第46話 新装備のテスト
木漏れ日荘の四畳半に、初夏の朝の柔らかい日差しが差し込んでいる。
「……コロ。お前、ちょっとこっち向いてみろ」
ちゃぶ台の上で朝食の片付けをしていたドクは、足元でじゃれついている黒い毛玉を両手でそっと持ち上げた。フェンリル・パピーのコロは、不思議そうに小首を傾げて「アゥ?」と喉を鳴らす。
ドクの太い指先が、コロの小さな口元を優しく撫でた。
「やっぱりだ。口の端っこ、少しハゲができてるぞ」
長年の肉体労働でタコだらけになった指の腹で触れると、本来なら滑らかな黒い毛で覆われているはずの口の横に、10円玉より少し小さいくらいの地肌が露出していた。赤みや腫れはないが、明らかに毛が抜けている。昨日、ルシアがあげた硬い魔獣の骨を、夢中になって齧りすぎて擦れてしまったらしい。
「ちょっと待ってろよ」
ドクはコロを畳の上に下ろし、押し入れから小さな紙袋を取り出した。先日、ヴィットーリアから「何かあった時のために」と渡されていた、高位の神聖魔法が付与された魔獣用の特製シロップ薬だ。
小瓶の蓋を開け、スポイトでとろみのある黄金色の液体を吸い上げる。甘い香りの奥に、僅かにハーブのような薬効の匂いが混ざっていた。
「ほら、甘くて美味しいはずだから、ちょっと口を開けてくれ」
ドクがスポイトの先を近づけると、コロは鼻をヒクつかせ、その微かな薬の匂いに気づいた途端、露骨に嫌そうな顔をして「プイッ」とそっぽを向いてしまった。
「こら、逃げるな。ちゃんと治さないと、また痛くなるぞ」
ドクが無理に口を開けさせようとすると、コロは短い前足を突っ張ってドクの太い指を押し返し、「クゥン、クゥン」と哀れっぽい声を出して抵抗する。そのあまりにも必死な様子に、ドクは苦笑してスポイトを引いた。
「しょうがないな……」
ドクは立ち上がり、小さなタッパーを冷蔵庫から取り出した。中身はコロの大好物である、味付けせずに柔らかく茹でた鶏の胸肉だ。それを指で細かくほぐして小皿に乗せ、そこに先ほどのシロップ薬を数滴、しっかりと染み込ませる。
「ほら、お前の好きな鶏肉だぞ」
ドクが小皿を鼻先に差し出すと、コロの短い尻尾がピタッと止まった。クンクンと匂いを嗅ぎ、薬の気配に一瞬だけ耳を伏せて迷う素振りを見せたが、最終的に食欲が完全に勝ったらしい。アムッ、と一口で鶏肉を平らげ、皿についた僅かなシロップの残りまで綺麗に舐め取った。
「よしよし、偉かったな」
満足げに舌を出しているコロの頭を撫でていると、開けっ放しにしていた窓の外から元気な声が降ってきた。
「ドクさん、おはようございます! 準備はいいですか?」
見下ろすと、アパートの前の路上に停められたギルド手配の大型SUVの窓から、瞳が手を振っていた。
今日は、未踏破エリアの深層調査と、美沙が徹夜で組み上げたという『新装備』のテストを兼ねた大掛かりな探索の日だった。
★★★★★★★★★★★
第1ダンジョン、第45階層『水晶の迷宮』。
壁面や天井、さらには足元の床に至るまで、見渡す限りすべてが淡い青光を放つ巨大な水晶で構成された、幻想的で残酷なエリアだ。水晶の柱は鏡のようにあらゆる光を乱反射し、侵入者の遠近感と方向感覚を容赦なく奪っていく。
「おいタナカ! 少し立ち止まるぞ。どうにもアタシの調子が出ない、ちょっと準備運動に付き合え!」
先行してルートを警戒していたクロエが、突然足を止めて振り返った。
未知の深層エリアだというのに、彼女の顔には緊張感の欠片もない。ただ、強敵に出会えないフラストレーションを持て余している野生動物のような、凶暴な笑みが浮かんでいた。
「準備運動って……ここで?」
ドクは背負った巨大なバックパックを下ろすこともなく、困ったように眉を下げた。
彼の両腕には、今朝ギルドで美沙から手渡されたばかりの新型装備――肘から指先までを完全に覆う、漆黒の金属で打たれた無骨なガントレットが装着されていた。
『前のナックルは一発で消し炭にされちまったからね。今回はオリハルコンと飛竜の骨をベースに、魔力伝導回路を多重に組み込んでやった。アンタの異常な出力を熱で逃さず、100パーセント純粋な運動エネルギーとしてぶち当てるための特注品さ。せいぜい大事に使いな』
美沙がそう豪語した通り、見た目の重厚さに反して、ガントレットはドクの手の動きに吸い付くように馴染んでいた。指の関節を曲げる際の抵抗すら全くなく、まるで自分の皮膚が硬化したかのような一体感がある。
「いいから、構えな!」
クロエは警告もそこそこに、分厚い水晶の床を蹴り砕いてドクの懐へ飛び込んだ。
Sランクのインファイターが放つ、捻りを加えた重い右ストレート。空気が圧縮されて爆ぜる音が、密閉された水晶の空間に響き渡る。
「はいはい」
ドクは軽く息を吐き、右手のガントレットの掌を開いて、目前に迫る凶悪な拳をパシッと受け止めた。
衝突の瞬間、凄まじい衝撃波が周囲に円形に広がり、近くの水晶の柱に無数の亀裂を走らせる。だが、ドクの身体はミリ単位たりとも後ろに下がっていなかった。
「オラァッ! もう一発!」
左フック、右アッパー、そして重い蹴りの連撃。
ドクはミット打ちを受けるトレーナーのように、そのすべてを的確な位置にガントレットを合わせて受け止めていく。クロエの放つ破壊的な運動エネルギーは、ガントレットの表面で火花を散らすこともなく、ドクの身体を通じて底なしの『ストック』へと静かに吸い込まれていく。
10分ほど打ち込みを続けたクロエが、「ふぅ、少しスッキリしたぜ」と額の汗を拭って満足げに息をついた。
「すごいパンチだね」
ドクはごつい指先でガントレットの掌を擦りながら、素朴な感嘆の声を漏らした。
「でもクロエさん、さっきのは右肩がぐっと強張ってたから、受け止めたときに俺の体まで持っていかれそうになったよ。怪我しないように気をつけてね」
純粋に荷物の重さや物理的な衝撃に対する「受け止める側」としての感想だったが、クロエはその言葉にハッと目を見開き、ニヤリと凶暴な牙を見せて笑った。
「ハッ! なるほど、アタシの肩に余計な力が入ってたのを見抜いたか! さすがだなタナカ、次はもっと腰を入れて打つぜ!」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
ドクが困惑していると、前方の空間を偵察していたアリサラが、音もなく岩陰から姿を現し、細い指先で迷宮の奥を指し示した。
「……おしゃべりはそこまでにしておいた方がよさそうですよ、皆さん。この階層の『主』のお出ましみたい」
地鳴りのような重低音が、水晶の床から伝わってくる。
空間の奥深く、乱反射する光の向こう側から、巨大な影がゆっくりと立ち上がった。
全長は優に30メートルを超えるだろう。全身がダイヤモンド以上の硬度を持つと言われる『絶硬水晶』で構成された、城のように巨大な魔像。多面体のクリスタルが複雑に組み合わさったその姿は、美しさと暴力性が同居した、深層特有の威圧感を放っていた。
『クリスタル・ゴーレム』。
「……あの硬度と魔力反射の特性……ルシアさんの炎や私の魔法じゃ、表面を焦がすことすら難しいわね」
エレナが瞬時に敵の性質を分析し、冷静に告げた。
「なら、アタシが直接ぶっ壊して……」
「待ちな、クロエ」
前に出ようとしたクロエの肩を、美沙が背後からガシッと掴んだ。彼女の眼は、職人としての獰猛な熱を帯びていた。
「あれだけ硬い的なら、テストの相手として申し分ない。……おっさん、出番だよ」
美沙の言葉に、ドクは「はいはい」と応じ、巨大なバックパックを背負ったままゆっくりと前に出た。
「クロエの打撃エネルギー、たっぷり溜め込んでるだろ。アタシの最高傑作がどこまで耐えられるか、全力で見せてみな」
「わかった。……これなら、一発でいけると思う」
ドクの言葉に応じるように、クリスタル・ゴーレムが咆哮を上げた。顔に当たる部分の水晶が赤く発光し、丸太よりも太い巨大な腕を、ドクを粉砕すべく頭上から振り下ろす。
風を切り裂く轟音が迫る中、ドクはただ静かに、巨像の動きを観察していた。
長年底辺を這いずり、数え切れないほどのモンスターの死線を見極めてきた彼の眼は、ただ力任せに殴るためのものではない。かつて囮として高ランクモンスターの群れから逃げ回っていた時、彼は常に敵の関節の動きや、体重移動のクセを見て生き延びてきた。
(……関節部分。肘と肩の水晶の継ぎ目、あそこだけ魔力の流れる光がほんの一瞬、遅い)
どんなに強固な装甲にも、必ず力が伝達する際の「歪み」が存在する。
ドクは振り下ろされる巨腕の軌道を、最低限の体重移動だけで躱した。水晶の拳が床を砕き、凄まじい衝撃波が彼を襲うが、それすらも瞬時に『ストック』へと吸収していく。
巨像の腕が振り抜かれ、一瞬だけ体勢が崩れたその隙。
ドクは踏み込み、巨像の懐、魔力の流れが滞っていた膝の関節部分に狙いを定めた。
漆黒のガントレットに、先ほどクロエから受け取った莫大な打撃エネルギーと、自身の蓄積されたストックの一部を流し込む。
大仰な構えはない。ただ、腰の入ったコンパクトな右ストレート。
拳が、クリスタル・ゴーレムの膝の継ぎ目に触れた。
直後。
音のない衝撃が空間を歪ませた。
爆発的な光は生じない。ただ、純粋で暴力的なまでの『運動エネルギー』が、一点から巨像の内部へと伝播していく。
ピキッ、という小さな音が響いたかと思うと、数万トンの質量を持つクリスタル・ゴーレムの全身に、蜘蛛の巣のような亀裂が瞬時に走った。
「…………ッ」
断末魔の咆哮を上げる間もなかった。
巨像は、まるで繊細なガラス細工をハンマーで叩き割ったかのように、膝から上へ向かって細かい破片となって完全に爆散した。
キラキラと、粉雪のように舞い散る水晶の粉末。数秒前までそこに存在していた圧倒的な脅威は、ただの美しい砂山へと変わっていた。
静寂が戻った空間で、ドクはゆっくりと右拳を下ろした。
漆黒のガントレットからは高熱の蒸気がシューシューと上がっているが、表面にはヒビ一つ、傷一つついていない。
「すごいな、美沙さん」
ドクはガントレットの掌を握ったり開いたりしながら、素直な感嘆の声を漏らした。
「俺の腕、全然痛くない。あの出力の反動を、完全に受け流してくれたよ」
美沙はニヤリと満足げに笑うと、ドクの腕を引き寄せてガントレットを指先で軽く弾いた。チンッ、と澄んだ硬い金属音が鳴る。
「当たり前だ。誰が打ったと思ってんだい」
「ドクさん、お見事です! ……でも、今の凄まじい一撃は、クロエさんの準備運動のおかげでもありますね」
瞳が呆れたような、それでいて誇らしげな笑顔で歩み寄ってくる。
「ハッ! アタシのパンチをただのエネルギーパック代わりにするなんざ、タナカくらいのもんだよ! 次はアタシももっと手加減なしで殴らせてもらうからな!」
「手加減はしてほしいんだけどな」
ドクは苦笑いしながら、肩によじ登ってきたコロの頭を撫でた。
コロは満足げに「ワフッ」と鳴いて、ドクの頬を舐める。その無邪気な温もりに、ドクの口元が自然と綻んだ。水晶の舞い散る迷宮の奥、彼らの賑やかな笑い声は、どこまでも響き渡っていった。




