第45話 平和な日常へ
「……本当に、いいんですか? こんな立派な場所に、俺なんかがお邪魔してしまって」
「ええ、もちろんですわ。ここは私が日本での長期滞在用に借り切っているプライベートフロアですから、誰の目も気にする必要はありませんわ」
都内の中心部にそびえ立つ、外資系超高級ホテルの最上階。
専用のカードキーでのみ作動する直通エレベーターを降りた瞬間から、ドクは自分が全くの異次元に足を踏み入れたことを悟っていた。
一歩歩き出した途端、靴底が数センチは沈み込むような毛足の長いペルシャ絨毯の感触が足の裏から伝わってくる。壁一面に広がる巨大なガラス窓からは、東京の摩天楼がまるで精巧なミニチュア模型のように見下ろせる。磨き上げられた大理石のテーブルや、美術品のように美しい調度品の数々。空調は完璧な温度と湿度に制御され、微かなシトラスとハーブの香りが漂うその空間は、外界の喧騒とは完全に切り離された別世界だった。
「さあ、こちらへどうぞ」
ヴィットーリア・ロッシは、優雅な微笑みを浮かべてドクをリビングスペースへと招き入れた。
今日の彼女は、公式行事で身に纏う豪奢で重厚な法衣ではない。身体のラインが上品に出る、ネイビーのシルク製ラップワンピースという出で立ちだ。艶やかなダークブラウンの髪は緩やかにまとめられ、世界最高峰の『聖女』という重い肩書きを一切感じさせない。そこにあるのは、ただ一人の大人の女性としての、柔らかくリラックスした空気だった。
「瞳さんには内緒で連れ出してしまって、少し申し訳ない気もしますけれど。彼女、最近は世界中からの連絡の対応で、少し働き詰めでしたからね。たまには私たちだけで、息を抜く時間も必要ですわよね?」
「瞳ちゃん、本当に頑張ってくれてるからな。俺はただ、言われた通りに書類にサインしたり、コロの散歩したりしてるだけだけど。……それにしても、すごい部屋だなあ。俺のアパートが何十個も入りそうだ」
ドクは困ったように太い指で頬を掻きながら、案内された最高級の黒革張りソファに、スプリングを傷めないようそっと腰を下ろした。
今の彼は、いつも着ていたボロボロのジャージ姿ではない。瞳に強引に見立ててもらった、仕立ての良いヘンリーネックのシャツと、足捌きの良いスラックスを身につけている。そのシンプルだが上質な服装は、過酷な労働で引き締まったドクの分厚い身体に驚くほど馴染んでおり、この洗練された空間にいても全く見劣りしていない。
だが、本人の内面は、ボロアパート『木漏れ日荘』の四畳半で土鍋の白米を炊いていた頃と何一つ変わっていなかった。
八王子での深層ボス消滅事件から、数日が経過した。
外の世界は未だに彼という存在を巡る大騒ぎに揺れていたが、ドク本人の頭の中は、明日の朝食の献立をどうするか、スーパーの特売日はいつか、といったようなささやかな日常のままであった。
ヴィットーリアは備え付けの豪奢なキッチンカウンターに立ち、手際よく紅茶の準備を始めた。お湯を沸かす間にティーポットを温め、厳選された茶葉を慎重に計量する。その静かな所作の合間に、彼女はソファで大人しく待っているドクの横顔を愛おしげに見つめた。
(普通なら、あれほどの力を示し、世界中から文字通り神のように称賛を浴びれば、人は変わってしまうものです。野心を抱くか、あるいは寄せられる期待の重圧に押し潰されるか。……けれど、この方は違いますわ)
ヴィットーリアは、香り高いダージリンが注がれたアンティークのティーカップを二つお盆に乗せ、ドクの対面に座った。
「どうぞ。お口に合うといいのですが」
「ありがとうございます。……うん、すごくいい香りだ。茶葉の甘みがしっかり出てるのに、渋みが全然ない。淹れ方が上手いんですね」
ドクはカップの縁に口をつけ、心底美味しそうに目を細めて息をついた。その率直で、何の裏表もない飾らない称賛の言葉に、ヴィットーリアは胸の奥が少しだけくすぐったくなるような嬉しさを覚える。
「ふふ、お気に召していただけて良かったですわ。……ドクさんは、本当に変わりませんね。外の世界では、あなたという存在を巡って国同士が牽制し合っているというのに、あなたはこうして、私の淹れた紅茶の味をただ真剣に味わってくださっている」
「外がどうなっていようと、俺のやるべきことは変わりませんから。美味しいものを美味しいって言って、周りにいてくれる人が怪我をしないように荷物を持つ。それだけですよ」
ドクはカップをソーサーに静かに置き、窓の外に広がる広大な青空を見上げた。
「それに、俺一人じゃ何もできないのは本当ですから。ルシアさんやクロエさんが前を歩いて敵を散らしてくれて、アリサラちゃんが安全な道を作ってくれて、エレナさんが絶対の盾で守ってくれる。瞳ちゃんが面倒な手続きや交渉を全部片付けてくれて、美沙さんが最高の服を作ってくれる。……そして、ヴィットーリアさんがみんなの怪我を確実に治してくれるから、俺は安心して一番後ろを歩けるんです。俺はただの、運がいい荷物持ちですよ」
一切の虚飾も、卑下もない。ただ、彼の中での絶対的な真実として語られるその言葉。
ヴィットーリアは、彼の強固なまでの誠実さに触れ、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「……ドクさん。少し、こちらへ」
ヴィットーリアは自らのカップをテーブルに置き、自分が座っているソファの隣のスペースをトントンと手で叩いた。
「えっ? あ、はい」
ドクが少し戸惑いながらも立ち上がり、彼女の隣に座る。すると、ヴィットーリアは身体を少し横に向け、彼のごつく分厚い右手を自身の両手でそっと取った。
長年の過酷な労働で無数のタコができ、細かい傷跡が深く刻み込まれたその手を、彼女の白く滑らかな指先が優しく包み込む。
「ヴィットーリアさん?」
「祝賀会でお約束いたしましたでしょう? 極上の癒やしを施して差し上げますわよ、と」
ヴィットーリアの深いヘーゼルアイが、至近距離でドクを真っ直ぐに見つめた。
彼女の指先から、淡い金色の光がふわりとこぼれ落ちる。それは、深い傷を瞬時に塞ぐような強制的で強力な回復魔法ではない。対象の筋肉の強張りや、神経の末端にまで蓄積された微細な疲労物質にアクセスし、それを優しく溶かして流し去る、極めて精密で高度な治癒の波長だった。
「ひゃっ……あ、いや、なんか変な声が出た。すみません」
「ふふっ。力を抜いてくださいな。あなたは長年、無意識のうちに身体を酷使しすぎています。あの極限の『ストック解放』で肉体に溜まっていた途方もないダメージの残滓はすべて放出されたのでしょうけれど、長年筋肉の奥底に染み付いた緊張までは解けていませんわ」
温かく、心地よい春の日差しのような光が、ドクの腕から肩、そして背中の奥深くへと浸透していく。
まるで極上の温泉に肩まで浸かっているかのような、芯からの弛緩。ドクは抗いがたい眠気に誘われるように自然と目を閉じ、肺の底から深く息を吐き出した。
(この方の身体は、本当に……どれほどの無茶を重ねてきたのでしょうね)
治癒の魔力を流すことで、ヴィットーリアにはドクの肉体が過去にどれほどの負荷に耐え続けてきたかが手に取るようにわかった。自分を守るためではなく、他人の荷物を背負い、理不尽な暴力を黙って耐え忍ぶためだけに作られた、悲しいほどに頑丈な肉体。
けれど、今その肉体に触れて感じるのは、過去の苦痛に対する怨念や悲壮感ではない。明日を生きるため、そして隣にいる誰かを支えるための、静かで力強い生命力だった。
「……気持ちいいです。こんな風に身体の芯から軽くなるのは、子供の頃以来かもしれない」
ドクがぽつりと、夢見心地のような声でこぼす。
ヴィットーリアは微笑みを深め、ドクの分厚い肩にそっと自身の額を寄せた。
「なら、良かったですわ。……私は、あなたを癒やしたかった。世界を救うほどの力を持つあなたが、誰よりも自分自身を後回しにして平気な顔をしていることが、少しだけもどかしくて」
静かな時間が流れる。
窓越しに差し込む午後の柔らかな光が、二人の輪郭を黄金色に包み込んでいた。
だが、ドクはふと目を開けると、自分の手首を包み込んでいるヴィットーリアの細い手を、逆にそっと握り返した。
「ドクさん?」
「ヴィットーリアさん。右の肩口、少し張ってますよね。それに、手首から腕にかけても。……重い杖を振って、ヒールを履いて長時間立ちっぱなしでいる時の、特有の筋肉の強張りですね」
「え……?」
自身の不調を正確に言い当てられ、ヴィットーリアは目を瞬かせた。
ドクは身体の向きを彼女の方へ変え、今度は彼がヴィットーリアの華奢な右肩に、タコだらけの太い指をそっと添えた。
「俺、ずっと荷物持ちだったから。前を歩く人たちの歩き方や、息遣いを後ろからずっと見てきたんです。誰かが足を庇って歩幅が変わればポーションをすぐ出せるようにしたり、肩や腕が張っていれば、荷物のバランスを変えたり……。ヴィットーリアさんは世界最高の回復のスペシャリストだから、魔法で自分で治せるのかもしれないけど、他人の治療ばかり優先して、自分の肉体の疲れを無意識に後回しにしていませんか?」
ドクの温かい親指が、ヴィットーリアの右肩のツボを、絶妙な力加減でゆっくりと押し込んだ。
「あっ……」
ヴィットーリアの艶やかな唇から、思わず甘い吐息が漏れた。
魔力による根源的な治癒とは違う、純粋な物理的なアプローチ。的確に疲労の芯を捉え、それをじんわりとほぐしていく無骨で温かい手のひらの感触。その不器用だが確かな労りが、酷使された筋肉だけでなく、張り詰めていた神経までも解きほぐしていく。
「大きな治癒魔法を使う時、どうしても右側に重心が偏るんだと思います。少しだけ、力を抜いてください。痛かったら言ってくださいね」
「い、いえ……痛くは、ありませんわ。ただ……」
ヴィットーリアは、真剣な眼差しで自分の肩を揉みほぐすドクの横顔を見つめながら、自身の胸の奥で、長年張り詰めていた何かが静かに溶けていくのを感じていた。
彼女は『聖女』だ。
世界中から奇跡を求められ、傷ついた人々を癒やすことを義務付けられ、それに応え続けてきた存在。彼女が誰かを労り、痛みを拭い去ることはあっても、誰かが彼女自身の些細な疲労に気づき、こうして物理的な手で直接労ってくれることなど、これまでの人生で一度たりともなかった。
誰もが、彼女の奇跡のような「力」だけを見ていた。彼女自身の人間としての「疲れ」を見てくれる人間など、ただの一人もいなかったのだ。
「……ドクさんは、本当に……」
ヴィットーリアは、押し寄せる心地よい安堵感と抗いがたい温もりに身を任せ、ドクの広い胸板にそっと自身の身体を預けた。
彼女のまとう高級な香水の匂いと、ドクの体温が混ざり合う。
「あれ、ヴィットーリアさん? 力加減、強すぎましたか?」
「いいえ。……もう少しだけ、こうしていてくださいな。私こそ、あなたにすっかり癒やされてしまっているみたいですわ」
ヴィットーリアはドクのシャツの胸元を細い指で軽く握り、目を閉じた。
彼女の唇には、世界に向けた完璧で優雅な『聖女の微笑み』ではなく、一人の女性としての、無防備で柔らかな表情が浮かんでいた。
ドクは少し照れくさそうに「はい」と頷き、彼女の肩を優しく揉み続けた。二人の間には、ただ温かいダージリンの香りと、お互いを思いやる静かな時間が流れていた。
――ピローン。
その完璧な静寂を破るように、ドクのスラックスのポケットで、スマートフォンが無機質な通知音を鳴らした。
同時に、部屋の入り口にあるインターホンが、けたたましく鳴り響く。
「……あら」
「えっと……瞳ちゃんからメッセージだ。『コロの魔力適性検査が終わりました! 今すぐホテルに向かいます! Sランクの皆さんも一緒です!』……って、ええ!?」
ドクが慌てて画面を見ると、通知の直後に、ホテルの廊下から「ちょっとルシア! 抜け駆けは許さないって言ったでしょ!」「アタシはただ美味い飯が食いたいだけだ! さっさと開けろ!」という、馴染み深い女性たちの声が微かに、しかし確かな自己主張を持って聞こえてきた。
ヴィットーリアは小さくため息をつきながらも、くすくすと上品な笑い声を上げた。
「どうやら、私たちの平和な時間はここまでみたいですわね」
「すみません、なんか……あっという間に騒がしくなっちゃって」
「いいえ。これが、今のあなたの『新しい日常』なのでしょう?」
ヴィットーリアは立ち上がり、ドクに向かって悪戯っぽくウィンクをした。
分厚い扉の向こうで繰り広げられる喧騒を聞きながら、ドクは困ったように、しかし心底楽しそうに笑い、ゆっくりと重い腰を上げた。




