第42話 英雄の帰還
築40年を超えるボロアパート『木漏れ日荘』の四畳半に、初夏の白々とした光が障子の破れ目から差し込んでいる。
薄い壁の向こうから漏れ聞こえるテレビのニュース音声は、昨日の朝からずっと同じ話題を繰り返していた。
『――八王子ダンジョン前で発生した前代未聞のイレギュラー事態。深層ボス群をたった一撃で消滅させた謎の探索者の正体が、Dランク鑑定士のライブ配信により判明しました。彼の名は田中ドク。驚くべきことに、現在ギルドに登録されているランクは最低のFであり、職業はただの荷物持ち……』
ドクは年季の入ったちゃぶ台の上で、そのニュースをBGMのように聞き流しながら、静かに朝食を味わっていた。
土鍋で炊き上げた白米は、表面にカニ穴が開き、一粒一粒が真珠のように美しく立っている。それをお気に入りの茶碗によそい、ふっくらとした米の甘みをしっかりと噛み締める。具材は油揚げとネギだけの簡素なものだが、昆布と煮干しで丁寧に一番出汁を取った熱いみそ汁が、疲れた五臓六腑にじんわりと染み渡っていく。
「……なんか、すごい大騒ぎになってるな」
ドクは出汁の香るみそ汁で喉を潤し、他人事のように呟いた。
彼自身の認識は、世間の熱狂とは完全に乖離している。ドクは自分が「最強」だなどとは欠片も思っていなかった。長年荷物持ちとして酷使されてきた中で蓄積した様々なダメージやバフの『ストック』が、あの極限状態でたまたま暴発しただけだ。
すべてを自分の実力だと勘違いして天狗になれば、いつか必ず痛い目を見る。それが、底辺を這いつくばって生きてきた男の染み付いた処世術であり、揺るぎない自己評価だった。
「クゥン、ワフッ」
足元では、Aランク魔獣の幼体であるコロが、自身の顔よりも大きな専用のステンレスボウルに顔を突っ込み、ドッグフードと茹でた鶏肉を凄まじい勢いで平らげていた。昨日の今日で、また一回り身体が大きくなったような気がする。
ドクはコロの頭をごつい指で撫でながら、「よしよし、いっぱい食えよ」と目を細めた。
世界がどれだけひっくり返ろうと、来月の家賃が払えて、美味しくて温かいご飯が食べられればそれでいい。
そんなささやかな安堵感を胸に、ドクは以前瞳に見立ててもらった仕立ての良い黒のテーラードジャケットを羽織り、いつもの使い込まれた巨大なバックパックを背負って、アパートの扉を開けた。
★★★★★★★★★★★
「ひっ……!」
「お、おい、あれ……」
「ば、馬鹿、目を合わせるな。消し飛ばされるぞ……!」
探索者協会八王子支部の1階ロビーは、ドクが足を踏み入れた瞬間に水を打ったような静寂に包まれた。
つい数日前まで、彼を「底辺のゴミ」「盾代わり」と見下し、すれ違いざまに肩をぶつけて嘲笑っていた中堅や上位の探索者たちが、今は畏怖を込めた面持ちで一斉に潮が引くように左右に割れ、道を空けていく。彼らの瞳にあるのは、絶対的な力に対する純粋な怯えだった。
しかし、ドクはその異様な空気に首を傾げながらも、いつも通りに受付へと歩み寄った。
「あの、おはようございます。今日も何か、荷物持ちの依頼って出てますか?」
「ひゃいっ!?」
窓口にいた年配の女性職員・佐藤が、聞いたこともないような悲鳴を上げてカウンターから身を乗り出した。彼女はこれまでドクに冷たい対応をしてきた人物だが、今は顔を真っ青にして、ガタガタと震える手でドクを制止する。
「ど、どどど、ドク様! に、荷物持ちだなんてとんでもございません! 本日は協会本部より、Sランク待遇の特別報奨金と、名誉マスタークラスへの昇格手続きが……!」
「いやいや、待ってください。名誉とかSランクとか、俺にはもったいないですよ」
ドクは困ったように太い眉を下げ、ごつい手で少し頬をさすった。
「俺、本当にただちょっと荷物持ちが得意なだけで。昨日のアレも、いろんな偶然が重なって、運良く一発だけデカいのが出ただけなんです。だから、いつも通りの日当制の仕事をもらえればそれで……」
「あ、あの……!」
「あ、もし俺の顔が割れてて他のパーティが使いづらいなら、裏方の清掃業務でもいいです。力仕事には自信があるので」
底知れない力を持ちながら、微塵の驕りもなく「ただの裏方でいい」と頭を下げる男。
その一切の虚飾がない本心からの言葉は、周囲で聞き耳を立てていた探索者たちの耳には『真の強者ゆえの、圧倒的な謙遜と器の大きさ』として変換されて響いた。誰もが息を呑み、自らの底浅いプライドを恥じるように視線を落とす。
「タナカ・ドク」
困り果てる佐藤とドクの間に、涼やかな、それでいて凛とした声が割って入った。
ドクが振り返ると、ロビーの柱の陰から一人の女性が歩み寄ってくるところだった。
洗練された白いスプリングコートに身を包み、目元を大きなサングラスで隠し、キャスケットを深く被っている。しかし、その布越しからでもわかるモデルのような完璧なプロポーションと、周囲の空気をピンと張り詰めるような高貴なオーラは隠しきれていない。
「エレナさん。帰国する準備をしてたんじゃなかったんですか?」
ドクの問いに、エレナ・ヴェーバーは少しだけ言葉を区切り、サングラス越しの視線を向けた。
「事後処理と、各国のギルドへの報告書作成が残っているの。……それに、あなたにまだ、きちんとお礼を言えていなかったから」
瞳は今、ドクの専属マネージャーとしてギルド上層部と権利関係の熾烈な交渉を行っている。ルシアやクロエたちも、各国のスポンサー対応に追われている時間帯だ。エレナは自身の職務を極限まで効率化して終わらせ、この僅かな隙を意図的に狙ってここへ来ていた。
「今日、少し私に付き合ってくれないかしら」
「俺でいいなら、もちろん。でも、どこか行くんですか?」
「ええ。あなたを、少し独占したくて」
さらりと言ってのけたエレナの言葉に、周囲の探索者たちが「ひゅっ」と息を飲む音が聞こえた。
しかし当のドクは屈託のない笑みを浮かべて頷くと、カウンターの佐藤に向き直った。
「佐藤さん、すみません。今日は依頼はいいです。あと、この荷物、少しの間だけギルドで預かってもらえますか?」
「ひゃ、はいっ! 喜んでお預かりいたします、ドク様!」
★★★★★★★★★★★
八王子駅前のメインストリートは、急ピッチで復旧作業が進められていた。
崩落した瓦礫は片付けられ、魔法による土木作業でアスファルトが再舗装されていく。活気を取り戻しつつある街の中を、ドクとエレナは並んで歩いていた。
「……驚いたわ。本当に、何も気にしないのね」
エレナが隣を歩くドクを見上げて呟いた。
すれ違う人々は皆、ドクの顔を見てハッとし、遠巻きにスマートフォンを向けたり、ひそひそと囁き合ったりしている。今や彼は、歩いているだけで世界的なニュースになる存在だ。しかしドク本人は、周囲の熱狂などまるで存在しないかのように、ただ穏やかな顔で並木道を歩いている。
「気にしても仕方ないですからね。俺は俺ですし、昨日までと何も変わっていませんよ」
「あなたらしいわね。……あ、あのお店」
エレナの足が止まったのは、大通りから少し路地に入った場所にある、古めかしい魔道具専門店だった。ショーウィンドウには、特殊合金で加工された魔力増幅器や、複雑な術式が刻まれた回路基板が所狭しと並んでいる。
「日本の独自の術式理論には、以前から興味があったの。少し見てもいいかしら?」
「もちろん。ゆっくり見ていってくださいね」
店の中に入ると、エレナの理知的なブルーグリーンの瞳が、サングラスの奥で明らかに輝きを増した。
「信じられない。この増幅器の回路構成……魔力伝導率のロスを極限まで抑えるために、触媒にミスリルではなくオリハルコンの微粉末を混ぜ込んでいるのね。でも、それだと耐熱性が課題になるはずなのに、この術式の配置で熱を逃がしているなんて」
ショーケースに顔を近づけ、早口で専門用語を並べ立てるエレナ。
しばらく夢中で見入っていた彼女は、ふとハッとして我に返り、慌てて口元を押さえた。
「ご、ごめんなさい。私、つい夢中になって……退屈だったわよね。Sランクのエクスプローラーが、こんな薄暗い店で機械の部品を見てはしゃぐなんて、おかしいわよね」
「え? なんでですか? 全然おかしくないですよ」
ドクは陳列された魔道具を不思議そうに眺めながら、穏やかな声で返した。
「俺は魔法のことは全然わからないけど、エレナさんが本当に魔法が好きなんだなってことは伝わってきますよ。好きなものを見て目を輝かせている姿は、すごく魅力的だと思いますけどね」
「…………っ」
エレナは息を呑み、ドクの顔を凝視した。
彼女の頬に朱が差していくのが、薄暗い店内でもはっきりとわかった。
「……買い出しは、もういいわ。少し、休憩しましょう」
エレナは顔の熱を隠すようにサングラスを押し上げ、足早に店を出た。
★★★★★★★★★★★
オープンテラスのある落ち着いたカフェ。
淹れたてのダージリンティーの香りが漂う中、エレナはカップを両手で包み込み、向かいに座るドクを見つめた。
瞳に見立ててもらったテーラードジャケットを着こなすその姿には、普段のくたびれたジャージ姿とは違う、大人の男の静かな色気が漂っている。分厚く発達した胸板。傷だらけの手。そして、底なしに優しく、穏やかな瞳。
「ドク。あなたは、世界中から最強として称賛されている。その気になれば、どんな富も、権力も、地位も手に入るわ。……なのに、どうしてあなたは、そのままなの?」
エレナの問いに、ドクはショートケーキのイチゴをフォークで刺しながら、困ったように笑った。
「最強なんて、俺には縁のない言葉ですよ。俺はただ、荷物を背負うことしかできないから。でも……」
ドクはフォークを置き、窓の外を行き交う人々を見つめた。
「底辺で泥水をすすってた頃は、自分の命すら重くて、背負いきれなかった。でも今は……こうしてエレナさんみたいな綺麗な人と、休日に笑って過ごせる時間がある。美味しいご飯を食べて、明日も頑張ろうって思える」
「…………」
「手に入れたいものなんて、もう持ってるんです。だから、俺は俺のままでいい。このささやかな幸せが手のひらからこぼれ落ちないように、しっかり抱えて歩いていくだけですよ」
その言葉には、一切の虚栄心がなかった。
世界を滅ぼせるほどの力を持っていながら、彼が望むのはこの四畳半の延長線上にある平穏だけ。
エレナの脳裏に、あの絶望的な戦場での光景が蘇る。
自身の出力が強すぎるがゆえに、味方すら壊してしまう恐怖。長年封印してきた『全力のバフ』を、彼は一切の抵抗なくスッと吸い込み、無傷で立っていた。
エレナはゆっくりとサングラスを外し、吸い込まれるようなブルーグリーンの瞳で、ドクを真っ直ぐに射抜いた。
「私の魔力は、強すぎるの。誰かを守るための力なのに、全力を出せば味方の肉体すら破裂させてしまう。それが、ずっと怖かった。……誰も、私を受け止めてくれなかったから」
「……」
「でも、ドク。あなたは私のすべてを受け止めて、無傷で立っていた。あんなこと、私の人生で初めてだったのよ」
エレナの理知的な声が、微かに震えている。
ドクは照れくさそうに頭を掻き、ごつい手で自分の分厚い胸板をポンと叩いた。
「俺はただ、頑丈なだけですから。エレナさんがまた全力を出したい時は、いつでも俺にかけてください。全部受け止めますよ。……そういうの、荷物持ちの特権でしょう?」
その屈託のない、それでいて絶対的な安心感を伴う言葉。
エレナの胸の奥で、激しい警鐘が鳴り響いた。彼が放つ、抗いようのない圧倒的な引力。
「……馬鹿」
エレナは顔を伏せ、テーブルの下でギュッと自身のスカートの裾を握りしめた。
その頬が、見たこともないほどに赤く、熱く染まっていく。
「そんなこと言われたら、私が……勘違い、してしまうじゃない」
「えっ? 俺、何か変なこと言いましたか?」
「……本当に、鈍感なんだから」
エレナはさらに顔を赤くして、プイと横を向いた。
ドクは、彼女がなぜ怒ったのかやはり分からないまま、「冷めないうちにどうぞ」と、フォークを手に困ったように微笑むのだった。




