第48話 癒やしと甘やかしの休日
南米大陸を横断するアマゾン川流域。世界有数の危険地帯である未踏破ダンジョンの直上に建造された、巨大なゲートステーション。 その最上階を貸し切った超高級ホテルのスイートルームに、熱帯特有の強烈で鮮やかな朝日が、厚手の遮光カーテンの隙間から鋭く差し込んでいた。窓の外からは、熱帯雨林特有の極彩色の鳥たちの鳴き声が微かに聞こえ、眼下に広がる広大なクレーターに溜まっていた朝靄が、強まる日差しと共にゆっくりと晴れていく。見渡す限りの濃緑の樹海が、圧倒的な生命の息吹を放ち、地平線の彼方までうねるように続いている。
未踏破エリアでの数日間に及ぶ苛烈な探索を終えた翌朝。
巨大なミミックの強襲をはじめ、常識外れのイレギュラーが連続した深層から無事に帰還した一行は、極度の緊張から解放され、それぞれに割り当てられた広いベッドで泥のように深い眠りについていた。 Sランクのトップエクスプローラーたちでさえ、未知の領域で消耗した精神と肉体の疲労は並大抵のものではない。ましてや熱帯の過酷な環境下での連戦だ。誰もが深い休息を欲していた。
だが、田中ドクの朝は早い。
長年の日雇い労働で細胞の隅々にまで染み付いた体内時計は、どれほど最高級のマットレスが身体を包み込もうとも関係なく、彼を夜明けと共に正確に覚醒させた。
「……ん」
静かに身を起こし、洗面所へ向かって冷たい水で顔を洗う。熱帯のまとわりつくような湿気を帯びた外の空気とは違い、完璧な空調システムによって適温に保たれた室内はひんやりと心地よい。
彼は備え付けのふかふかのタオルで顔を拭うと、いつものように広大なリビングの片隅へと陣取った。
「……よし。ルシアさんの剣は刃こぼれなし。昨日あれだけ硬い甲殻のモンスターを叩き斬ったのに、やっぱり美沙さんの打った武器はすごいな。ただ、魔力を極限まで通した時の負荷で、少し刀身に脂と煤が焼き付いてる。専用のオイルで念入りに拭き取っておくか」
ドクは毛足の長い絨毯の上に胡座をかき、清潔な布にメンテナンスオイルを染み込ませて、メンバーの装備の汚れを丁寧に拭き取っていた。
昨日の探索では、『収納』を駆使して何度か彼女たちの危機を未然に防いだ。あの巨大なミミックの牙や強酸性の消化液を事象ごと呑み込んだ際の物理的な負荷が、タコだらけの太い指先に微かな強張りとして残っている。 だが、彼は自分の指の強張りよりも、仲間たちの武具の状態を優先していた。彼女たちの戦闘スタイルを脳内で反芻しながら、それぞれの道具に合わせた手入れを行っていく。
「エレナさんの杖の触媒も、魔力伝導率の乱れはなさそうだ。先端の細かな塵も……うん、綺麗になった。彼女の魔法は極めて緻密だから、僅かな汚れも命取りになる。アリサラちゃんのトラップワイヤー……極細の鋼糸が少し絡まってるな。これはピンセットで慎重に解いて……よし、これでいつでも実戦で使える。クロエさんの予備のバンデージも、血の汚れを落として干しておかないとな」
真剣な眼差しで武具の細部と向き合うその姿には、長年裏方として泥水をすすってきた彼だからこそ培われた、献身的で確かな手際があった。自分の休息よりも、まずは前線を張る者たちの万全を期す。それが底辺で生き抜いてきた彼なりの流儀だった。
「――ドクさん。そのウエスを置いてくださいな」
背後から、不意に声が落ちてきた。
振り返ると、上質なシルクのルームウェアを纏ったヴィットーリア・ロッシが、静かに腕を組んで立っていた。艶やかなダークブラウンの髪は緩くまとめられ、そのヘーゼルアイは慈愛に満ちているが、有無を言わせない確かな圧がそこにはある。
その隣には、ラフな部屋着に身を包み、度の入ったオーバル型の眼鏡をかけたエレナが立っている。普段の完璧な騎士としての隙のない姿とは違う、寝起きの少し力の抜けた雰囲気が新鮮だった。
「ドク。昨日のミミックの強襲、あなたが咄嗟に動いてくれなければ、私たちの誰かが確実に大怪我をしていたわ。今日はギルドからの取材要請もすべてシャットアウトした、完全なオフ。休養日よ」
「いや、でも装備の手入れくらいは今のうちにやっておかないと、いざって時に困るだろ。少しでもサボると、金具が錆びたり、魔力の通りが悪くなったりするんだ。アマゾンの湿度はただでさえ金属に厳しいし……」
「ダメです。今日は絶対に何もしないでください」
エレナはドクの分厚い手からウエスとオイルの小瓶を半ば強引に取り上げると、ヴィットーリアと目配せをした。二人はドクの両脇を固めるようにして、リビングの柔らかなソファへと彼を押し込んだ。
「……わかった。じゃあ、お言葉に甘えて少し休ませてもらうよ」
ドクは苦笑し、足元で仰向けになって爆睡しているフェンリル・パピーのコロを踏まないように気をつけながら、深く息を吐いた。
そして、傍らに置いていた自分の私物ポーチから、年季の入った小さなタッパーと小瓶を取り出した。
タッパーの中には、不揃いに割られた黒糖の塊。小瓶には、赤茶色の液体が入っている。
ドクは黒糖の欠片を一つ口に放り込み、ガリッと噛み砕く。そのまま、小瓶の液体――もろみしぼり酢を、水で薄めることもなくストレートでクイッと煽った。
ツンと鼻を突く強烈な酸味が喉を焼き、それを追うように、黒糖の素朴で濃厚な甘みが口いっぱいに広がっていく。相反する二つの味が胃の奥で混ざり合い、身体の芯からじわじわと熱を発するような感覚があった。
「……ぷはっ。やっぱり、疲れが溜まってる時はこれに限るな」
ドクが満足げに眉を下げたのを見て、エレナが不思議そうに眼鏡の奥の目を瞬かせた。
「ドク、それは? ポーションの一種かしら。魔力の波長は全く感じないけれど」
「いや、ただの黒糖ともろみしぼり酢だよ。底辺の荷物持ちやってた頃、高い回復薬やサプリなんて買う金がなくてさ。現場のベテランの先輩に教わったんだ。黒糖でミネラルと糖分を素早く補給して、酢のクエン酸で筋肉の乳酸を分解する。筋肉痛や関節の張りが、これでスッと抜けるんだよ。それに、黒糖の甘みが脳の疲労も取ってくれる気がするしね」
ドクの言葉に、エレナは眼鏡のブリッジをクイッと押し上げた。彼女の『魔法オタク』としての研究者気質が刺激されたらしい。
「……なるほど、理にかなっているわね。生化学的アプローチとしては極めて合理的。でも、高濃度の酢酸を直接胃に入れるのは粘膜への負担が強すぎるわ」
エレナはすぐさまキッチンのウォーターサーバーへ向かい、適温の白湯をグラスに注いで戻ってきた。彼女はグラスを差し出しながら、少しだけ語気を強めて言う。
「次からはこれをチェイサーにして。いくらあなたの胃袋がどんなに規格外の耐久力を持っていようと、適切なケアは必要よ」
「ありがとう、エレナさん。助かるよ。確かに、ストレートだと時々胃がキュッとなるんだ」
ドクが素直に受け取って白湯を飲む姿に、エレナは少しだけ頬を染め、満足そうに頷いた。
「さあ、内側からのケアが終わりましたら、次は外側からですわね」
ヴィットーリアが、柔らかな微笑みを浮かべたままドクの背後に回った。
「えっ? いや、ヴィットーリアさん、マッサージなんて……俺の身体、汗臭いし、岩みたいに硬いですよ。指を痛めちゃいます」
「あら、誰が遠慮していいと言いましたか? 以前、日本のホテルで私の肩をほぐしてくださったお返しですわ。それに……ドクさんのお身体に触れるのは、少し興味がありますから」
世界最高峰の聖女が、細く滑らかな指先をドクの分厚い僧帽筋に滑らせる。
ただの物理的なマッサージではない。彼女の指先から微細な淡い光の粒子――極薄にコントロールされた回復魔法が浸透し、酷使されて硬直した筋肉の繊維一本一本を、根本から丁寧に解きほぐしていく。
「……っ、ふぅ……」
強烈な心地よさに、ドクの口から思わず深い吐息が漏れた。
背中を揉まれるたびに、ヴィットーリアの豊満な胸元がドクの背中や後頭部に柔らかく押し付けられるが、彼女は全く気にする様子がない。むしろ、自身の体温と香りを意図的に預けているような、大人の余裕と甘やかさがそこにはあった。
「ふふっ。いつも私たちのために、重い荷物を背負ってくださるその背中……少し張りが強いですわね。もっと力を抜いて、私に身を委ねてくださいな。あなたのその過剰なまでの自己犠牲精神ごと、私が解きほぐして差し上げますわ」
耳元で囁かれる甘い声に、ドクは照れと心地よさで、次第に抵抗する気力を失っていく。
その時だった。
「ちょっと! 朝起きたらドクがいないと思ったら、なんで二人で抜け駆けしてるのよ!」
バンッ!と勢いよく寝室の扉が開き、ルシア・カルヴァーリョが飛び出してきた。
艶やかな赤い髪を揺らし、健康的なプロポーションをタイトなキャミソールに包んだ彼女は、地元ブラジルでの休養日ということもあり、いつも以上に感情が前に出ている。彼女の全身から発せられる熱気は、アマゾンの気候そのものだった。
「ルシアさん……おはよう。抜け駆けっていうか、俺が強制的に休まされてるだけで……」
「ダメよ! 私のホームグラウンドなんだから、ドクの癒やしは私がリードするわ! ほら、マッサージなら私も得意なんだから!」
ルシアはドクの正面に回り込むと、遠慮の欠片もなく、ドクの分厚い太ももの間に自身のしなやかな脚を滑り込ませた。至近距離から、ドクの腕や胸板を揉み解し始める。大輪の薔薇のような香水と、彼女自身の甘い体臭がドクの鼻腔をくすぐった。タイトなキャミソールからこぼれんばかりの胸元が、ドクの視界を容赦なく塞ぐ。
「ちょ、ルシアさん、距離! 近い、近いです! それに力が強すぎる!」
「何照れてるのよ。ドクの筋肉、すごい弾力……うふふ、なんだか揉んでるこっちが癒やされちゃうわね。ほら、もっと胸を張って」
「ルシア、ドクが困っているじゃない。それに栄養管理の観点から言えば、順番は私よ。まずはしっかりとした朝食を摂らせるべきだわ」
「あらあら、元気なこと。でも、今のドクさんは私の担当ですわよ? 途中で治療を止めるのは、ヒーラーとしての矜持に関わりますから」
正面からは情熱的なルシアが密着し、背後からはヴィットーリアが慈愛の圧でホールドし、横からはエレナが理詰めで世話を焼こうとする。
世界のトップエクスプローラーである美女三人に完全に包囲され、物理的にも視覚的にも逃げ場のないドク。
「クゥン? ワフッ!」
騒ぎに目を覚ましたコロが、「僕も混ぜて!」とばかりにドクの足元に飛びつき、短い尻尾をパタパタと振っている。
さらに、別室の扉が開き、髪を少し乱した瞳が現れた。手には今日のスケジュールやギルドからの連絡をまとめたタブレット端末を握っているが、彼女はリビングの惨状を見るなり、限界まで目を見開いてタブレットを抱え直した。
「もう……朝からなんの騒ぎですか……って、ちょっと皆さん! ドクさんに何してるんですか! 私のタレントに勝手にベタベタ触らないでください!! 距離感がバグってますよ!」
ショートスピアを持たずに突撃してくるマネージャーの背後で、アリサラが壁に寄りかかりながら面白そうにクスクスと笑っている。
「朝からごちそうさま。おじさん、大モテだね」とからかう彼女の隣で、美沙が「朝から元気だねぇ。アタシはもう少し寝るよ」と大きなあくびをしながら、自室へと戻っていった。
「『ドクさん、笑ってないで助けてって言ってください!』」
「『抜け駆けは許さないわよ!』」
朝のまばゆい光に照らされたリビングで、彼女たちの賑やかな声が響き渡る。
ドクは、されるがままになりながらも、その温かな騒がしさに目を細めて苦笑した。
彼の足元では、すっかり満腹になって眠るコロが、安心しきったように小さくあくびを漏らしていた。窓の外に広がるアマゾンの雄大な熱帯雨林から吹き抜ける風が、部屋の中の賑やかな笑い声を乗せて、どこまでも遠くへと流れていった。




