第47話 世界中の未踏破エリアへ
南米ブラジル、アマゾン川流域に位置する巨大なゲートステーション。
その最上階に用意された最高級スイートルームのキッチンで、ドクは静かに火加減を調整していた。
窓の外には、鬱蒼と茂る熱帯雨林と、その中心に口を開ける巨大な『第7ダンジョン』のクレーターが広がっている。壁一面の防音ガラスが外界の熱気と喧騒を完全に遮断し、完璧に空調の行き届いた室内には微かなシトラスの香りが漂っていた。かつて暮らしていた八王子のボロアパート『木漏れ日荘』の四畳半とは天と地ほども違う豪奢な環境だが、ドクの朝のルーティンは変わらない。
「クゥン、アゥッ」
足元で、黒い毛玉が忙しなく動き回っていた。フェンリル・パピーのコロだ。
コロはドクが履いているスリッパの踵に短い前足をかけ、背伸びをするようにしてキッチンの上の匂いを嗅ごうとしている。小さな鼻がひくひくと動き、土鍋から立ち上る鶏出汁と生姜の香りに反応して短い尻尾をパタパタと振っていた。
「おはよう、コロ。ちょっと待ってな、今お前の分も冷ましてるから」
ドクはコンロの火を止め、しゃがみ込んでコロを抱き上げた。
長年の重労働でタコだらけになった太い指先で、コロの口元をそっと撫でる。昨日、ヴィットーリアからもらった特製シロップ薬を飲ませた口の端のハゲは、たったひと晩ですっかり治り、元通りの艶やかな黒い毛に覆われていた。
「よしよし、綺麗に治ったな。もう硬い骨を無理して齧るんじゃないぞ」
「ワフッ!」
コロは元気よく吠え、ドクの顎をペロペロと舐めた。その温かくてくすぐったい感触に、ドクは目尻を下げて柔らかく微笑む。
彼にとって、この小さくて無邪気な命と触れ合う朝の時間は、何にも代えがたい平穏だった。どんなに環境が変わろうと、彼自身の根底にある「ささやかな日常を愛する心」は全くブレていない。
ドクがコロを床に下ろし、味付けせずに柔らかく茹でた鶏肉と野菜を細かく刻んだ特製の犬用ご飯を皿に取り分けていると、リビングの重厚な扉が開いた。
「おはようございます、ドクさん! ああっ、いい匂い! 今日の朝ごはんはなんですか?」
パリッとしたスーツ姿の瞳が、手元にタブレットを抱えたまま小走りでやってくる。その後ろからは、タイトな黒いキャミソールにショートパンツという無防備すぎる格好のまま、長い黒髪を掻き乱しながらアリサラがあくび交じりに歩いてきた。
「おはよう、瞳ちゃん、アリサラさん。今日はダンジョンの奥深くで少し冷えるかもしれないから、鶏出汁の中華粥にしてみたよ。生姜をしっかり効かせてるし、仕上げに少しだけごま油を垂らしてある。入る前に身体の芯から温まると思う」
「最高。おじさん、ホントにお嫁さんにしたい……」
アリサラがフラフラとアイランドキッチンに寄りかかり、用意されていた温かいジャスミン茶のカップに口をつける。
瞳はすぐにダイニングテーブルに座り、タブレットの画面をドクに向けた。
「見てくださいドクさん! 昨日の夜、アリサラさんの案内で潜った『マヤの隠し遺跡』の配信アーカイブ、あっという間に再生数1億を突破して、また世界トレンド1位ですよ! コメント欄も、ドクさんの無自覚な強さに世界中が熱狂してます!」
瞳の興奮した声に、ドクはお粥をよそいながら困ったように笑った。
「そうか。でも、あれはアリサラさんが古代の罠を全部事前に察知して解除してくれたから、俺はただ安全な道を後ろからついて歩いただけなんだけどな。あんなただの散歩風景で、皆、面白いんだろうか」
「それが面白いんですよ! Sランクの探索者でも数日がかりで攻略するような未踏破エリアを、ただの荷物持ちのおじさんがピクニックみたいに呑気に歩いてるんですから。ドクさんのその『普通さ』が、逆に規格外なんですよ」
八王子の騒動から数週間、ドクたちの足跡はすでに日本を飛び出していた。世界各地の未踏エリアに眠る『幻のアーティファクト』の回収――それが、瞳が新たに組んだ現在の探索プランだった。
アリサラの超一流の探知スキルで巧妙な罠を躱し、ドクの『万物収納』でいかなるイレギュラーも飲み込んで進む。一時は世界を震撼させた規格外のコンビだが、彼らにとっては、このアマゾンの深層さえ少し遠出をしたピクニックと変わらないようだった。
「さ、お粥が冷めないうちに食べよう。今日は第7ダンジョンの地下50階層、『大樹の迷宮』だっけ。長丁場になりそうだから、しっかり食べておかないとな」
ドクが湯気を立てるお粥の鉢をテーブルに並べると、三人と一匹の、賑やかで温かい朝食が始まった。鶏出汁の深い旨味と生姜の爽やかな辛味が、彼女たちの寝起きの身体を優しく目覚めさせていく。
★★★★★★★★★★★
数時間後。
アマゾン第7ダンジョン、地下50階層『大樹の迷宮』。
視界を埋め尽くすのは、直径数メートルもある巨大な植物の根と、発光する奇妙な菌糸類だ。空気はサウナのように重く湿っており、呼吸をするだけで肺の奥にカビの匂いがまとわりついてくる。強烈な腐敗臭と、視界を遮る濃密な胞子の霧。
一般的な探索者であれば、この不快指数と見えない毒素だけで数時間も持たずに精神をすり減らす過酷な環境である。足場は腐葉土と苔で滑りやすく、一歩踏み外せば底知れない泥濘へと引きずり込まれる。少しでも気を抜けば、瞬く間に森の養分として還元されてしまうだろう。
しかし、美沙が徹夜で調整してくれた飛竜の革とミスリルの特製ツナギを着込んだドクは、自分の体重を優に超える巨大なバックパックを背負いながらも、全く汗をかかずに涼しい顔で歩いていた。彼の歩幅は常に一定であり、滑りやすい木の根の上でも重心が一切ブレない。
「ドクさん、そのまま真っ直ぐ歩いてください。足元の青く光ってる苔は踏まないで。それ、微弱な麻痺毒を出してますから」
ドクの横を歩きながら、瞳が小型ドローンのカメラを操作して配信の画角を調整している。彼女自身も、ギルドが用意した最高級の防毒マスクと軽量プロテクターを装備し、ドクの歩く安全な軌跡を正確になぞっていた。
「了解。瞳ちゃんも足元気をつけて。ここから先、さらに足場がぬかるんでるから」
ドクは穏やかな声で返し、苔を避けて的確な足取りで進む。その前方では、アリサラが黒豹のような滑らかな動きで先行し、周囲の空間に張り巡らされた古代の罠やモンスターの気配を次々と探り当てていた。
「おじさん、ストップ。そこの空間、魔力の流れが少し歪んでる。たぶん『空間断裂』のトラップね。私が解除するから、10秒待って」
「わかった。無理しないでね」
緊迫感の欠片もないやり取り。配信のコメント欄は、世界中からの多言語のメッセージで滝のように流れていた。
【おいおい、あそこ人類未踏破エリアだぞ。なんで近所の公園散歩してるみたいなテンションなんだよ】
【アリサラの罠探知能力もヤバいけど、あのおっさんの歩き方、一切ブレてない。あのデカい荷物背負って、足場の悪いジャングルでどうやってあんなに安定してんだ?】
【ワンパンおじさん、今日もイケメンすぎる】
【瞳ちゃんのカメラワーク有能】
【普通なら息をするのも苦しい階層だぞ。バケモノコンビかよ】
その時だった。
先頭のアリサラが罠の解除用ツールを取り出した瞬間、彼女の足元、分厚い木の根と見せかけていた周囲の『地形そのもの』が、音もなくうねった。
「え……?」
罠の解除に意識を集中していたアリサラの口から、微かな声が漏れる。
それは古代のトラップではなく、周囲の魔力や植物に擬態するSランク相当、あるいはそれを凌駕する強力な捕食者『ギガント・ミミック』だった。床全体が巨大な顎と化し、アリサラと、その後方にいた瞳を一気に飲み込もうと、数え切れないほどの鋭い牙を剥き出しにして隆起したのだ。
Sランクのアリサラですら、完全な不意打ち。
回避も、防御も間に合わない。
だが、その強烈な死の気配が場を支配するより早く。
ドクはすでに動いていた。
「――っ」
叫び声も、気合の声もない。ただの短い呼気。
足裏に伝わった僅かな振動と、地面が沈み込むコンマ数秒のラグ。長年の底辺労働で培われた危機回避の反射神経が、ドクの身体を無意識に動かしていた。脳で思考するよりも早く、鍛え抜かれた筋肉が最適解を弾き出す。
ドクは背負っていた100キロを超えるバックパックを、あえて『下へ』向けて全力で投げ落とした。その反動を利用し、タコだらけの分厚い両手で、瞳の腰とアリサラの肩を同時に掴み寄せる。
「足、浮かせます」
ドクの静かで、しかし絶対的な安心感を伴う声が、二人の耳元で響いた。
直後、ミミックの巨大な顎が彼らのいた空間を食い破る。
しかし、ドクは二人を抱き寄せたまま、自身のバックパックを踏み台にして空中へ跳躍していた。さらに、下から迫る無数の牙と強酸性の消化液に対し、ドクは空中で右足を軽く振り下ろした。
次の瞬間、牙の鋭い先端も、降り注ぐはずだった強酸の液滴も、ドクの身体に触れた瞬間に何の抵抗もなく静かに掻き消えた。彼の『収納』が、すべての脅威を事象ごと呑み込んだのだ。
ぽっかりと空いた安全な空間。ドクはそのまま近くの巨大な木の根へと着地し、二人を静かに下ろした。
ドスンッ、という地鳴りと共に、ミミックの巨大な顎が空振りに終わり、再び地面へと沈み込んでいく。自身の牙を失ったことにすら気づいていないような、鈍重な動きだった。
「…………」
「…………」
アリサラと瞳は、木の根の上でへたり込み、瞬きすら忘れてドクを見上げていた。
一瞬の出来事。
ドクは、罠の解除に集中していたアリサラの死角から迫る脅威を、気配ではなく『地形の不自然な沈み込み』という物理的な現象からいち早く察知していた。そして、無駄に叫んで相手をパニックにさせるのではなく、最短距離で二人を回収し、的確に足場を利用して脅威だけを『収納』したのだ。
格好つけた大技も、派手な魔法もない。
ただ、長年の過酷な現場で培われた、究極の危機管理能力と状況判断。
彼にとっては、現場で崩れてきた資材から仲間を助け出すのと何ら変わらない、当たり前の反射行動だった。
「二人とも、怪我はない? 腕、強く引っ張りすぎたかな」
ドクはしゃがみ込み、心底心配そうな顔で二人を覗き込んだ。その端正な顔立ちには、先ほどの極限状態の緊張など微塵も残っていない。
「ドクさん……私……」
「……おじさん、ほんと……心臓に悪い」
それを至近距離で浴びせられ、二人の心臓は破裂しそうなほどに跳ね上がり、息をするのも忘れてその広い背中を見つめていた。死の恐怖から救い出された安堵と、ドクの無自覚で圧倒的な有能さ、そして底知れない優しさが、強烈な引力となって二人の心を掴んで離さない。
「びっくりしたよね。ごめんごめん」
ドクは屈託なく笑うと、少し離れた場所に落ちているバックパックの方へ視線を向けた。
「ちょうどいい足場もあるし、ここで少し休憩にしようか。お湯が沸いたよ。ジャスミン茶でいいかな、それともコーヒーにする?」
ドクはバックパックから手際よくポータブルコンロを取り出すと、慣れた手つきでケトルに火をかけた。コトコトと鳴る静かな音が、湿った大樹の静寂に溶けていく。過酷な未踏エリアの奥深く、漂い始めた香ばしい珈琲の香りに包まれて、彼らの賑やかな笑い声は、どこまでも響き渡っていった。




