第49話 新たな謎と無限のストック
熱帯特有のまとわりつくような湿気は、地下数百メートルに達したあたりから、まるで別の惑星に降り立ったかのような冷たく無機質な空気に変わっていた。
アマゾン川流域に口を開ける第7ダンジョン、未踏エリア最深部。
数日に及ぶ過酷な探索の末、鬱蒼とした樹海と地下迷宮を抜けた一行がたどり着いたのは、巨大な黒曜石のドームのような地下空洞だった。壁面は人工物のように滑らかで、まるで何者かが巨大な球体で岩盤をくり抜いたかのような不自然な空間が広がっている。
「……信じられない。何かしら、この異常な魔力密度は……」
エレナが青緑の瞳を戦慄に見開き、白銀の杖を強く握り直した。彼女の額には、極寒の空間にもかかわらず脂汗が浮かんでいる。ヨーロッパ最強のサポーターである彼女の研ぎ澄まされた魔力感知能力が、空間そのものが持つ異常なエネルギー量に警鐘を鳴らし続けていた。呼吸をするだけで、濃密な魔力が肺を焼き、血液を沸騰させようとする。
空洞の中央。
そこには、高さ数十メートルにも及ぶ巨大なクリスタルが鎮座していた。不規則な多面体で構成されたそれは、まるで脈打つ心臓のように青黒い光を放っている。
その光が明滅するたびに、周囲の空間が陽炎のように歪んだ。重力すらも異常をきたしているのか、足元の小石がフワフワと宙に浮かんでは、見えない圧力に押し潰されて粉々に砕け散っている。
「これが、このダンジョンの……いや、モンスターが無限に湧き出す原因の『核』ってわけかい」
クロエが一歩前に出ようとしたが、見えない壁にぶつかったように顔を顰めた。Sランクの獣闘士である彼女の強靭な肉体をもってしても、クリスタルから放たれる圧倒的なエネルギーの奔流に肌が焼かれ、細胞が本能的に拒絶反応を示していた。闘争本能すらも恐怖に塗り潰される、圧倒的な格上の気配。
ルシアも無言で柄に手をかけているが、剣を抜くことすらためらわれるほどの重圧が空間を支配している。赤い髪は静電気を帯びたように逆立ち、額には濃い汗が浮かんでいた。ヴィットーリアが静かに祈りを捧げ、薄金色の浄化の領域を展開しているが、その光の結界すらも周囲の青黒い闇に侵食され、今にも押し潰されそうに軋み音を立てている。
「皆さん、これ以上は危険です! 空間の概念圧縮率が限界を超えてます。下手に刺激すれば、この空間ごと吹き飛びます!」
後方からタブレットを睨みつけていた瞳が、悲痛な声を上げた。
彼女の足元では、Aランク魔獣の幼体であるコロが、瞳のブーツに顔を押し付けるようにしてガタガタと激しく震えていた。普段は好奇心旺盛でやんちゃなコロだが、今は完全に野生の本能が『絶対的な死』を察知している。短い尻尾を後ろ足の間に深く巻き込み、小さな黒い毛玉を限界まで丸め、微かな鳴き声すら上げられないでいた。
そんな極限の緊張状態の中。
「よいしょっと」
間抜けな声と共に、総重量100キロを超える巨大なバックパックが、ドスンと岩盤に下ろされた。
「……ドク?」
ルシアが振り返った先で、ドクは肩紐から手を離し、首をコキコキと鳴らしていた。
「いや、なんか空気が重くて歩きにくいなと思って。荷物下ろして、ちょっとそこの石の様子を見てくるよ」
「ちょっとおじさん! 正気なの!? 本気で死にたいの!?」
アリサラが血相を変えて叫んだ。
だが、ドクの足はすでに踏み出されていた。
一歩、二歩。
Sランクたちですら一歩も進めない致死のエネルギー場の中を、ドクはまるで近所のコンビニに向かうような足取りで進んでいく。
彼の分厚いブーツが地面を踏みしめるたび、空間を歪めていた青黒いエネルギーの波動が、ドクの身体に触れた瞬間、何事もなかったかのように音もなく吸い込まれ、霧散していく。まるで静かな湖面に水滴が落ちたように、致死の重圧が波紋ひとつ立てずに彼の内側へと消えていく。
(なんだ……? 息苦しいくらい空気が張り詰めてるけど、別に熱くも痛くもないな)
ドクは不思議に思いながら、クリスタルの真下まで歩み寄った。
見上げるほど巨大な結晶体は、目前に迫る異物を排除しようと、さらに強烈な閃光とエネルギーを放つ。だが、それがドクの身体に触れた瞬間、波が砂浜に吸い込まれるように、一切の抵抗なく彼の内部へと消えていった。
彼の『万物収納』。
ダメージやバフだけでなく、空間に渦巻く純粋な魔力エネルギーの塊すらも、システムは「収納可能なストック」として認識していた。
クリスタルが数百年かけて蓄積してきた莫大なエネルギーが、ドクという底なしの器へと流れ込んでいく。ドク自身は「ちょっと静電気がピリピリするな」程度の感覚しか抱いていない。
やがて、クリスタルの脈動がゆっくりと落ち着き始めた。
青黒く濁っていた光が透明度の高い淡い青へと変わり、空洞を支配していた異常な重圧が嘘のように霧散していく。荒れ狂っていた魔力の嵐が嘘のように治まり、ひんやりとした無機質な空気だけが残った。
「……なんか、静かになったな」
ドクが振り返ると、全員が幽霊でも見たかのような顔でこちらを凝視していた。
空気が完全に凪いだことを察知したのか、後方で瞳の足元に隠れていたコロが、恐る恐る顔を上げた。ピンク色の鼻をひくひくと動かし、危険が去ったことを確認すると、「ワフッ!」と短い声を出して、嬉しそうにドクの元へトコトコと駆け寄っていく。ドクの足元に辿り着くと、安心しきった様子で彼の分厚いブーツに身体をすり寄せ、短い尻尾をパタパタと振った。
「ドクさん……あなた、自分が今何をしたか分かってますか?」
瞳がタブレットを抱きしめたまま、震える声で尋ねた。
「え? いや、なんか空気が悪かったから、ちょっと換気したみたいな……?」
そのあまりにも的を射ない回答に、Sランクのトップエクスプローラーたちは深い溜息をつくと同時に、脱力してその場に座り込んだ。
★★★★★★★★★★★
その夜。
無事にダンジョンの核を安定させ、地上のゲートステーションへと帰還した一行は、それぞれの部屋で深い休息を取っていた。
アマゾンの熱帯夜。ホテルの広いテラスで、ドクは一人、冷えたミネラルウォーターを飲みながら眼下に広がる街の灯りを見下ろしていた。
未踏エリアの探索がひと段落したことで、街はいつも以上の活気に満ちている。遠くから微かに、打楽器の情熱的なリズムと人々の歓声が、湿った熱風に乗って聞こえてきた。
「黄昏れてるの? おじさん」
音もなく、本当に唐突に。
ドクの隣のフェンスに、アリサラが寄りかかっていた。
ダンジョンでのタイトな特殊装備ではなく、風通しの良い漆黒のキャミソールワンピース。滑らかなシルク生地が、彼女のスレンダーでありながら女性らしい曲線を際立たせている。エキゾチックな顔立ちが、テラスのオレンジ色の間接照明に照らされてハッとするほど艶めかしく、吸い込まれるようなアーモンドアイが静かにドクを見つめていた。
「アリサラちゃんか」
ドクは驚く様子もなく、静かに答えた。彼女の神出鬼没な動きには、もうすっかり慣れていた。
「いや、黄昏れてるわけじゃないよ。ただ、あんな凄い景色の中を歩いてきた後だと、普通の街の灯りがなんだかホッとするなって」
「ふーん。ホッとするなら、もっとホッとする場所に行こうよ」
「え?」
「ほら、お祭りやってるみたいだし。少しだけ、私に付き合って」
アリサラはドクの背後から音もなく忍び寄ると、彼のジャケットの裾をいたずらっぽく引き、有無を言わせず歩き出した。ドクは苦笑しながら、大人しく彼女の背中を追う。
ゲートステーションのメインストリートは、各国の探索者や商人たちでごった返していた。
屋台からは香ばしい魔獣肉の焼ける匂いや、強烈なスパイスの香りが漂い、色とりどりのランタンが夜の闇を鮮やかに彩っている。民族衣装を着た踊り子たちや、酒盛りをする探索者たちの笑い声が溢れ、生命力に満ちた喧騒が通りを支配していた。
アリサラは目を輝かせながら、見慣れない屋台の食べ物を次々と買い込んだ。
「はい、これおじさんの分。なんか甘辛くて美味しいよ」
渡された串焼きを頬張りながら、ドクは人混みの中で常にアリサラの半歩斜め後ろを歩いていた。
人混みを歩く中、ドクは自然にアリサラを内側へと促し、すれ違う人々の波からその広い肩で彼女を静かに庇っていた。すれ違う大柄な探索者の肩がぶつかりそうになれば、さりげなく自身の分厚い身体を盾にして軌道を逸らす。泥酔してふらつく客がいれば、相手に気づかれない程度の最小限の動きで歩幅を調整し、アリサラとの間に壁を作る。足元に転がっている空き瓶があれば、彼女が気づく前にブーツの先で軽く弾きのける。
アリサラは、その一挙手一投足に視線を向け、ふと呟いた。
普段なら誰よりも早く気配を察知して敵を躱すはずの彼女は、その気遣いに気づきながらも、あえてドクの先回りをせず、ただ彼が作り出す絶対の安全に身を委ねていた。
彼女は、世界中の危険地帯を渡り歩いてきたSランクの盗賊だ。自分の身は自分で守るのが当たり前であり、常に周囲への警戒を怠らない。しかし、この男の隣にいる時だけは、その張り詰めた神経を完全に解き放つことができる。
それは彼女にとって心地よい敗北感であり、同時に、他の誰にも邪魔させたくない極上の甘い独占欲でもあった。
「私のエスコート、すっかり板についてきたじゃん。ちょっと前まではオロオロしてたのに」
アリサラはいたずらっぽく笑い、ドクの腕に自身の肩を軽くぶつけた。
「他の女の前でも、こんな風に無意識に甘やかしてるの? ……それとも、私だけ?」
小悪魔的なからかいの言葉の裏に、本気の独占欲を滲ませる。
ドクは困ったように頭を掻いた。
「いや、そんな器用なこと考えてる余裕ないよ。アリサラちゃんが歩きやすいように、ちょっと気を配ってるだけで……」
「ふふっ。そういうことにしておいてあげる」
アリサラは小さく息を吐くと、差し出された串焼きを直接口で咥え取った。
そのままドクの隣にピタリと寄り添い、我が物顔で当然のように彼の広い肩に頭を預ける。
「もう少しだけ、このまま歩かせて」
「ああ、もちろん」
周囲の喧騒が嘘のように遠のく中、ドクは穏やかに頷き、彼女の歩幅に合わせてゆっくりと夜の街を歩き続けた。
彼女の黒いアーモンドアイには、色とりどりのランタンの光と、隣を歩く不器用で優しすぎる男の横顔だけが映っていた。




