第6話 下層ダンジョンでの出会い
午前10時、第1ダンジョン南口ゲート。
「お前が『紅蓮の剣』から逃げ帰ってきたっていう、例の荷物持ちか?」
Dランクパーティ『鉄の牙』のリーダーらしき男が、ドクの顔に向けて紫煙を吐き出しながら鼻で笑った。使い込まれた形跡のない真新しいだけの安い革鎧に、手入れを怠り刃こぼれしたままの長剣。腰にぶら下げたポーションも最も純度の低い安物だ。彼らから漂うのは、実力ではなく大声と態度で自分を大きく見せようとする三流探索者特有の匂いだった。
ドクは煙を吸い込まないように浅く息をしながら、深く頭を下げた。
「はい。本日は一日、よろしくお願いします」
波風を立てない。言い返さない。どんな理不尽な態度を取られても、ニコニコと笑ってやり過ごす。それが、才能を持たざるFランクがこの過酷な業界で生き延びるための唯一の処世術だ。
第1ダンジョンは、初心者から中堅まで幅広い層が利用する国内最大規模の迷宮である。彼らが向かう第10階層付近は、安全が確保された下層エリアであり、主に鉄鉱石や魔力鉱の採掘ポイントとして知られている。危険が少ない分、実力のないパーティが小遣い稼ぎのために屯する場所でもあった。
「チッ。Aランク様の足引っ張って死にかけたような鈍亀に、ウチのペースが合わせられるかよ。しかもなんだ、後ろのそのドローンは。お前みたいな底辺が、いっちょ前に配信なんかしてんじゃねえよ。まさか俺たちの活躍を盗撮してバズろうって魂胆じゃねえだろうな」
「すみません、これは昨日のパーティの忘れ物で……ギルドへの返し方も、電源の切り方もわからなくて。ただ浮いてるだけなんで、気にしないでください。絶対に皆さんの邪魔はしませんから」
「ふん。まあいい。どのみち俺たちの稼ぎの邪魔だけはすんなよ。日当6000円分、死ぬ気で石運べ」
薄暗いゲートをくぐり、ダンジョン内部へ。
第10階層。湿った土の匂いと、時折遠くの坑道で反響する魔物との交戦音が、冷たい空気と共に肌を撫でる。照明用の発光苔が点在し、視界はそれなりに確保されていた。
『鉄の牙』の三人は、鉱脈を見つけてはピッケルで数回叩き、すぐに「疲れた」「今日はハズレだ」と文句を言いながら座り込んで休憩を繰り返していた。周囲の警戒すら怠り、安いポーションを回し飲みしながらパチンコの成果や愚痴で雑談に花を咲かせている。
一方、ドクは黙々と岩肌に向かい、ひたすらピッケルを振るっていた。彼に与えられた『万物収納』は容量が少ないハズレ枠だと本人は思い込んでいるため、掘り出した鉱石はすべて背中の木製背負子に物理的に積み上げなければならない。明日の家賃と食費を稼ぐため、休む暇などなかった。
(……なんか、今日のピッケル、すごく使いやすいな)
ドクは不思議に思っていた。
いつもなら全身のバネを使って数回全力で叩かなければ砕けない硬い岩盤が、まるで焼きたてのビスケットのようにサクサクと崩れていくのだ。ピッケルの先が軽く触れただけで、周囲の岩がごっそりと剥がれ落ちてくる。
背中に背負った木製の背負子には、すでに自身の体重を優に超える大量の鉄鉱石が積まれている。普通なら足腰が悲鳴を上げ、一歩踏み出すのすら困難な重量だ。しかし、不思議なことに今日は全く重さを感じない。関節の痛みも、筋肉の張りもない。
(昨日の夜、ぐっすり寝たのが効いてるのかな。それともこのピッケル、ギルドの新品だから特別製なのか?)
自分の肉体が『ストック解放』の余波で異常な進化を遂げているなどとは微塵も疑わず、ドクは「今日はなんだか体調がいい」という自己完結で納得していた。長年の疲労と栄養失調が抜けただけだ、と。
「おい田中。俺たちはちょっと奥のエリアまで様子見てくる。お前はここで石掘り続けとけ。戻ってくるまでに背負子二つ分、満タンにしておかないと日当減らすからな」
「あ、はい。わかりました。いってらっしゃいませ」
『鉄の牙』の面々は、面倒な作業をドク一人に押し付け、タバコを吹かしながら姿を消した。
ドクは一人残され、無心で岩を削り続けた。
赤いランプを点滅させたドローンが、その単調な作業を背後から静かに映し続けている。
数十分後。
ピッケルを振るう手を止めたドクの耳に、微かな異音が届いた。
岩を砕く音ではない。くぐもった破砕音と、何かが岩壁に激突する鈍い音。そして、短く切迫した悲鳴。
(なんだ……?)
ドクはピッケルを置き、音がした坑道の奥へと目を凝らした。
『鉄の牙』の連中がモンスターと交戦している音かもしれない。しかし、様子が少し違う。聞こえてくるのは、複数の重い足音と、切羽詰まった若い女性の声だった。
ドクは迷った。
Fランクの荷物持ちが戦闘に介入しても、足手まといになるだけだ。自分の身を守るのが最優先。それが探索者の鉄則だ。
だが、あの悲鳴は明らかに限界を伝えていた。命のやり取りに慣れていない者が発する、本当の恐怖。
ドクは短く息を吐き、近くにあった手頃な石をいくつかポケットに突っ込むと、音のする方へ走り出した。
走っても、昨日砕かれたはずの膝に痛みはない。身体は驚くほど軽く、一歩踏み出すだけで風のように坑道を駆け抜けた。
角を曲がった先の、少し開けた空間。
そこにいたのは、『鉄の牙』の面々ではなかった。
防具の所々がひび割れ、肩で激しく息をしている若い女性。短い黒髪に、健康的な肌。意思の強そうな瞳が、今は絶望で揺れている。手には柄の長いショートスピアが握られていたが、その穂先はすでに刃こぼれを起こし、使い物にならなくなっていた。
彼女を取り囲んでいたのは、第10階層には不釣り合いなモンスターだった。
『ケーブ・マンティス』。
硬質な岩のような外殻を持ち、人間の背丈ほどもある巨大なカマキリの魔物。通常は第20階層以降の中層に生息するCランクモンスターだ。それが三体。
完全にイレギュラーポップだった。
「くっ……!」
女性――渡部瞳は、飛びかかってきたマンティスの鎌をスピアの柄で辛うじて弾いたが、その衝撃で体勢を大きく崩し、膝をついた。ソロでの立ち回りを熟知している彼女でも、格上のモンスター三体からの同時攻撃を捌ききれるはずがなかった。
(まずい。これ以上は防げない……!)
手持ちのポーションはとうに尽きている。助けを呼ぶ通信機も先ほどの攻撃で壊された。自身のスキルである『鑑定』は、相手の弱点を暴き出すことはできても、現状を打破する直接的な戦闘力にはならない。
もう一体のマンティスが、死角から彼女の首めがけて鋭い鎌を振り下ろす。
瞳は死を覚悟し、目を強く閉じた。
「おい、こっちだ!」
野太い声と共に、石の礫が飛んできてマンティスの複眼に命中した。
「ギチィッ!?」
マンティスが不快な鳴き声を上げ、標的を瞳から逸らす。
瞳が目を開けると、そこには薄汚れた作業着を着た、無精髭の男が立っていた。
背中にはドローンが浮いている。
(誰……!? 荷物持ち!? なんであんな底辺職がこんなところに)
「お嬢ちゃん、大丈夫か! 立てるなら、今のうちに後ろの通路に……」
ドクが声をかけた瞬間、怒り狂ったマンティス三体が、一斉に彼に向かって跳躍した。
「ダメ、逃げて!!」
瞳の叫び声が坑道に響く。
Fランクの荷物持ちが、Cランクのモンスターの群れに狙われた。数秒後には細切れの肉塊に変わる、直視に堪えない絶望的な光景。
マンティスの鋭利な鎌が、四方からドクを切り刻もうと迫る。
ドクは咄嗟に、ポケットに入っていた残りの石を投げつけようとして、右腕を大きく振りかぶった。
それだけだった。
魔力も練らず、スキルも発動しない。ただ、手首のスナップを利かせて腕を振っただけ。
しかし。
彼の中に蓄積された莫大な『ストック』が、その些細な動作をトリガーとして解放された。
――音が、消えた。
ドクの腕から放たれた目に見えない衝撃波が、空間そのものを物理的に歪ませた。
空気が爆発的に膨張し、不可視の断層となって前方に押し寄せる。
跳びかかってきた三体のケーブ・マンティスは、悲鳴を上げる間もなく、その波に呑み込まれた。
岩のように硬い外殻が飴細工のように砕け散る……という過程すらない。緑色の体液を撒き散らす暇さえ与えられず、瞬きする間に微塵に粉砕され、霧のように消失していく。
衝撃波は止まらず、マンティスたちの背後にあった強固な岩壁に激突した。
耳をつんざくような爆音と共に、数十メートルにわたる分厚い岩盤が、まるで最初からそこに存在しなかったかのように綺麗に消え去った。
巻き上がった凄まじい土埃が、坑道の視界を完全に遮る。
「…………え?」
瞳は、地面にへたり込んだまま、瞬きすら忘れてその光景を凝視していた。
彼女の優秀な頭脳をもってしても、現実を処理しきれずに思考が完全にフリーズしている。
Cランクのモンスターが一瞬で消滅した。いや、それどころか岩壁ごと抉り取られて地形が変わっている。
あの男がやったのか? ただ、右腕を振っただけで?
土埃がゆっくりと晴れていく。
そこには、右腕を振りかぶった姿勢のまま、間抜けな顔をして固まっている男の姿があった。
ドクは自分の手と、抉り取られた岩壁を交互に見比べ、そして大きく息を吐いた。
「いやぁ、びっくりした。いきなり落盤が起きるなんてな。この辺り、だいぶ地盤が緩んでたみたいだ」
男は、本気でそう思っているような口調で呟いた。
「でも、あのカマキリたちも巻き込まれたみたいで助かった。運が良かったよ、お嬢ちゃん」
「…………は?」
瞳の口から、ひきつったような乾いた声が漏れた。
落盤? 緩んでいた? 運が良かった?
この男は、今自分の目の前で何が起きたのか、本気で分かっていないのか?
ドクは瞳に歩み寄り、無骨な手を差し伸べた。
「怪我はない? 立てるか?」
差し出されたその手には、マメとタコがびっしりとできている。どう見ても、高度な魔法を極めた高ランク探索者の手ではなく、長年肉体労働をしてきた底辺の手だ。
瞳は震える手で、その手を取った。
引き上げられる瞬間、彼女はごくりと息を呑み、無意識のうちに自身のレア職スキルである『詳細鑑定』を発動させていた。
対象の隠されたステータス、スキル、その構造までを暴き出す、彼女だけの特別な目。
瞳の網膜に、男のステータス情報が展開され――ようとした。
『エラー。対象の保有エネルギーが計測器の上限を超過しています』
『警告。概念圧縮率が規定値を逸脱。視覚化に失敗しました』
『エラー。エラー。エラー』
視界を埋め尽くすほどの、夥しい赤文字の警告。
そして、そのノイズの奥に一瞬だけ見えた、9を並べても足りないほどの暴力的な数字の羅列と、信じられないほどの膨大な『ストック』の気配。
「……っ!?」
瞳は弾かれたように彼の手を離し、息を呑んだ。
読み取るだけで精神が発狂しそうになるほどの、恐ろしい情報の奔流。
土埃にまみれたその顔は、ただのくたびれたおっさんにしか見えない。
「お嬢ちゃん? どうかしたか? どこか痛むのか?」
男は、不思議そうに首を傾げた。
(な、なに……この人……!?)
瞳は、目の前の男の顔を、ただただ戦慄と共に呆然と見上げるしかなかった。




