中で、「自分は底辺である」という強固な思い込みが、現実の異常な力を完全に上書きしてしまっているのだ。
(狂ってる。……でも)
瞳の胸の奥で、恐怖とは違う熱いものが込み上げてきた。
大手ギルドの令嬢として、才能をひけらかし他者を見下す傲慢な「強者」たちを数え切れないほど見てきた。そんな恵まれた立場を嫌い、自分の力だけで這い上がろうとしてきた彼女の強い反骨心が、目の前の理不尽な光景に激しく反応していた。
こんなデタラメな存在が、自分を「ただの底辺」と思い込んだまま、日当3000円で三流探索者に搾取され続けているなんて、絶対に間違っている。
そして何より、自分を死の淵から救い上げてくれた時の、あの無骨で、温かい手。
(この人を、このままにしてはおけない)
今この瞬間も、彼を映し続けるドローン。
世界中の人間がこの男の一挙手一投足を見つめ、彼を利用しようと血眼になっている。もし、各国のギルドや政府機関がこの男の正体に気づいたら、彼のこの平穏な日常は跡形もなく消し飛ぶだろう。誰も、彼自身の意志など尊重しない。ただの強大な兵器として扱われるだけだ。
(私にしか、この人の真の価値と、仕組みは分からない。私にしか、この人を正しくプロデュースできない)
「あの」
瞳は立ち上がり、膝の埃を払いながら、しっかりとした足取りでドクの背中に声をかけた。
「田中さん、でしたね」
ドクがピッケルを持ったまま振り返る。
「今日の仕事が終わったら、少しお時間いただけますか。あなたに、どうしてもお話ししたいことがあります」
ドクは少し驚いたように目を丸くし、それから申し訳なさそうに眉を下げた。
「えっと……話って言っても、俺、ただの荷物持ちだから、ダンジョンの攻略情報とかは全然持ってないよ? お嬢ちゃんの役には立てないと思うけど」
「攻略情報なんて聞きません」
瞳は力強く首を振った。その眼差しは、鑑定士としての冷徹な分析と、彼に対する強烈な興味で熱を帯びていた。
「あなたの、これからの話です」
その後ろで、『鉄の牙』のリーダーが「さっさと石運べや!」と怒鳴る。
ドクは「はい、すぐ行きます!」と慌てて頭を下げながら、背負子を背負い直した。
その無様な、しかしどこか滑稽で、絶対的な安心感を放つ背中を見送りながら。
瞳は小さく息を吐き、口元を挑戦的に引き締めた。
(私が、あなたを世界一の探索者にして見せます。覚悟していてくださいね、ドクさん)




