第51話 日常という名の異常
昨夜の焼肉店での騒ぎと、ドローンの配信切り忘れという致命的なミスから一夜が明けた。
築40年を超えるボロアパート『木漏れ日荘』。
ドクの住む四畳半の部屋に、朝の白々とした光が障子の破れ目から真っ直ぐに差し込んでいる。壁は薄く、外階段を昇り降りする住人の足音すら筒抜けのこの極小空間が、今、世界で最も人口密度が高く、かつ最も危険な場所となっていた。
「ドク、私の分はネギを少し多めにお願い。あなたの刻むネギは、繊維が潰れていなくて香りが立つのよ」
「アタシは肉増しだ! アマゾンのジャングルで落ちた筋肉を取り戻さなきゃならねえからな!」
「クロエ、筋肉の修復に必要なのはタンパク質ですが、過剰な脂質は内臓疲労を招きます。ドク、彼女の豚肉は一度湯通しして余分な脂を落としたものを提供してください」
「あらあら。皆様、朝からお元気ですこと。ドクさん、私は温かいお茶をいただけますか? 急須で淹れてくださるお茶が、一番心が落ち着きますわ」
ルシア、クロエ、エレナ、ヴィットーリア。
世界各国のトップに君臨するSランク探索者たちが、狭いちゃぶ台を囲んで座布団の上にひしめき合っている。部屋の隅では、美沙が徹夜明けの目を擦りながらあぐらをかき、アリサラが天井の梁に器用にぶら下がってその光景をニヤニヤと見下ろしていた。
彼女たちが無意識に発する魔力や闘気が、四畳半の空間で複雑に絡み合い、障子がビリビリと微かな震えを帯びている。並の探索者なら、この部屋の空気を吸い込んだだけで気絶するほどの濃密なプレッシャーだ。
しかし、その暴風の目であるキッチンに立つドクの動きには、微塵の乱れもなかった。
「はいはい。ネギ多め、肉増し、脂少なめね。お茶は今淹れるから、少し待ってて」
ドクは使い込まれた包丁を滑らせ、長ネギを等間隔で小口切りにしていく。トントントントンという軽快な音が、張り詰めた空気を心地よく中和していく。
彼にとって、Sランカーたちの発する威圧感など、日雇いの現場で怒号を浴びるプレッシャーに比べればどうということはない。
コンロの上では、年季の入った大鍋からごま油と出汁の香りが立ち昇っている。
昨夜から水に浸しておいた昆布と煮干しで丁寧に取った一番出汁。そこに、ごま油でしっかりと炒めた豚バラ肉と、大根、人参、ごぼう、こんにゃくを加え、野菜の甘みが溶け出すまでじっくりと煮込んだ豚汁だ。仕上げに二種類の味噌をブレンドして溶き入れ、火を止めて味を落ち着かせてある。
「次は卵焼きだな」
ドクはボウルに卵を割り入れ、箸の先をボウルの底から離さないようにして、空気を入れないように静かに、かつ手早くかき混ぜた。ここに少しの出汁と薄口醤油、そして隠し味にみりんをほんの数滴垂らす。
卵焼き用の銅製フライパンなどという上等なものはない。長年使い込んだ丸い鉄フライパンを火にかけ、油を馴染ませる。手のひらをかざして温度を測り、最適のタイミングで卵液の三分の一を流し込んだ。
ジュワァァッ!
小気味良い音と共に、卵液が縁からチリチリと固まり始める。ドクは手首のスナップを効かせ、菜箸で素早く手前に巻き込み、空いたスペースに油を足して残りの卵液を流し込む。
温度が下がりすぎないよう、しかし焦げないよう、コンロの火からフライパンを遠ざけたり近づけたりしながら、完璧な火加減をキープする。魔法やスキルではない。限られた食材と道具で「いかに美味く食べるか」を追求してきた男の、純粋な技術だった。
焼き上がった出汁巻き卵を巻き簾で包み、形を整えてから包丁を入れる。
黄金色に輝く断面からは、たっぷりと含んだ出汁がジュワッと滲み出していた。
「お待たせ。豚汁と、出汁巻き卵だ」
ドクがお盆に乗せて料理を運ぶと、ヒロインたちの間にピリッとした緊張感が走った。
誰がドクの隣に座るのか。
無言の牽制戦が繰り広げられる中、ドクはごく自然な動作でちゃぶ台の中央に大皿を置き、それぞれの前に椀を並べていった。
「ルシアさんはネギ多め。クロエさんは豚肉多めで、エレナさんの言う通り、少しあっさりした部位を中心に盛っておいた。ヴィットーリアさんには加賀棒茶。美沙さんは徹夜明けだから、胃に優しいように大根を多めに。アリサラちゃんは……梁の上じゃ食べにくいだろ? 降りておいで」
誰かを特別扱いするわけでもなく、全員の体調と好みを完璧に把握した上での配膳。
その淀みない手際に、Sランクの美女たちは毒気を抜かれたように息をついた。
「……ほんと、タナカには敵わないね」
「いただきます。ああ、この出汁の香り……」
張り詰めていた空気が緩み、温かい湯気が四畳半を満たす。
ドク自身も隅の方に腰を下ろし、自分の分の豚汁をすすった。足元ではコロが、味付けなしの茹でた豚肉を夢中で頬張っている。
★★★★★★★★★★★
朝食が終わり、ルシアやクロエたちが各国のスポンサー対応やギルドからの呼び出しで一時的にアパートを後にした頃。
事後処理に追われていたマネージャーの瞳が、少し遅れて部屋にやってきた。
「おはようございます、ドクさん。……皆さん、もう出られました?」
「ああ、さっきね。瞳ちゃん、朝ごはんは? 豚汁、まだ残ってるよ」
ドクが尋ねると、瞳は少し疲れたように微笑みながら首を振った。
「ありがとうございます、でも朝は済ませてきました。それよりドクさん、今日の午後、少しだけ時間をもらえませんか?」
「時間? 全然構わないけど、新しい依頼か何か?」
「いえ……その。マネージャーとしての、今後の活動スケジュールのすり合わせです。それに、買い出しにも行くって言ってましたよね? 荷物持ち、手伝いますよ」
瞳は持っていたタブレットを胸に抱きしめ、少しだけ上目遣いでドクを見た。
その目元に微かなクマが浮かんでいるのを、ドクは見逃さなかった。昨夜の配信事故の後処理で、彼女がほとんど眠っていないことは想像に難くない。
「わかった。じゃあ、少し出かけようか」
ドクは立ち上がり、以前瞳に見立ててもらった黒のテーラードジャケットを羽織った。
初夏の八王子の街は、心地よい風が吹き抜けていた。
二人は駅前の大型スーパーへ向かって、並んで歩いていた。ドクは自然な足取りで車道側を歩き、瞳の歩幅に合わせてゆっくりと進む。
「昨日はごめんな。俺が機械に疎いせいで、瞳ちゃんに面倒をかけちゃったみたいで」
「いえ、慣れてますから。それに、あの程度の騒ぎでいちいち動じていたら、ドクさんのマネージャーなんて務まりませんよ」
瞳は強がって笑ってみせたが、ドクは立ち止まり、駅前広場の端にあるカフェのテラス席を指差した。
「買い物に行く前に、少し休まないか。スケジュールを見るなら、座った方がいい」
「えっ、でも……」
「俺がコーヒーを飲みたいんだ。付き合ってくれる?」
有無を言わさぬ、しかし押し付けがましくない提案。瞳は小さく頷き、二人はテラス席に腰を下ろした。
ドクはカウンターで注文を済ませると、自身のアイスコーヒーと、瞳の前にレモンタルトを置いた。
「これ……」
「疲れてる時は、酸味と甘味がいいって言うからさ。……いつも、俺のために無理してくれてありがとうな、瞳ちゃん」
ドクの真っ直ぐな言葉に、瞳は胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じた。
世界最強の力を持つ男。大国の首脳やSランクのトップ探索者たちが血眼になって求める存在。
それなのに、目の前の彼は、自分のマネージャーの睡眠不足を気遣い、ケーキを一つ勧めることに心から気を砕いている。
「ドクさんは……」
瞳はフォークを握りしめ、ぽつりとこぼした。
「本当に、変わらないですね。世界中があなたの力を欲しがっているのに、あなたはいつも、私の歩幅に合わせて歩いてくれる」
「変わる理由がないからね。俺はただの田中ドクだし、瞳ちゃんは俺の大事なマネージャーだ。それ以上でも以下でもない」
ドクはアイスコーヒーのグラスに触れながら、眼前の街路樹をぼんやりと眺めた。
「俺は、あのアパートで朝起きて、みんなが美味しいって言ってくれるご飯を作って。それで、日雇いでも何でもいいから働いて、家賃を払う。そういう、手の届く範囲の当たり前が好きなんだ。……だから、瞳ちゃんが裏で俺のその『当たり前』を守ってくれてることには、本当に感謝してる」
その言葉には、虚飾も、謙遜すらなかった。
確固たる自己と、世界に対する静かな達観。
瞳はレモンタルトを一口食べた。爽やかな酸味と甘味が、口の中に広がる。
自分は、この男をプロデュースして世界に認めさせると決めた。しかし、本当に彼を守っているのは自分なのだろうか。彼のこの底知れない器の大きさに、自分の方が守られ、救われているのではないか。
「……覚悟してくださいね、ドクさん」
瞳は顔を上げ、挑戦的な、それでいてどこか泣き出しそうな笑顔を作った。
「私があなたのマネージャーである限り、世界はあなたを放っておきません。その平和な日常ごと、私がプロデュースしてみせますから」
「はは、お手柔らかに頼むよ」
ドクが屈託なく笑う。
その笑顔を見つめながら、瞳は強く決意した。
この男の隣に立つ資格があるのは、力を持つ者たちではない。彼の日常を誰よりも理解し、共に歩める者だけだ。
「よし。ケーキを食べたら、スーパーに行きましょう! 今日は特売日ですから、たくさん買い込みますよ。荷物持ち、期待してますからね」
「任せてくれ。それこそが、俺の本職だからね」
カフェを出た二人は、駅前の大型スーパーへと足を踏み入れた。
平日の午後にもかかわらず、特売日とあって店内は主婦層で賑わっている。ドクは入り口でカートを引き寄せると、自然な動作で瞳の歩くスペースを確保しながら生鮮コーナーへ向かった。
「おっ、今日は大根が安いな。これなら今夜は美沙さんの好きな豚バラ大根にできる」
「ドクさん、こっちの特売の豚肉、まだ残ってますよ! パックが大きいですけど、みんなで食べるならこれくらいすぐなくなっちゃいますね」
瞳が嬉しそうにジャンボパックの豚肉を指差すと、ドクは目を細めてそのパックのラップ越しに肉の質を確認した。
「うん、赤身と脂のバランスがいい。これにしよう。……あ、こっちのトマトもヘタがピンとしてて美味しそうだ。サラダにしようか」
「賛成です! あ、ドクさんの特製ドレッシングで食べたいです」
「わかった。じゃあ、玉ねぎと黒胡椒も買っておかないとな」
カートを押すドクの隣を、瞳が楽しげに歩く。
二人で今夜の献立を相談しながら、キャベツの重さを比べたり、特売の卵をカゴに入れたりする光景は、どこからどう見ても仲の良い恋人同士だった。
すれ違う買い物客の何人かが、仕立ての良いジャケットを着こなすドクのワイルドな顔立ちと、その隣で笑顔を見せる可愛らしい瞳の組み合わせに、思わず振り返って視線を送っている。
「なんだか、すごく見られてる気がします……」
瞳が少しだけ身を縮めると、ドクは不思議そうに周囲を見回した。
「そうか? あ、もしかして、特売の卵を二パック買ったのが目立ったのかな。一人一パック限定だったりした?」
「……そういうことじゃないと思いますけど。ドクさんが目立つんですよ、色々と」
「俺が?」
ドクはきょとんとした顔で首を傾げた。その無自覚さに、瞳は小さくため息をつきながらも、内心で少しだけ優越感を覚えていた。
世界中が血眼になって探している『ワンパンおじさん』が、今、自分の隣でカートを押し、夕飯の献立に真剣に悩んでいる。
このささやかで、何よりも尊い時間を共有できるのは、マネージャーである自分だけの特権だ。
「さ、次は洗剤コーナーに行きましょう。詰め替え用が少なくなってましたよね」
「ああ、そうだった。重いから俺が持つよ」
レジでの会計を済ませ、両手にずっしりと重いエコバッグを提げたドクの隣で、瞳は自身の小さなショルダーバッグだけを肩にかけて歩いていた。
初夏の眩しい日差しの中、二人の背中が街の風景に溶けていく。
彼らの騒がしくも尊い日常は、世界がどれほど変わろうとも、決して揺らぐことはない。
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