第43話 世界からのオファー
ピローン。ピローン。ピローン。
探索者協会八王子支部の最上階。渡部瞳のために急遽用意されたマネージャー専用の特別執務室には、朝から絶え間なく無機質な通知音が鳴り響いていた。
分厚い防音ガラスの向こう側、眼下に見える八王子の駅前広場には、国内外から押し寄せた大手メディアの報道陣や、一目でも噂の人物を見ようと集まった野次馬たちが黒山の人だかりを作っている。ギルドの警備部隊が総出で規制線を張っているが、その熱気は最上階にまで伝わってくるようだった。
「……また増えた。今度はフランス軍直属の特務機関から……。こっちはインドの新興メガギルド……」
最高級のローズウッドのデスクに突っ伏したまま、瞳は目の下のクマを指先で擦り、限界の近い溜息を吐き出した。
手元にある三台のタブレット端末。そのすべての画面に、世界中の言語で書かれたメールやメッセージが滝のように流れ続けている。メッセージアプリの未読バッジはとうの昔にカンストし、大量のデータを処理し続けている端末の背面は微かに熱を帯びていた。
ドクの「ワンパン配信」によって深層ボス群が一瞬で消滅した事実が世界中に知れ渡ってから数日。
事態の収拾と情報統制を図ろうとする日本の協会本部の思惑など、もはや完全に置き去りにされていた。各国の政府、巨大ギルド、多国籍企業は、田中ドクという単独で戦術兵器以上の価値を持つ男を自陣営に引き込むために、文字通り血眼になっていた。
自動翻訳ソフトを通したそれらの文面には、どれも常軌を逸した数字と条件が羅列されている。
アメリカのトップギルド『ブルー・レギオン』からのオファーは、年俸三百億円に加え、専用のプライベートジェットとニューヨークの一等地のマンションの無償譲渡。
中東の王族からは、未踏破ダンジョンの専属探索権と、それに付随する油田の採掘権の一部譲渡。
イギリスの王室からは、最高位の騎士の称号と、歴史ある広大な古城の贈与。
さらに各国の軍部からは、国家予算規模の研究費の確約や、彼専属の精鋭部隊の編成といった、国家ぐるみの引き抜き工作が公然と打診されている。
ついこの間まで、底辺のDランク鑑定士としてその日暮らしに近い生活を送っていた瞳の頭では、もはや処理しきれないレベルの金額と権力の提示だった。一介のマネージャーが捌いていい案件の次元を遥かに超えている。
「……もう、どうしたらいいんですか、これ」
瞳が助けを求めるように視線を向けた先。
執務室の窓際に置かれた巨大な革張りのソファで、当の本人であるドクは、世界の熱狂などどこ吹く風といった様子でくつろいでいた。
「がうっ! ぐぅぅぅ……っ!」
「ははは、よしよし。今日は一段と元気だな、コロ」
ドクの太い右腕には、近所のホームセンターで買ってきた安い白い軍手が嵌められていた。その軍手の指先に、黒い毛玉のようなフェンリル・パピーのコロが、小さな牙を剥き出しにして必死に食らいついている。
コロは両方の前足でドクの太い手首をガッチリとホールドし、後ろ足を器用に使ってドクの腕をバシバシと連続で蹴りつけながら、軍手の繊維を千切らんばかりに首を振っていた。
Aランク魔獣の幼体とはいえ、そのアゴの力はすでに成人の骨を容易く噛み砕き、鉄骨すら歪めるレベルに達している。並の探索者であれば、防具ごと腕を食いちぎられていてもおかしくないポテンシャルだ。
しかし、過去に受けた無数のダメージストックによって神話級の硬度に達しているドクの肉体を前にしては、甘噛みのマッサージ程度の刺激にしかならない。分厚い皮膚には歯型すらつかず、一束数百円のチープな軍手は、ただの「ヨダレよけ」として機能しているだけだった。
「クゥン、アゥッ!」
自分の渾身の攻撃が全く効いていないことに苛立ったのか、コロは一度軍手から口を離し、短い尻尾をピンと立てて威嚇のポーズをとる。
そして、おもちゃを見つけた子犬のようにソファの上を目にも留まらぬ速さで跳ね回り、今度は死角であるドクの背中側から飛びかかった。
「おっと、そこか」
ドクは全く振り返ることなく、空いている左手でコロの小さな身体をふわりと受け止めた。その無骨な動作には、一切の力みも殺気もない。
そして、そのまま仰向けにして自身の太ももの上に乗せると、軍手を嵌めた右手でコロの柔らかなピンク色のお腹をワシャワシャと撫で回した。
「キャウッ、クゥン……」
あっさりと捕獲されたコロは、短い四肢を空中でバタバタとさせて数秒だけ抵抗を試みたが、ドクの指先による絶妙な腹撫での前にあっけなく陥落。気持ちよさそうに目を細め、だらんと両前足を投げ出して完全な「へそ天」状態になってしまった。
「……あの、ドクさん。聞いてます?」
「ん? ああ、聞いてるよ。コロもすっかり大きくなったなぁと思って。抱えた感じ、昨日より少し重くなった気がするし」
「コロちゃんの体重の話じゃありません! スカウトの話です!」
瞳が声を荒らげると、ソファの後ろの執務室のドアが静かに開いた。
「朝からずいぶんと賑やかね、小鳥ちゃん」
高級な香水の香りを微かに漂わせ、優雅な足取りで入ってきたのはルシアだった。
その後ろから、鍛え抜かれた筋肉を惜しげもなく晒すクロエ、理知的な視線をタブレットに向けるエレナ、慈愛に満ちたオーラを放つヴィットーリア、音もなく死角から現れたアリサラ、そして機械油の匂いが染み付いたウエスを手にした美沙が続く。
彼女たちも、瞳の元に世界中から殺到しているオファーの存在を知り、それぞれの仕事や調整を放り出して、居ても立っても居られず集まってきたのだ。
「ルシアさん……。皆さんも」
瞳は助け舟が来たとばかりに息をついた。
「ドクさんが全く危機感を持ってくれなくて。このままじゃ、どこかの国が実力行使で攫いに来かねませんよ」
「アタシらがいるのに、タナカを攫えるバカな国があるなら見てみたいもんだね」
クロエが鼻で笑いながら、ソファの背もたれにドカッと寄りかかった。
言葉では強気な態度を見せている彼女たちだったが、その視線の端には、ほんの僅かな緊張が滲んでいた。
どれほど莫大な金を積まれようと、ドク自身がそれに靡くような男ではないことは、彼女たち全員が痛いほど理解している。
だが、彼のその底なしのお人好しな性格が、「世界平和のために」や「多くの人を救うために」といった大義名分を掲げた巧妙なオファーに絡め取られてしまうのではないか。あるいは、自分たちのような面倒な連中から離れて、もっと静かな環境を求めてしまうのではないか。
口には出さないが、彼女たちの胸の奥には、ドクが遠くへ行ってしまうかもしれないという一抹の不安があった。
「で? ドクはどうしたいの?」
ルシアが赤い唇に微かな笑みを浮かべながら、探るように尋ねた。
ドクは軍手を外し、コロの頭を優しく撫でながら、不思議そうに首を傾げた。
「どうしたいって……断るに決まってるだろ」
「即答ですね。でも、向こうは『金額が足りないのか』とさらに条件を釣り上げてきます。明確に納得させる理由がないと、引き下がりませんよ」
瞳がタブレットの画面を指差す。
「理由か」
ドクは顎に手を当て、天井を見上げて少し考え込んだ。
その僅かな沈黙の間に、執務室の空気が微かに張り詰めた。エレナは無意識に息を詰め、美沙はウエスを握る手に力を込めた。
数秒後、ドクは視線を戻し、ごく当たり前の事実を述べるように口を開いた。
「ルシアさんもクロエさんも、戦闘になるとすぐ無茶して周りが見えなくなるだろ。俺が後ろについて、ポーションや武器をいつでも渡せるようにしとかないと危なくてさ。エレナさんだって、魔法の計算に夢中になると平気で飯を抜くしな。美沙さんのツナギのテストも、アリサラちゃんのトラップ拾いもあるし……ヴィットーリアさんの移動だって手伝わないといけない。俺、結構忙しいんだよ」
ドクは一人一人の顔を見渡しながら、屈託なく笑った。
「休みの日に木漏れ日荘でご飯を食べて、みんなとこうして過ごす時間が、俺には何百億の金や城なんかより、ずっと大事なんだ」
一切の虚飾も、気負いもない、ただの事実。
その言葉の重みに、執務室を支配していた僅かな緊張が、春の雪のように溶けて消え去った。
「……ハッ。当然だろ」
クロエが顔の熱を誤魔化すように鼻を鳴らし、腕を組んだ。
「アタシらの荷物持ちを、どどこの馬の骨とも分からない奴らに渡すわけないだろ」
「ふふ、そういうことね」
ルシアは美しく長い赤髪をかき上げ、隠しきれない歓喜を帯びた瞳でドクを見つめた。
「世界中の権力者や王族よりも、私たちが選ばれたってこと」
エレナは小さく息を吐いて肩の力を抜き、ブルーグリーンの瞳を優しく細めた。
ヴィットーリアは口元に手を当て、慈愛に満ちた深い笑みを浮かべている。
「……ったく。調子のいいおっさんだよ。なら、次のツナギはさらに頑丈に打ってやるから、覚悟しな」
美沙が照れ隠しのようにウエスを投げつける真似をする。
「あはっ、おじさん最高。じゃあ、明日も私のトラップ回収、手伝ってよね」
アリサラが音もなくドクの背後に回り込み、その分厚い首に腕を回してしなやかに抱きついた。
「うわっ、アリサラちゃん、危ないって」
ドクが苦笑しながらバランスを取る。その足元では、すっかり満足したコロが「ワフッ」と一声鳴き、ドクのブーツに顎を乗せて再びまどろみ始めていた。
瞳はタブレットに向き直り、軽快なタイピング音を響かせ始めた。
その横顔には、先ほどまでの疲労感は微塵もなく、清々しいほどの笑みが浮かんでいる。
「……わかりました。マネージャーとして、各国のトップにこう返信しておきます」
瞳は悪戯っぽく微笑み、胸を張った。
「『うちの専属荷物持ちは、今のパーティのサポートで手一杯なので、他国にかまけている暇はありません』って」
世界がどれほど彼を求め、どれほど莫大な対価を積もうとも。
ドクはいつものように、ただ目の前の小さな相棒の頭を優しく撫でるのだった。




