第52話 平和な散歩動画
スーパーからの帰り道。
初夏の眩しい日差しを遮るように、大通り沿いの街路樹が心地よい青葉の影をアスファルトに落としていた。
両手にずっしりと重い巨大なエコバッグを提げたドクは、街の喧騒を背にしながら満足げに目を細めた。
「ふぅ。やっぱり特売日はすごい熱気だったな。でも、おかげで良い豚バラブロックと、泥付きの大根が安く買えた。これで今夜は美味い豚バラ大根ができるぞ」
「ええ、完璧な立ち回りでした。特売の卵タイムセールでのドクさんのあの隙間を縫うような体捌き……あれなら、どんな高密度なモンスターの群れでもノーダメージで抜けられますよ」
「大げさだな。おばちゃんたちの熱気に比べたら、ダンジョンのモンスターなんて素直なもんさ。みんな生活がかかってるからな」
隣を歩く瞳の冗談めかした称賛に、ドクは屈託なく笑ってネギの飛び出たエコバッグを肩に担ぎ直す。
中には、Sランク探索者四人とよく食べる魔道具技師、そして自分の胃袋を満たすための尋常ではない量の食材が隙間なく詰め込まれている。一般的な成人男性であれば、持ち上げることすら困難な重量のはずだが、ドクの太い腕はピクリとも震えず、首筋に浮かぶ血管すら平時のままだ。
長年、自身の体重を遥かに超える荷物を背負い、理不尽な死線を潜り抜けてきた彼にとって、この程度は文字通り「羽のように軽い」のだ。
その足元では、コロが「ワフッ」と短く吠えて、ドクのブーツの踵にじゃれついていた。
瞳が奮発して買った、赤いナイロン製の丈夫なリードに繋がれ、ドクの歩幅に合わせて元気よく短い手足を動かしている。道端の電柱の匂いを嗅いでは、時折ドクの顔を見上げて短い尻尾を振った。
「こらこら、コロ。あんまり引っ張るな。車が来るから、こっちの端を歩きなさい」
ドクは重い荷物を片手に持ち替え、空いた手でリードを短く持ち直すと、コロを車道側から遠ざけるように歩道の端へと誘導した。長年の重労働でタコだらけになった分厚い指先が、リード越しにコロの動きを優しく、かつ確実に制御している。
「さて、ドクさん。ここからアパートへの帰り道ですが……ドローンのスイッチ、入れますからね」
瞳は鞄に忍ばせていた特注の小型ドローンを取り出し、空中に放り投げた。
赤いランプが点滅し、無音のローターが回転する。
「えっ。こんな、ただネギ背負って帰るだけの道を配信するのか? 誰も見ないんじゃないか?」
「見ます。絶対に見ますから、ドクさんはいつも通り、コロのペースに合わせて歩いて帰ってください」
瞳は有無を言わせぬ笑顔でタブレットを操作した。
ドクのプライベートチャンネル、『ワンパンおじさん公式』の配信がスタートした瞬間だった。
――ピコン、ピコン、ピコン。
瞳の手元のタブレットが、異常な速度で通知を吐き出し始める。
配信開始からわずか数十秒。通知が行き渡った瞬間に、待機していた世界中のユーザーが雪崩れ込んできたのだ。
【きたああああああああああ!】
【世界最強のおっさん!!!】
【って、ネギ!? エコバッグからネギ出てるぞ!?】
【どこから配信してるんだ!? ……って、これ普通の日本の歩道じゃねえか!】
【コロたんきゃわわわわわわ!】
【神狼の幼体が、完全にただの黒柴みたいな扱い受けてるwww】
【このおっさん、あれだけ世界をひっくり返しといて、スーパーの帰り道かよ!】
コメント欄が滝のような速度で流れていく。
各国首脳や巨大ギルドのトップ、世界中のアナリストたちが血眼になって情報収集を行っているそのチャンネルで、今映し出されているのは、くたびれたジャケットを着た男が、ネギと大根を背負って子犬と散歩しているだけの映像だった。
ドクは周囲の喧騒やドローンの存在を気にする様子もなく、ただ淡々と歩を進める。
その足取りは、極めて静かだった。数十キロの荷物を持っているにもかかわらず、足裏がアスファルトを叩く音がほとんどしない。重心は常に丹田に落ちており、肩のラインは一切ブレない。すれ違う自転車や通行人を避ける時の動作も、無駄な体重移動がコンマ数ミリも存在しなかった。
【……おい、武術やってる奴なら分かると思うが、この歩き方、異常だぞ】
【ああ。完全な『歩法』だ。足裏の接地面積のコントロールが完璧すぎる。いつでも全方向に反撃、あるいは回避できる姿勢を維持したまま、完全にリラックスして歩いてる】
【あのエコバッグ、絶対数十キロはあるはずなのに、肩の沈み込みがゼロだ。どんな体幹してんだよ……】
【フェンリル・パピーも、あの男の足の動きに完全に同調してる。絶対的な主従関係が完成してる証拠だ】
【隙がなさすぎる……これが世界の頂点か】
世界中のトップ層が、ドクの無自覚な「日常の歩行」から底知れない有能さを読み取り、勝手に戦慄している。
当のドクは、道端のタンポポの綿毛に飛びつこうとするコロを「こらこら」と笑いながら制止しているだけだというのに。
やがて一行は、築40年を超えるボロアパート『木漏れ日荘』へと辿り着いた。
「ただいまー……って、みんな出かけてるみたいだな」
四畳半の部屋の鍵を開けると、ルシアやエレナたちの姿はなかった。靴の数からして、美沙の工房にでも遊びに行っているのだろう。静かな部屋には、初夏の風が障子を揺らす音だけが響いていた。
「ドクさん、荷物は私が冷蔵庫にしまいますから。少し休んでてください」
「いや、いいよ。豚肉は小分けにして冷凍したいし、大根は葉っぱを落とさないとすぐ萎びちゃうから。俺がやるよ」
ドクは手洗いうがいを済ませると、手際よく食材の処理を始めた。
シンクの前に立ち、泥のついた大根を丁寧に洗い流す。包丁を握ると、迷いのない所作で葉の根元をスパッと切り落とし、葉の部分は細かく刻んで塩揉みの準備をする。続いて巨大な豚バラブロックをまな板に乗せ、美しい断面で等間隔に切り分けていく。その流れるような無駄のない手つきもまた、ドローンのレンズを通して世界中に配信されている。
【包丁さばきまでプロ級かよ……】
【武器の扱いが完璧な証拠だ。刃筋が一切ブレてない】
【あの分厚い指で、なんであんなに繊細な作業ができるんだ】
【俺、今夜は豚バラ大根にするわ】
「それじゃあ、私はお茶を淹れますね。……あ、ドクさん。コロが最近、毛の生え変わり時期みたいで、畳に結構抜け毛が落ちてますよ」
瞳が急須にお湯を注ぎながら言った。
「ああ、本当だ。黒い抜け毛がフワフワしてるな。ちょっと掃除するか」
ドクは手を拭くと、部屋の隅に立てかけてあった柄の長い粘着式カーペットクリーナー――通称『コロコロ』を手に取った。
ビリッ、と古いテープを剥がし、新しい粘着面を露出させる。
「さて、コロ。ちょっとそっち退いててくれよ」
ドクが畳の上で、コロコロを滑らせた。
ザーッ、ザーッ。
独特の粘着音が、静かな四畳半に響き渡る。
その瞬間。
部屋の隅で丸くなっていたコロが、弾かれたように立ち上がった。
「グルルゥ……」
コロの喉の奥から、低い唸り声が漏れる。
Aランク魔獣としての威圧感……は全くなく、ただの好奇心旺盛な子犬が、得体の知れない「ザーザー鳴る動く物体」に対して臨戦態勢を取っただけの、なんとも可愛らしい姿だった。短い尻尾がピンと立ち、前足を少し開いて腰を落とす。
「ん? なんだコロ、掃除機は慣れたけど、こいつは初めて見たか?」
ドクが面白そうに目を細め、コロコロをわざとコロの近くで、前後に短く動かした。
ザッ、ザッ。
「ワフッ!」
コロが鋭く吠え、ドクの手元にあるコロコロに向かって猛然と飛びかかった。
目にも留まらぬ速度――Aランク魔獣の敏捷性が、こんな無駄なところで遺憾なく発揮される。シャドォッ! と黒い残像を残し、コロはコロコロのローラー部分に両方の前足で強烈な飛びつき攻撃を見舞った。
バシィッ!
「アゥッ!?」
直後、コロの短い悲鳴が上がった。
飛びついた前足の肉球と柔らかな毛が、新品の粘着テープにベッタリと張り付いてしまったのだ。
「あーあ、言わんこっちゃない」
ドクが苦笑してコロコロを持ち上げると、コロは両前足をテープにくっつけたまま「アゥアゥ」と情けない声を上げ、宙で短い後ろ足をバタバタと動かした。
未知の敵の強烈なホールド攻撃に、神狼の幼体が完全敗北を喫した瞬間である。
【ぶふっwwwww】
【コロたん、粘着テープに完敗wwww】
【残像が見えるほどの速度で飛びかかって、自ら捕獲されにいくスタイル】
【前足くっついてバタバタしてるの可愛すぎるだろおおおおお!】
【ダメだ、鼻血出そう】
コメント欄が、かつてない速度で「草」と「可愛い」の文字で埋め尽くされていく。
「こらこら、暴れると余計にくっつくぞ。大人しくしてろ」
ドクはコロコロの柄を床に置き、宙吊りになっているコロの小さなお腹を下から優しく片手で支えた。そして、もう片方のタコだらけの太い指先で、肉球の隙間に張り付いた粘着テープを、毛が抜けないように慎重に、ゆっくりと剥がしていく。
「ほら、痛くないだろ。ゆっくりな」
ドクの手つきは、信じられないほど繊細で、慈愛に満ちていた。
長年、他人の荷物を持ち、仲間を生かすためだけに裏方として手を汚してきた男。その分厚くごつい手は、自身の何万倍もの価値があるであろうAランク魔獣の幼体を、まるで大切な宝物を扱うように優しく撫で、テープを剥がしてやる。
テープから解放されたコロは、「キュゥン」と甘えた声を出し、そのままドクの分厚い胸板に飛び込んで、首筋をペロペロと舐め回した。
「はははっ、くすぐったいって。わかった、わかったから。お前は本当に甘えん坊だな」
ドクは目尻を下げ、コロを抱きしめ返してその背中を撫でた。
狭く、古びた四畳半の部屋。
世界を滅ぼせるほどの力を持った男が、子犬と共に床に座り込み、無邪気に笑い合っている。
ただそれだけの、どこにでもある平和で、温かい日常の風景。
『同接数:300,012,504人』
瞳の持つタブレットの画面端で、同時接続者数がついに3億人を突破した。
言葉も、人種も、国境も超えて。
今、世界中の人々がこの小さな四畳半から配信される「究極の癒やし」に釘付けになり、国家間の緊張も、権力闘争も忘れて、誰もが画面の前で同じように穏やかな笑みを浮かべていた。
「……やっぱり、ドクさんはすごい人ですね」
瞳は、淹れたての麦茶のグラスを握りしめながら、誰にも聞こえない声で小さく呟き、誇らしげに微笑んだ。
世界がどれほど彼を祭り上げようと、彼のこのささやかで尊い日常は、マネージャーである自分が絶対に守り抜いてみせる。そう心に誓いながら。
【書籍発売のお知らせ】
作者の別作品『実力S級の俺、配信切り忘れで「虚無顔でボスを瞬殺する姿」が全国放送されてた件。今さら「ただの荷物持ち」とは言えない~定時で帰りたいので、追放してくれてありがとう~』第1巻が、9月4日に発売されます。
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