第44話 祝賀会
世界各国からの天文学的なオファーを「みんなのサポートで忙しいから」という理由でドクがあっさりと蹴り飛ばした後。
探索者協会八王子支部の最上階、瞳が用意した特別執務室の空気は、これまでになく緩やかに、そして温かく弛緩していた。
分厚い防音ガラスの向こう側、眼下の駅前広場では、未だに世界中のメディアや野次馬たちが熱狂の渦を作っているのが見える。しかし、重厚な扉と最新の防護結界に守られたこの部屋には、そんな外界の喧騒は一切届かない。
ここにあるのは、極上の静謐と、親しい者たちだけが共有する穏やかな時間だった。
「というわけで! ドクさんの日本残留と、これからの私たちの活動を祝して、ささやかな祝賀会を開きたいと思います!」
瞳がパンッと手を叩いて元気よく宣言すると、最高級の革張りソファに陣取っていた面々から一斉に歓声が上がった。
この特別執務室には、海外の要人を接待するための立派なプライベートキッチンが併設されている。最新の魔導コンロに、鏡面仕上げの巨大な冷蔵庫。先ほど瞳がギルドの職員に命じて、近所のスーパーから大量の食材を買い出させていたのだ。
「フフッ、いいわね。ドクがずっと私たちのそばにいてくれる記念日だもの。盛大にお祝いしましょう」
ルシアが艶やかな赤い髪を揺らし、ソファから身を乗り出す。その表情には、朝からの極度の緊張から解放された安堵の色が浮かんでいた。
「おおっ! ようやく飯か! アタシ、朝からおじさんを巡って大騒ぎしたせいで腹ペコなんだよ!」
クロエがバンバンと自身の引き締まった腹を叩きながら、待ちきれないとばかりに笑う。
「ふふ、おじさんの手料理、久しぶりだね。すごく楽しみ」
アリサラはクッションを抱きしめながら、小悪魔のような笑みを浮かべた。
「じゃあ、さっそく準備するよ。みんなは少し待っててくれ」
ドクは備え付けの真っ白なエプロンを身に着け、キッチンに立った。長年の裏方稼業で鍛え上げられた分厚い胸板と広い背中を持つ彼が着ると、まるで熟練の料理人のような風格が漂う。
冷蔵庫から取り出したのは、大量の牛薄切り肉、人参、モヤシ、ほうれん草、そして市販のキムチだ。
まずは鍋で湯を沸かし、モヤシとほうれん草をサッと下茹でした。茹ですぎて野菜のシャキシャキとした食感を損なわないよう、絶妙なタイミングでザルに上げる。冷水でサッと色止めをしてから、両手で包み込むようにして水気をしっかりと絞り出す。
次に、広々としたまな板の上で、人参を均等な細さの千切りにしていった。トントントントン、というリズミカルで心地よい包丁の音が、静かな執務室に響き渡る。
「……相変わらず、見惚れるような手際だね」
美沙がカウンターに頬杖をつき、感心したようにドクの包丁さばきを眺めている。
「ほんと。武器のメンテナンスをする時の美沙さんみたいに、無駄が一つもないわ」
エレナも真剣な眼差しで、ドクの滑らかな動作の一つ一つを分析するように見つめていた。
下ごしらえを終えたドクは、いよいよメインの調理に取り掛かった。
魔導コンロを強火に設定し、分厚い鉄のフライパンにごま油を引く。油が温まり、香ばしい匂いが立ち上ったところで、千切りにした人参と牛薄切り肉を一気に投入した。
ジューーーッ!
暴力的なまでの脂の弾ける音がキッチンを満たし、それと同時に肉の焼ける強烈な匂いが執務室全体に広がっていく。
「ああっ、もう匂いだけでやられそう……!」
瞳がたまらずお腹を押さえる。足元ではコロが「クゥン、クゥン」と鼻を鳴らし、前足をバタバタさせて落ち着かない様子だった。
肉の色が変わり、脂がほんのりと透き通ってきたところで、ドクは小さなボウルで混ぜ合わせておいた特製のタレを回し入れる。
ベースは市販の焼き肉のタレだが、そこに豆板醤のピリッとした辛みと、すりおろしたばかりの新鮮なニンニクをたっぷりと効かせてある。
熱せられたフライパンの鍋肌にタレが触れた瞬間、醤油とニンニクが焦げる破壊的な香りが爆発した。ジュワワワッという音と共に、食欲を直接殴りつけるような濃厚な煙が立ち上る。
「よし、これで具は完成だ。あとは盛り付けるだけだな」
ドクは大きめの丼を人数分用意し、炊き立ての白米をたっぷりとよそっていく。
その上に、ごま油と塩で軽く味付けをしたナムル風のモヤシとほうれん草、そして先ほど炒めた熱々の牛肉と人参を惜しげもなく乗せる。緑、白、茶色の鮮やかなコントラストが器の中で出来上がっていく。
仕上げに、中央に真っ赤なキムチをトッピングし、白ごまを指先で捻りながらパラパラと振りかけた。
隣のコンロでは、すでに鶏ガラスープの素をベースにしたシンプルな中華スープが煮立っている。小口切りにしたネギと、たっぷりのワカメ。焼肉のタレの濃厚さを中和してくれる、あっさりとしつつも滋味深い一杯だ。
「お待たせ。ビビンバ丼と、ワカメスープだ。熱いうちに食べてくれ」
ドクがカウンターに人数分の丼とスープを並べると、待ち構えていたヒロインたちは弾かれたように立ち上がり、それぞれの席へと運んでいった。
「いただきまーす!」
声が揃う。
まずは全員が、スプーンで丼の上の具材とご飯を豪快に混ぜ合わせる。タレの染み込んだご飯と、肉の脂、キムチの酸味が一体となり、立ち上る湯気は視覚的にも嗅覚的にも凶悪な魅力を放っていた。
クロエが大きな口を開け、誰よりも早くビビンバ丼をかき込んだ。
「……ッ!! んんまっ!!」
クロエの目がカッと見開かれる。
「なんだこれ!? ただの焼肉丼かと思ったら、豆板醤の辛味とニンニクのパンチがすげえ! モヤシとほうれん草のシャキシャキ感がいいアクセントになって、無限に食えるぞ! おいタナカ、これ後でおかわりあるんだろうな!?」
クロエは『うめえ!』と感嘆の声を上げながら、猛烈な勢いでスプーンを動かし続ける。
「本当ね! このお肉の旨味と甘辛いタレ、スプーンが全然止まらなくなっちゃう!」
ルシアも、艶やかな唇を微かに尖らせながら、熱々のビビンバを次々と口に運んだ。
「ねえドク。こんなに美味しいお料理を毎日食べられるなら、私、ブラジルの拠点を引き払って日本に住み着いちゃおうかしら。……もちろん、ドクの部屋にね」
ルシアはスプーンを咥えたまま、流し目でドクを熱っぽく見つめた。
「ちょっとルシア! 抜け駆けはズルいよ!」
アリサラが頬を膨らませて抗議する。
「おじさん、私の専属コックになってよ。報酬はタイの高級リゾートの永住権と……私自身でどう?」
アリサラがウインクを飛ばすと、ドクは困ったように頭を掻いた。
「いや、俺の部屋は四畳半だから、ルシアさんが住む場所なんてないし……アリサラちゃんも、俺みたいな底辺の荷物持ちをコックにしたら、タイの偉い人たちに怒られるよ」
本気で的外れな心配をしているドクに、周囲からは「そうじゃないのに」という深いため息が漏れた。
「……素晴らしいわ」
エレナが、スープとビビンバを交互に味わいながら、静かに呟いた。
「ただの市販の調味料を組み合わせただけなのに、これほど効率的に体に活力が染み渡るなんて。私の過剰な魔力回路が、この一杯で驚くほど穏やかに整えられていくのを感じるわ。……ドク、私の遠征の時は、必ずあなたに『燃料管理』を頼みたいのだけれど」
エレナは少し顔を赤らめながら、真面目な顔でバフと肉体維持を兼ねた提案をした。
「アタシなんて、すでにツナギのテストにかこつけて毎日胃袋掴まれてるからね。おっさんはアタシの専属テスター兼、賄い担当だよ。あんたたちには譲らないからね」
美沙が自慢げに胸を張り、得意げな笑みを浮かべる。
「あらあら、皆様お元気ですね」
ヴィットーリアは、エレガントな所作でスープを飲みながら、優しく微笑んだ。
「でも、胃袋を満たすだけでは男の方は癒やされませんわ。ドクさんがこれだけ皆様のために身を粉にして働いてくださっているのですから、心身のケアは、世界最高のヒーラーであるこの私にお任せくださいな。ドクさん、今夜は私のホテルで、極上の癒やしを施して差し上げますわよ」
ヴィットーリアの豊満な胸元が強調され、大人の甘い香りがドクの鼻腔をくすぐる。
「ちょ、ちょっと待ってください皆さぁぁん!」
ついに我慢できなくなった瞳が、バンッとテーブルを叩いて立ち上がった。
「ドクさんは私の専属タレントです! お仕事の依頼も、プライベートの癒やしも、まずはマネージャーである私を通してください! だいたい、コロの面倒を一番見てるのは私なんですからね!」
瞳の足元で、ドクからこっそり炒める前に取り分けておいた、味付けなしの牛肉の切れ端をもらったコロが、「ワフゥ!」と瞳に同意するように吠えた。
「ははは。みんな、慌てなくてもご飯はまだたくさんあるから、おかわりしてくれよ」
ドクは、世界最高峰の美女たちが自分を巡って本気の火花を散らしているなどとは夢にも思わず、ただ「みんなお腹が空いてピリピリしているんだな」と呑気に解釈していた。
食事が終わると、ドクは手早くコンロやフライパンを片付け、小さな急須を取り出した。
食後のお茶として彼が淹れたのは、お気に入りの加賀棒茶だ。熱湯を注ぐと、急須の中で茶葉がふわりと開き、独特の香りが立つ。
人数分の湯呑みに均等にお茶を注ぎ分ける。湯呑みから立ち上る、茎茶を焙煎した特有の甘く香ばしい香り。
熱い棒茶を一口すすると、ビビンバの脂とニンニクの匂いで満たされていた口の中が、驚くほどすっきりと洗い流されていく。
「はぁ〜……」
先ほどまで激しいアピール合戦を繰り広げていたヒロインたちも、この至福の一杯を前には、揃ってだらしない感嘆の息を漏らすしかなかった。
世界中を飛び回り、極限の緊張感の中で命を削って戦い続けている彼女たちにとって、ドクが作り出すこの「日常」の時間は、何よりも得難い究極の安らぎなのだ。
ドクは、自身も少し欠けた湯呑みを両手で包み込みながら、平和な顔で談笑する彼女たちを静かに見渡した。
ほんの数週間前まで、自分は薄汚れたジャージを着て、冷たくて硬い黒パンを一人で齧り、誰からも見下される底辺の荷物持ちだった。
それが今では、こんなに綺麗で、強くて、優しい人たちと一緒にテーブルを囲み、自分の作った温かいご飯を「美味しい」と笑って食べてくれている。
(……俺には、世界中から称賛されるような資格なんてない。でも)
ドクは足元で丸くなって眠り始めたコロの背中を、そっと撫でた。柔らかな毛並みが指先に心地よい。
(この人たちが安心して戦えるように、荷物を背負って、ご飯を作ることくらいならできる。……やっぱり、こういう時間が一番いいな)
湯呑みから立ち上る加賀棒茶の温かい香りに包まれる中、賑やかな笑い声は、夕日に染まる室内にいつまでも穏やかに響き続けるのだった。




